家に戻った、次の朝、私は母が戻らない事で、どうしたら良いか、何をしたら良いか解らず、まず、出来る事から、始めないとと思い、まず姉さんたちが、進める遺体安置所廻り、私は、未だ生きているか?死んでいるか?未だ解らない状態で、気持ちもおちついいないのにと、思いながら?。現場に行き、自分の足で探したいとも考えたのですがどこを、どう探したら良いか解りませんでした。まず言われるまま、米崎中と矢作に安置所が有ると聞き、行って見る事にしました。その日は両方を探したのですが、どちらにも、見つける事が出来ず、帰って来ました。津波の怖さ、恐ろしさなどこの様な体験は、出来れば遭遇したく無いと思いました。廻りの話を、聞いていますと、生存者の救出、その後道路の確保しながら、遺体収容となっていく様でした、ただ待つだけで自分では、どうすることも出来ず、何処をどう探して良いかも解らず、ただ、ただ見つかる事を、祈る事しか有りませんでした。
三月十四日は、埼玉の現場で、いつも通り仕事をしていました。ところが朝九時半頃、自分の姉の旦那、義理の兄より、母さんが、震災の時高田に、買い物に行き、帰って来ていない!、直ぐに戻って来るように!と連絡が有り。何が何だか解らない、状況で、直ぐに現場を後にしました。たまたま、前日に油を満タンに入れてあり、予備に二十リットルあったので、もらい助かりました。途中、高速道路は、通行止め、災害救助、緊急車両のみ通行可でした。そこで国道四号線を北へと走らせ、途中食量、を仕入れたかったけど、どこの、コンビ二、スーパーにも、食料品はほとんど無く、油も買い置きしたかったが、混んでいて、いつ入れれるか解らない、状況でした。途中原発の水素爆発のため、消防などの緊急車両が走り、福島市内で、大規模な崖崩れ通行止め、迂回をし、かなりの渋滞でした。その後暗くなった頃、会社より、途中の現場が心配なので、見て来て欲しい!私はそれどこではなかったのですが、しかたなく、二時間程寄って来ました、そこの元現場は、瓦がところどころ落ちていました、が大きな被害いが無かったようです、でも行く途中、阿武隈川にかかってた橋の、手前で、道路と橋との段差が、十センチ程あり、車は、跳ね上がり、ワゴン車の天井に頭をぶつけました。いたるところが、亀裂、段差がありました、夜の九時頃になり、また四号を仙台の方へ、暗かったので、廻りの状況は、解らなかったのですが、無我夢中で家に着きました。着いたのは夜の一時半ごろ、家には、親父しか居ないと思っていたのですが、有り難いことに姉が泊まって、待っててくれました、電気が通って居なく、ローソクと石油ストーブが頼りでした。その次の日十五日は、次回に載せたいと、思います。写真は十五日、安置所廻りながら、矢作から竹駒付近を通った時の様子です、被害にあった、建物、車、写真に写っている、関係者には申し分けないのですが、今後のために、残したいと思いで載せることにしました。
震災時、三月十一日私は出張で宇都宮に行っており、地元(岩手県南)には居らず、その時状況はまったく解らず、不安になっていました。当日宇都宮で、地震は大きく揺れ何度も、何度も、揺れ返しを繰り返していました。その後夕方、現場は停電し、ラジオのみで、交通機関も、マヒしたみたいでした。辛うじて、泊まってたアパートは、電気が使えたので、テレビは見れ、ご飯は食べられました。その時テレビのニュースで陸前高田の映像、それは、それは、恐ろしい大きな津波の映像、あの水仙酒造の看板を飲み込み、マイヤの屋上まで、呑み込んだ、創造を絶する光景でした。次の日は通常通り電気の無い所で仕事に付いていました。十三日には、埼玉の現場に移動し仕事をしていました。問題はその次の日から、思ってもいない自体が起こりました。その内容のついては、次回にいたします。地元には、電話も何も、繋がらない状況、停電のため通信手段はほとんど不可、衛星電話を持っている方か、黒電話ダイヤルしきならば、別かも?これから少しずつ思い出して、投稿いたします。写真も随時、フォトチャンネルに乗せたいと思っています。
私が三十七、八年前東京浅の草の会社、に就職した時、社長のお婆ちゃんに、関東大震災の時のお話を、聞いた事が有り、その話のなかで、浅草の町が、火災になり逃げ場を失った方々が、墨田川に込ん飛び込んだと聞き、その後、大勢の方が川に、浮いていたため、その人々の上を火がはしったと言うで事でした。聞いていただけで、恐ろしい後景でした。また三十数年前、家の姉に誘われ、墨田区の両国国技館、の近くに、震災の慰霊堂が有り手を合わせて来た覚えがあります。関東大震災では十万人以上の方々が犠牲になられ、大惨事でした。その後復興を遂げ現在の東京に至っているのだと思います。出来れば、二度とこういう事は、起きて欲しくはありません。
先月中頃恐山参りに行って来ました。母が生前恐山に私が覚えているだけで、4、5回は行っております、行って家内安全、先祖代々の塔婆を上げて来ていたと思っています。また行ったときは、大祭の時が多く、いたこさんも来て居たみたいで、毎回聞いていたみたい。私も、どんな事をしていたか、二年前と昨年、又今年と三回行って来ました、二年前は一人で、昨年は親父も連れて行き、いたこさんに、母の事などを聞いてきました。昔から私の地元では、亡くなった方のお家でお葬式の後、おかみ様といって、よく聞いたものでした。今は聞いた事は無いですが、陸前高田にも十年以上前ですが二人位いいたのですが、いまは居ないみたいみたいです。昔おかみ様の方々は、地方を回っている時に、地元に若い子で、おかみ様になれそうな方や興味のある方、また、何か能力を、持っていそうな方など、聞いて歩いたと、聞いた事が有りました。今で言う、人材発掘問言うか、人材養成みたいにして、後継者を育てていたみたいです、今は近くには、居ないみたいで、寂しい気がします。ただ、今田に地元では、亡くなった方の為に、数珠回しを今もやっています、やはり今までなどでやって来た事など、若い人たちにも受け継いでもらいたいです。恐山の状況はフォトアルバムにて、震災の鎮魂のため、地蔵様が新しく出来、鐘は二個で、鎮魂の鐘と希望鐘が出来ました。