フラッシュバックなのか、当時を思い出したので。
でも夏に未遂事件を起こしたせいか、探したけど当時の手帳がない(2012年からはあったのだが)。
つらつら体験記で、こうしたらいいよとかいう類いの知恵袋は一切ない。自分の記憶整理で、ひたすらこういうことがあったよ、辛かったよという文章です。
11日会社で被災。1時間ほど外に避難するが、3月なのに雪が降ってきて(正確には風花か)なかなか寒かった、高温職場は半袖作業者もいるので、外に出されて地獄だったんじゃないか(中は管理職や設備担当が見て回って、設備や棚の倒壊はあれど火事など事故はなし)。沿岸は津波という話を聞く(会社は山の中)。市内も大渋滞で、3kmの社宅に帰るまでに結構な時間がかかった。6階建の5階に住んでいたが、ベランダの鍵を閉めてなかったらしく窓全開、ベランダにまで荷物散乱。作り付けのキッチンセット以外全部倒れてた。断水、ガスも止まってる、電気だけ来てた。自販機でお茶とコーヒーペットボトル1本ずつ買う(翌日通りかかったら全部売り切れてた)。コンビニ等はすでに閉店。近所の別の社宅の1階の一室で、8人くらいで雑魚寝。でも一晩でかなりストレスになり、12日午前中から自室に戻る。
スーパーが開くと聞いて、徒歩で買い物。菓子パンとかお菓子とか飲料とかのすぐ口にできそうなものはすでになくて、青果精肉鮮魚(冷凍品を解凍したのかな)、今日限りの在庫放出と分かるラインナップ。リンゴ1袋と肉1パック買った。オーブンレンジは割れたがオーブントースターが生きていたので焼けるだろうと、あの時はカセットコンロ持ってなかった。10日に食パン買ってあったので、基本的にはそれトーストして食べてた。お湯は沸かせなかったけど、近所の人がお米炊いたよっておにぎりくれたりして。ある程度荷物寄せて、NHK点けながら布団で寝る(元々ベッドじゃなくて敷き布団だったので、敷けば寝れた)(テレビは19インチ、起こしたら点いた。今でも使ってる)。
14日は、会社は男性で動ける人だけと連絡が来て、ありがたく家の片付けを続ける(多分トイレの問題もあったろう)(私は近所の水路からバケツ往復してた、後で簡易トイレ買った)。岩手宮城出身者には実家に向かう選択をする人も出てくる(その後、家族や親戚が無事でもそうでなくても辞めていった人もいる)。社宅は外壁剥がれが起きている(内側も所々剥がれてたけど)、柱にヒビも見えるので、残る人は近所の別の社宅に移るよう言われる。ガソリンがない、食料も入ってこない(原発、放射線の影響で、ガソリンも食料も手前で引き返す、届けられないと報道で見た。飲料水は市内で数時間並べば何とか。私は自前の備蓄でしのいだ)、原発の報道で遠くに避難しなきゃいけないのでは?という空気になっていた。でも沿岸の道は通れない、高速道路も通れない、内陸を回れば出られる?ガソリン保つかな?
1階で雑魚寝したメンバーは、ガソリンが一番残っている車に相乗りで、下道でまず新潟を目指し、それから東京に向かうとのこと。他も大体そんな感じで脱出していく、一気に人がいなくなる。……段々追い詰められる。
当時、自車にはガソリン半分くらい入っていて、普段の高速道路だったら実家まで保っただろう。でも封鎖されてるし、下道は橋が落ちてあそこは通れないとか渋滞してるとか何時間並んでも結局給油できないとかなってて、一人じゃ見知らぬ土地で行き倒れる率が高そうで踏ん切れなかった。放射線の方が、目に見えない分そっちまで気に病んでいられない感じだったな、なるべく外に出るな、窓を開けるな言われて、春だしそうしてたけど。
みんないなくなって、このまま一人死んでいくのだろうかと思って泣いていたら、同県出身者が「もう出るけど」ってあいさつに来てくれて、見かねて、乗せていってあげるよ、一緒に帰ろう、と。あれがなかったら翌々日ぐらい?原発爆発報道出て、市内の社員や家族は全員避難しろって会社からも指示出たので、もっと困っていたかも。その時残っていた同期は、試しに高速インターに行ってみたら、脱出のためなら良いよって入れてもらえて、サービスエリアで給油できたそうだが。(緊急車両のみ通れるようになっていた。)……大体は東京とか関東の親戚や知人を頼ったようだけど、そうでない人はどうしたんだろうなぁ。伯母は伯父が半身不随だし立地が後の帰宅困難区域?その近隣だったか?で、行政に頼れたようだが。(でも被災直後は、自車で一族放浪の旅をしていた、伯母のが壮絶な体験記書けると思う。)
渋滞を避けようということで、18時か19時に出発、沿岸の下道を選んでた、その辺りは同県出身者やその旦那さんたちにお任せ。津波かぶった後で車やら船やらが転がっていた。全く進まないというほどではなく、県境を越える。あとはひたすら走って彼女の実家に着いたのが2時くらい?父が迎えに来てくれて、別の同県出身者の男の子を乗せて彼の実家まで送っていき、自分の実家に着いたのが4時か5時。途中の道路もガッタガタだった、よく実家建ってたな…(そして今も建っているが、当時で築60年くらい。母屋は戦後廃材で建てたので、柱、目に見えて曲がってるのだが。別にわびさびではないはず…ふすまや障子の端に三角形の隙間ができる)。
実家でのんびりという訳にもいかず、21日?28日?には会社再開、来い、言われて舞い戻る、備蓄やカセットコンロ等持って。同県出身者には地元のどら焼き(行列のできる名物)を配った、でも今日中に食べてね! …何日だったか手帳がないから分からない、今見たらこのブログの履歴もない(夏の未遂事件前に全部捨ててるや、これ)。岩手宮城出身の同期や後輩は1週間遅れで復帰したが、年内に退職、出身の地元で働きたいと。他にも、転勤してすぐや単身赴任者には辞めていく人もいたなぁ。中国出身者は軒並み辞めていった、やっぱり自国の家族、親戚から帰ってこいって言われると。
4月になっても新入社員を入れる状態じゃなく、7月に遅らせる。工場の床はガタガタで、後に床下に補填材を入れる、後年は新工場も建った(会社が復興したの本当に良かった)。オフィスは防煙ガラスが散乱したので強化プラスチックにしたんだっけかどうだったか。天井が全落ちしたオフィスは立ち入り禁止、そうでないとこも壁際は余震の度に落ちてくるので、事前に外して、ビニールシートを張る。配管は、ずれたところは全てフレキシブル継手に付け替え。
社宅戻ったら建屋入口前の、合併浄化槽の上(アスファルト舗装)が割れて、3m四方の穴が開いてた。トラック落ちかかっててなかなかの光景。運転手さんいなくなってて、脱出できたんだろうけど、大変だったろうな…いや、無人のときに割れたのだろうか? しばらく自室で生活したが、一度全員出して建屋修理するということで、4月9日一斉引越し。
翌々日有給使って片付けてたら(12畳から8畳になったので、荷物が入らなくてさ…)、強めの余震が来ておじゃんになる(生き残っていたトースターが落ちて割れた、以来うちにトースターはない。オーブンレンジは居室の床に直置き)。以後、震度3とか4が来る度に家の中が散乱する…。震災でも残ったアパートを借り上げ社宅にしたんだが、地盤か建屋が相当アレなのか、他の人が「え、平気だったよ?」言うんだけどうちのアパートはダメだった。「もうイヤ」って出て行く人が多くて、3年、5年もすれば残っているの私だけだったのでは(社員が住んでいる部屋ごとに借り上げ社宅にしていたので、他の部屋には同じ会社じゃない人が住むようになった。大体除染作業員らしき人々で、数年たつとまた入れ替わった)。昨年ついに取り壊しが決まって、引っ越す。私の部屋は平気だったが、部屋によっては度重なる地震でベランダに吊っていた室外機が落ちたとか、壁と壁に隙間が2cmもできてしまって、隣室が楽々見えるくらいだったとか、そりゃ引っ越すわ…。引越し前に片付けてたら、私の部屋も室外機片方落ちかかってるのに気付いた、最後まで落ちなかったのだから良しとしよう…。(うちの会社は30歳過ぎると社宅扱い終了して、全額自己負担になるんだが、家賃めっちゃ安かったのでそのまま住んでた。元の社宅として建てた建物は、新入社員入れるので追い出されるんだけどね。元の社宅は修理して、今でも新入社員を入れることになると、年齢上から追い出される。)
当時の恋人振ったのも震災がらみだったな、震災直後、「はあ?私の方がずっとずっと大変なんですけど?!」となり…(まだ当初は情報が錯綜していたので、向こうも分からなかったのだろう)。遠恋は向いてなかった。…まだ付き合っていたはずだが、脱出前、一人で死ぬのかってもう決定事項のように考えていたしな…。夏に向かってどんどんメンタルダメになっていって、割とひどいことしたので、未遂事件後は謝罪メールして、返信もらってそれで終わりにした。
7月の終わり頃、当時の上司と折り合いが悪くて、中学高校大学と辛いことがあっても環境が変わればと思ってやってきたけど就職して4年目、もうこの先変わらないだろうと、特に就活では今の会社以外全部落ちていたので、先はないなって未遂事件を起こす。結局失敗して、後に会社との面談で上司の上司や私の父が「震災もあったから」って結論出そうとして腹が立ったけど、今思えばそれなりに影響はあったかもしれない。やっぱり常とは違う状況になったから。同県出身者に助けられたけど、その前の、世界に見捨てられた感が強烈だった気がする。
……自分より壮絶な目に遭った人、あるいはそうでなくとも傷付いた人(それで何だか負い目を感じている人)、たくさんいるんだろうなぁ。でもどこも恨めない。
今も無事を祈り、支援していくだけ。
(辛い思いをした人は、こうして話したり書いたりしたらいいと思う。思い出して辛いけど、少しずつ片付けることができる。自覚なかったことに気付くこともあるし。)(別に後から読み返す必要はないと思う。親が終活中で、私の子供の頃の日記帳を見つけてくる、「あんたマメね、全部書いてある」言うけど、私自身は読み返さないぞ!)