あやめの里便り

茨城県潮来市近辺の話題。

幕末

2006年11月24日 | 潮来・茨城の歴史

幕末の潮来

1.水戸では
八代藩主斉修の後継を巡る争い
 「改革派」・・弟・斉昭を擁立(「天狗」と言われる)
「保守門閥派」・・将軍の子・清水恒之丞を擁立(「奸人・奸党」と言われる)
  
結果、九代藩主は斉昭公に。
改革派には藤田東湖がおり、その後斉昭とともに「弘道館」を創り上げて行くことになります。

その他
・「日米通商条約」に反対
・井伊直弼の政治を批判する密勅「勅諚」
・桜田門外の変・・
水戸藩・もしくは水戸藩士・浪人・領民が関わった事件は多々。

2.潮来郷校
潮来郷校は1856年に開校。
水戸学や武術を教える。
「潮来鎮台(潮来陣屋)」は、この潮来郷校の尊王攘夷激派を鎮撫する為に1864年に作られたが、水戸から派遣された武田耕雲斎は、(後に)逆に激派の中心メンバーとなる。

3.西上へ
京都に駐在する一橋慶喜を頼り、武田耕雲斎を総大将に総勢約1000名が西上の旅にでる。
結果・・敦賀にて353名もの大量処刑。
(潮来・牛堀からも140名近くが犠牲になっているそうです)

4.茨城で活躍した女性達

①「中島歌子」
  『萩の舎』で樋口一葉にも教授した歌人。
  夫・林忠左衛門が天狗派であったため、幕末の混乱期には諸生派により獄舎に繋がれたことがある。
②「山川菊枝」
  第二次大戦後、GHQより労働省婦人少年局長に推され就任する。
  夫・山川均は日本共産党を創立。
  祖父は水戸藩士。
③「山下りん」
  聖像画(イコン)の画家。
  笠間藩士の家柄であるが、早くに父親を亡くし、廃藩置県により(武士はお払い箱)扶持が無くなり、一家は苦労を重ねる。
  本人も家出をしたり、後に牧野家より学費を得て美術学校に通う。

④「徳川幹子」
  鳥取藩主池田家より、一橋徳川家徳川宗敬(むねよし)に嫁ぐ。
  華族生活から開拓農民へ。











コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2006茨城県高等学校演劇祭・結果 | トップ | 幕末その2 »

コメントを投稿

潮来・茨城の歴史」カテゴリの最新記事