さて遅くなりましたが、幕末の水戸藩についてちょっとだけ詳しく。
文久2年(1862)「生麦事件」
3年(1863)3月。将軍家茂が上京
○将軍後見職の徳川慶喜が先発として、水戸藩主徳川慶篤が後発として上京。
○その後、生麦事件の賠償を巡りイギリスと揉めていたこともあり、慶篤は将軍目代として、4月に江戸に帰っています。
(幕府は朝廷に、5月10日を期して攘夷実行と約束しましたが、結局どうすることも出来ずに「8月18日の政変」を向かえてしまいます)
○「安政の大地震」で圧死した藤田東湖の遺児・藤田小四郎らも慶篤について上京。長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞らと京都で会い、攘夷の信念を強めたと言います。(7月から10月にかけて玉造・小川・湊郷校で尊攘派の集会が開かれる)
元治元年(1864)3月27日、天狗党が攘夷の実行(横浜封鎖)を目指して筑波山に挙兵。
○遡って1月、桂小五郎は烈公の墓参と称して水戸へ出向き、支度金500両を渡しています。
○「禁門の変」「第一次長州征伐」と世間では一大事が続く中、
8月4日、慶篤(江戸から動けず)は、支藩である宍戸藩の兵(大発勢)を送りますが、門閥派が水戸を占拠している為水戸には入れず、心ならずも天狗党と共に戦う格好となり、指揮をとっていた宍戸藩主松平頼徳は幕命により投獄され、10月5日切腹。同20日大発勢は幕軍に投降します。
○水戸城下に入れなかった天狗党は湊村へ。10月下旬まで激戦となります。
11月1日、天狗党本体は大子を出発。
○京都の慶喜を頼りに西上(その数1000人余り)。各地で戦いになります。
12月16日、慶喜自身が自分達の鎮圧の為出陣した事を知り、越前新保宿にて降伏。
慶応元年(1865) 2月4日 幕府によって天狗党352人を処刑
○一方、天狗党には地元出身でない者、農民(日米通商条約により打撃を受けた絹織物の産地の者等)が、多く参加していました。
(当時、物価は5~7倍に跳ね上がり、また小判(金)の流出により貨幣価値は1/7に下がり、暮らしを圧迫したと言います)
彼らは水戸攻めよりも当初の目的通り攘夷の実行をと、鹿島から横浜を目指そうとしますが、幕府によって「船は隠し、船頭は隠れるように」と命令があった為、それらを手に入れることが出来ず、幕軍と戦いつつ内陸に追われて行きます。
潮来であった「騒ぎ」はこの時のものでしょう。
彼らも、最後には麻生藩に捕縛され、処刑されたのでした。
○その後も諸生派(門閥派側)は天狗党に、天狗党は諸生派に、それぞれが血で血を洗う報復で、水戸藩は「攘夷そっちのけの水戸内戦」に陥りました。
※本当はもっと複雑です・・。
参考書籍
鈴木暎一氏著「水戸弘道館小史」
山川菊栄氏著「覚書・幕末の水戸藩」
潮来町郷土史研究会「ふるさと潮来」第8号
文久2年(1862)「生麦事件」
3年(1863)3月。将軍家茂が上京
○将軍後見職の徳川慶喜が先発として、水戸藩主徳川慶篤が後発として上京。
○その後、生麦事件の賠償を巡りイギリスと揉めていたこともあり、慶篤は将軍目代として、4月に江戸に帰っています。
(幕府は朝廷に、5月10日を期して攘夷実行と約束しましたが、結局どうすることも出来ずに「8月18日の政変」を向かえてしまいます)
○「安政の大地震」で圧死した藤田東湖の遺児・藤田小四郎らも慶篤について上京。長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞らと京都で会い、攘夷の信念を強めたと言います。(7月から10月にかけて玉造・小川・湊郷校で尊攘派の集会が開かれる)
元治元年(1864)3月27日、天狗党が攘夷の実行(横浜封鎖)を目指して筑波山に挙兵。
○遡って1月、桂小五郎は烈公の墓参と称して水戸へ出向き、支度金500両を渡しています。
○「禁門の変」「第一次長州征伐」と世間では一大事が続く中、
8月4日、慶篤(江戸から動けず)は、支藩である宍戸藩の兵(大発勢)を送りますが、門閥派が水戸を占拠している為水戸には入れず、心ならずも天狗党と共に戦う格好となり、指揮をとっていた宍戸藩主松平頼徳は幕命により投獄され、10月5日切腹。同20日大発勢は幕軍に投降します。
○水戸城下に入れなかった天狗党は湊村へ。10月下旬まで激戦となります。
11月1日、天狗党本体は大子を出発。
○京都の慶喜を頼りに西上(その数1000人余り)。各地で戦いになります。
12月16日、慶喜自身が自分達の鎮圧の為出陣した事を知り、越前新保宿にて降伏。
慶応元年(1865) 2月4日 幕府によって天狗党352人を処刑
○一方、天狗党には地元出身でない者、農民(日米通商条約により打撃を受けた絹織物の産地の者等)が、多く参加していました。
(当時、物価は5~7倍に跳ね上がり、また小判(金)の流出により貨幣価値は1/7に下がり、暮らしを圧迫したと言います)
彼らは水戸攻めよりも当初の目的通り攘夷の実行をと、鹿島から横浜を目指そうとしますが、幕府によって「船は隠し、船頭は隠れるように」と命令があった為、それらを手に入れることが出来ず、幕軍と戦いつつ内陸に追われて行きます。
潮来であった「騒ぎ」はこの時のものでしょう。
彼らも、最後には麻生藩に捕縛され、処刑されたのでした。
○その後も諸生派(門閥派側)は天狗党に、天狗党は諸生派に、それぞれが血で血を洗う報復で、水戸藩は「攘夷そっちのけの水戸内戦」に陥りました。
※本当はもっと複雑です・・。
参考書籍
鈴木暎一氏著「水戸弘道館小史」
山川菊栄氏著「覚書・幕末の水戸藩」
潮来町郷土史研究会「ふるさと潮来」第8号
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