大発勢と、那珂湊での攻防戦
1.大発勢
水戸藩主 徳川慶篤 が分家の宍戸藩(1万石)藩主 松平頼徳に名代として水戸の鎮圧を依頼。
1864年8月4日江戸発 松平頼徳 水戸街道を下る
宍戸藩家臣30名余
水戸藩士700名余
小金井(松戸)~天狗親派等400名が参加
・武田耕雲斎
・山国兵部
松戸・石岡にて人夫を集める。最終的に1000人程
・特に鹿行地方の農民に参加を要請する。
・大洲(潮来)から40~50名
*「大発勢」は大勢という意味。水戸に着く頃には約3000名余の大所帯になっていました。
8月8日水戸着 水戸藩主の名代である松平頼徳に対し、諸生派・市川三左衛門等は応じず。水戸城に入れない為「薬王院」へ。
8月10日 約3000名の大発勢は那珂湊へ移動。
*那珂湊は回船業や漁業が盛んであり、町には豪商が軒を連ね、対岸の祝町には遊郭があったほど。
2.那珂湊へ
8月12日 「願入寺の戦い」
市川三左衛門他、水戸城兵(400~500名)は那珂川を下り来ると、華蔵院と大洗を押さえる。願入寺を占拠。
涸沼川を越えて来た大発勢と、那珂川を挟んで大砲を打ち合い戦う。大発勢の勝利。水戸城兵は水戸へ。
8月14日 筑波勢(藤田小四郎隊)大発勢に合流。
8月16,17日、大発勢・筑波勢は湊へ。
松平頼徳 旧郷校「敬業館」へ本陣を置く。
華蔵院(諸生派本陣)を激しく襲撃。
市川勢 町内へ。反射炉の敵兵を攻める。
市川勢 日和山 夤賓閣(いひんかく)に火を放つ。華蔵院焼失。
市内の大半に延焼。
8月20~23日 「神勢館の戦い」
水戸城入城の交渉をする為那珂川を上り、大発勢が水戸を目指す。
助川海防陣屋 山野辺義芸に助力を求める。
山野辺義芸 これに応じ水戸に向かうも城兵に阻まれ通行出来ず。
松平頼徳 細谷村 神勢館(武芸の訓練所「五丁矢場」)へ赴く。
2名の使者、城へ。
市川勢これを拒絶し、神勢館に砲撃。
双方に死者あり、決着つかず。
味方兵士の疲労が激しい事、かつ入城の見通しも立たない為
頼徳はひとまず那珂湊へ退却。
8月末 小川館より、田村稲之衛門率いる筑波勢が藤田小四郎隊と合流(約800名)湊に入る。
9月1日 小川館より、潮来勢(林五郎三郎他、約200名) 湊へ。
幕府令 ・舟の使用を禁止する。(食料調達が出来ない)
・道幅をせばめる。(大砲が使えない)
幕府追討軍(39藩約13,000名) 湊を包囲。
・田沼意尊(おきたか) 水戸弘道館へ。
・東北諸藩 常陸太田へ。
関東諸藩 水戸へ。常澄 長福寺に拠点。
旗本(3000名) 鉾田へ。
・軍艦を沖につけ、空に向かって撃つ。
・農民(常澄・勝田) 鉛で鉄砲の弾を作らせる。
弾除けに畳を没収する。
・水戸鯉渕の農民(34ヶ村・約1000名)、田中愿蔵を警戒して組合を作る。諸生派に鉄砲を借りる。→湊の戦いに参加。
*激戦地 部田野(へたの)
*焼失 徳川光圀 が建てた「夤賓閣(いひんかく)」
徳川斉昭 が建てた「反射炉」
郷校「文武館」・旧郷校「敬業館」
「神勢館」
3.松平頼徳の最期
9月22日 砲戦中にも関わらず、田中之助が井田好徳の陣に投じる。
頼徳に面談求む。「平和に解決する意思あるなら弁明に当たりたい」
武田耕雲斎・山国兵部は策略と疑いますが、頼徳は意見を聞かず「休戦して後報を待つように」と言いつけます。
9月26日 頼徳一行(約30名) 湊を出て、長福寺の戸田五助(諸生派指揮官)に会う。
戸田五助は田沼意尊に相談を持ち掛けますが「江戸に帰してはならない」
その裏には、頼徳の水戸城入城を拒んだ事を藩主に知られたくない、
市川三左衛門の思惑もありました。
かくて松平頼徳公は敵の策略に落ちて行きます。
松河藩(の宿泊所?)に宿泊後
涸沼、石岡を通り水戸街道を抜けて、江戸へ出ようとします。
9月27日 堅倉にて水戸城兵に捕らえられる。
10月1日 松平頼徳と父・宍戸藩主頼位の官位を没収。宍戸藩はお取り潰し。
10月5日 松平頼徳 切腹。36歳。
鳥居瀬兵衛・大久保甚五左衛門等、17名が死罪。
宍戸藩士 自刃。
水戸藩士 自刃。
*湊の大発勢(榊原新左衛門他 約800名)は、「松平頼徳 切腹」を誰もしりません。
4.大発勢の投降
10月21日 「岩船山下の船中の会見」
水戸の中間派(諸生派より)と大発勢の会合
その後大発勢代表は館山にて耕雲斎、小四郎等と会合。
「ワナだ」として止められますが・・。
*密約あり
折衝役都築鐐太郎 「斬首など行わない」「投降者は蝦夷地開拓の業に従わせる」
榊原新左衛門 「幕軍に味方して賊徒(天狗派)を追討しよう」
10月23日 大発勢の降伏。長福寺へ。捕縛。
千葉県側の藩へ預けられる(6藩のち11藩に分けて預けられる)
・古河藩には榊原新左衛門他 6名。
大発勢は死罪・獄死(約600名)
*参考書籍 室伏勇「写真紀行 天狗党追録」
*幕府追討軍が来てからの「那珂湊の戦い」は激戦であり、また複雑です。
(大発勢・武田勢・筑波勢・潮来勢が別々に行動していたため)
数に勝る幕府追討軍は苦戦を続け、諸生派は「松平頼徳公と、大発勢を落とし入れる」という策に出ました。
もともとは天狗派でも諸生派でもなく、水戸藩主名代として、松平頼徳公は鎮撫をしなければならない立場です。それがタイミングの妙で、天狗派とともに諸生派・(同じく鎮撫の)幕府追討軍と戦っている・・その複雑な立場と心情につけ込んだのでしょう。(2012,5,24 改記)
また最も大軍の大発勢に去られ(寝返られ)た天狗派は、間一髪でそれぞれ北方へ脱出し大子へ向かいます。
次は潮来勢と「那珂湊の戦い」を少し詳しく。
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