#私の履歴書
バブルか弾けたときワイ大学卒業年だった。単独卒業旅行に北京、成都、上海へ。第二外国語で学んだ中国語は撃沈、台湾で学んだ國語も撃沈するも人の自我だけで生活している大陸に毒され1年だけ語学やろうと首師大に修学。日本の景気悪化に就職先なく上海で通訳日本語指導職を獲る。
上海で就職給料の殆どを食と道楽にぶち込む。成都生活以降、現地民に化けて生活す。
現地民化は支那人の面従腹背、法の抜け穴を潜る術、権謀術数を垣間見る。身内の人、家族同様の付き合いになるまでこいつら信用ならねぇ。笑顔の裏の裏の裏は修羅道、我を利用せじと近づく支那人を我好好爺で返礼せしめん。
なんてね。
大理石鉱山開発の投資話、元国営シルク工場再建の投資、マンション建設地、マンション建てないかと投資、コックが店を待ちたいからオーナーになって欲しいと話から、はたまた叔母の墓参に託けて日本に行き、不法滞在して一旗あげたいから一緒に行く従兄弟の入国時に保証人になってくれという話まで、いろんな話が来たよ。
全部、ケムニマイテキタ。
しかし、良くしてくれた叔母ちゃんに、当時言われ、今でも守っている言葉がある。
既然自己吃虧、誠心誠意對待朋友
たとえ自分が割に合わなくても、友達には誠心誠意尽くせ。
あちらで、金銭的に何ひとつ不自由ない生活をして、大好きな骨董を買って生活していたのが、帰国して直ぐに真逆になったわけ。長い長い冬が始まったんだ。