私の脳打撲障害について医学会への懇請
木村直樹
頭脳打撲による頭頂部内部の神経喪失についての訴え
私は、高校3年生に被った頭脳打撲により、頭頂部内部の神経喪失が生じました。私の人生を変えたその障害は、これまでずっと引き続いており、多くの医師へも打ち明け、悩んできました。自分の生涯を変える致命的な事件でした。
昨年7月、90歳の誕生日、卒寿を迎え、社会的な毀誉褒貶から離れる年になりました。ブログで公開し、その損傷-後遺症につき、認識を得る活動をするよう心に決めました。
脳医科学会をはじめ、多くの皆様のご理解を頂けるようよう努めて参ります。
これまで、何回も医師や周囲の方へお話をし、この事象の確認、それへの対応を考えて下さるよう訴え、事実を認めた上での診断を求めて来ました。
これに対し、診察されてきた医師から全て、「思い間違いである」とか、「憂鬱症」「神経症的なもの」「医学的にそのような文献はない」、あるいは「辛いですね」などのお話しでした。
私の終生の望みとなっていることは、次の事柄です。
- 今の、頭脳一部感覚喪失の障害の事実を医学的検査の上、確認して頂きたい。
- その原因を究明し、脳組織上の変化を科学的に解明して頂きたい。
- また、そのような疾患が生じた時の、本人の日常の対応のあり方を、医学的に説明して頂きたい。
- 今ではもう無理とは思いますが、この欠落(恐らく脳神経一部切断)を補い、元へ修復して欲しい。
これからの文の内容は次の順で記します。
1.障害の実態、障害による生活の一変。
2.障害発生後の診察を受けた医師の診断の記録
3.事件発生前の自分の能力
4.障害発生後の自分史
- 障害の実態、障害による生活の変化
事件は1950年5月初旬、在籍高校の教室前廊下で、授業開始前の朝でした。友人と窓辺にもたれかかり、体を窓辺に預けて話し合っていた時、後ろから来た友達に突残、足をすくわれ、私は窓の棧に左後頭部を強く打ちながら倒れました。すぐに立ち上がり、単なるいたずらと友達も笑っていましたが、事変はその時以来発生したのです。
私の後頭部内の感覚の喪失(つむじの内側)は、その時、発生し、今日まで休む時もなく続いております。
事件の当日とそれから、2,3日、すぐ近くのあんま治療士にマッサージを受けましたが効果はありませんでした。
私は、後述の通り、それ以後、多くの医師に何回も診察をお願いしました。そこでの回答は、いつも、思い過ごしであるとされ、脳医学的にあり得ないとか憂鬱症的なもの、と言われたこともあります。
事態は次の通りです。
- 頭頂部内側の知覚が全くない
頭頂部(つむじ)の内側に感覚が全くない。
打撲前は、ここに知覚が集中し、物を考えると引き締まり、口の奥がギュッと引き締まった。だから、歯の奥が堅く結ばれ、口元も締まらない。
今は、物を考え、本を読んでも、額のみに知覚があり、口元も前歯の方で引き締まるが、奥歯は全く締まらない。(以前は考える時。奥歯も締まり口元もそれに伴って固く締まった。今は、前歯と口元だけが締まる)。
そのため、読書を長時間続けると、額の内側が疲れ、やがて痛くなり、長時間継続は苦しくなる。
抽象的な思考、論理的な思考も、この打撲以来、薄らいだ。
美しいものや、情況への感動も、それ以来変わり、乏しくなった。
- 瞳に力を失った
瞳の輝き、眼力がなくなりました。瞳は脳の頭頂部と結びついていると思います。頭頂部の神経の機能が失われたために、瞳もまた、神経の働きを失ったと思います。
脳打撲以前、私は眼差しが強い方だったと思います。子どもの頃から、目が大きい、と言われました。それが変わりました。「瞳のように大事にする」「目から心へ届く」「目配り」「目で合図する」などは、自分にはできないことになっています。
- にらめっこ、などは自分にはできません。瞳と脳の頂頭部とは結びついていると思います。
- 人から見つめられたり、睨まれても、こちらで見返したり、睨み返すことができません。そこで、下を向いたりすることになります。
- 私は、人と目で会話ができない、人と目で合図できない、「目は口ほどに物を言い」の機能がない、という点で、障害を持つ者と思っています。
- 人に会ってもその人と認知せずに過ごすことが多い、人の気配を感じられない。そのため旧知の人に出会っても認知できず、知らずに失礼して過ごすことが多くある。
2.障害発生後の診察を受けた医師の診断の記録
これまで、診察を受けた医師、周辺におられた方の診断について記します。
- 打撲の当日、頭の異変を母に話し、近くの整体院で頭のさすり治療を数日してもらいました。しかし、よい影響は出ませんでした。
- 数ヶ月後の夏休み、当時慶応大学医学部のインターン生だった従兄弟(父の兄の長男)を、慶大病院の研究室に訪ね、同僚の医師が一緒に面談され、鉄用具で頭を叩いたりして、診断を受けました。結局、異常はなく、思い込みであり、内向的な性質からもある、と同僚医師も従兄弟も話していました。
- 同年夏休み、東大病院神経科を受診しました。やはり、憂鬱症、と言われました。そして、電気ショックを勧められましたが、私の意に反することで、受けずに帰りました。不満なのでまた受診に行く、そのようなことが、数回繰り返されました。
- 繰り返す内、大学入学後、診察された東大病院の先生(畑下一男先生というお名前と思います。後に、飯田橋の逓信病院の医師のお名前で、新聞に原稿を記されたのを見ました)が、「そうまで言うならしっかり見てみよう、その内容は学術論文などにも引用することがあるかも知れないが、よいか」、と言われ、承諾の上、何回か先生の研究室で面接を受けました。その最後、先生は、「このような話をする以外は正常だ。」と言われ、慶応病院の従兄弟などで受けたように、鉄の機器で頭を打診し、異常はない、とのことで終わりました。
- その後都立高校の教員になりました。事実の理解を得る希望は、いつも持ち続けました。記憶するだけでも、〇代々木病院でMRI診察を受け異常なしと言われる、〇立川相互病院でも機械による検査も受け異常なしとされる、〇定年退職後、国分寺ひかり診療所が出来、誕生以来、所長の先生にお話しし、相談しましたが、いつも、同様の回答でした。
- 2009年11月、脳科学総合研究センターの朝日新聞広告を見て、審査要請のメールを送り詳細をそこに記しました。メールでのご返事は、当所は研究機関であり、診察は禁じられているが、大学での研究は進展している、大学病院に行くように、とのことでした。
このメールの往復の抜粋を記させて頂きます。
〇脳科学総合研究センター宛のメール
脳の知覚検査受診の要請
60年にわたる長年、希望の検査を受けられずに、悩んできました。今度、こちらの「理化学研究所、脳科学総合研究センター」のご活動を知り、ぜひ、受診させて頂きたく、下記の通り、お願いのメールをお送りします。(以下、症状説明など、省略)
〇2009年11月17日:頂いた返書
木村直樹様;
お手紙拝見いたしました。長い間患ってこられて大変であったろうと思いま
す。多分、八方手を尽くしても納得にいく答えが得られないので、問い合わせて
こられたのであろうと推察します。確かに、私のところでは、最先端の研究をし
ているわけですが、最先端であるがゆえに、扱っている分野は大変狭いのです。
具体的には視覚の研究をしておりまして、木村様の直面している問題(痛み寒暖
の知覚)を解決する手段は持ち合わせておりません。残念ではありますが、お手
伝いすることが出来ないことをお許しください。
一般的な検査ということになりますと、やはり大病院には多くの機器と広範な
分野の専門家がいますので、そちらにかかられることがベストではないかと思い
ます。(谷藤)
〇頂いたご返事2
2009年11月19日・脳科学研究所よりのメール受信の手紙
日ごろより弊所の活動にご関心をお持ちいただきましてありがとうございます。
さて、お問合せいただきました脳の知覚検診の件についてですが、私ども脳科学総合研究センターは、基礎研究機関として試験研究を行うように定められているため、医療診断行為をしてはいけないことになっております。私どもの研究に基づく知見が学会発表等を通して、医療現場の技術に間接的に結びつくまでには、多くの過程を経なければいけないため、国民の皆様のお役に立てるまで若干のお時間を要する次第です。
従いまして、残念ながらご希望に沿うことはできない状況にございます。まずは、詳細につきましては、やはり大学病院等の医師の方にご相談頂くのが最適と存じます。
ご理解頂ければ幸いに存じます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
脳科学総合研究センター
3.事件発生前の自分の能力
私はこれまで、打撲直後はみんなに話したり、相談したりしましたが、病院でも受け入れられないことを経験してからは、このようなことの口外は、神経症扱いされるだけなので一切しませんでした。
また、打撲以前の能力を話すことは、不遜であると共に、空想的な空論としかなり得ないので、一切していません。
しかし、今回は、医学的理解を頂くため、打撲以前の事柄を記し、情況を記させて頂きます。
私は、打撲以前は、いわば特別な秀才として周りの人から扱われてきました。
その事柄を記します。
- 小学校2年生の時、授業で提出した私の「詩」を担任の先生が黒板いっぱいに書かれました。
電信柱に雀が三羽
飛んで移ってまた飛んだ
一羽の雀はどこ行った
~
(以下4番まであったのですが忘れました)
- 小学校6年生の時、暗算がとても速かった。足し算を先生がみんなに答え求めて〇+〇は?と聞かれた時、即座に答えを言うことが続くので、私は言わないようにされた。
- 高校2年時、「木村の社会科答案が全クラス一人満点だ」と他教室で先生が言われた、と聞かされた。
- 高校2年生の時、「大泉高校新聞」をクラブとして友達と作り、ペンネームをQとして、論説を書いていた。校長との懇談を記事に書いたりした。
編集長として全校集会で壇上に立ち、ニュース趣旨の説明やそれへの協力を求める話をしたこともあった。
事故後の高校3年時、廊下を歩いていた時、校長から校長室に呼ばれて「何か心配事があるのか」と聞かれました。それまで校長室で取材し、全校集会で話す者が、ふさいでいるのを、気遣われたと思います。
⑤高校2年ころ、先に記した慶応大学インターンの従兄弟が来宅時、話し合っていると、「木村家最初の東大生になるだろう」と言われた。
⑥事件発生前までの自分の能力
抽象的思考力、美的感受性
打撲前は、論理的思考力にすぐれ、高校新聞の論説、哲学書の購読、美的感受性もすぐれていた。それが、失われた。
学問が、あらゆる事象にも当てはめられ、○○学として研究できることに将来の夢を感じた。学究生活に入ると思っていた。
将棋も強かった。7~8手の先まで読み、相手をうならせたことも再々だった。今は、それがないので、将棋には近づかない。
高2当時、神保町の路地売りで買った万年筆が、趣味豊かで、大学生の時褒められ、悔しい思いをした。
4.障害発生後の自分史
これらの、自分ではそれが当たり前と思う情況が、頭脳打撲後、一変しました。
打撲で、これだけはよかったと思うことは、弱い人の気持ちが分かるようになったことはあります。
それ以外は痛恨の連続で、異常さがいつも感じられるので、生活から離れることはありません。身体障害者が負う痛み同様です。
しかし、その自分が本来の自分として周りから扱われますから、私自身も、それなりに最善を尽くしてきました。
友達も当然、変わっていきました。
私立大学経済学部に入り、教職課程をとり、教員免許を取得し、商業科の東京都採用試験に合格し、都立高校教員になりました。
60歳まで、38年間教諭として勤務し、5年の再雇用期間の教員生活を経て、年金生活になりました。
その後、老人会などの社会的な、友誼団体に属し、そこで役員としての世話役も行いました、役職も高齢故に降り、一般会員としての生活を送っています。
家族にも恵まれ、子や孫たちも元気です。周囲の社会的なつながりも円満に過ごさせて貰っています。
終わりに
私の人生は、この脳打撲、一打によって、完全に変わりました。
私の終生の望みとなった冒頭記した4点は、少しでも実現へ取りかかりが出来るよう、これからも努めて参ります。
また、私の障害の事実の医学的な認識が得られるよう、今後は氏名を明らかにし、顕名で訴えを書かせていただきます
どうか私の頭脳障害への正当な認識が医学的に生まれ、社会的にも認められるよう願い、そのための努力を続けて参ります。
よろしくお願い申し上げます。
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