2013 IPC世界陸上競技選手権リヨン大会 出場報告
7月19日から、28日まで、フランス リヨンで、開催されました、2013 IPC世界陸上競技選手権リヨン大会 出場報告を、させていただきます。
世界陸上に向けて伴走協力して下さった多くの皆様、応援して下さった皆様、有難うございました。
世界陸上は、障害者にとって、パラリンピック大会に次ぐ2番目に大きな世界大会です。
この、世界の舞台に再び立てた事に、多くの皆様の支援に感謝申し上げます。
7月17日、前半20キロ伴走予定のOさんと一緒に目的地 フランス リヨンに向けて、日本を出国しました。(二人での渡航 日本選手団とは別行動でした。)
フランスは、学生時代、大好きだった女優 ソフィー・マルソー(Sophi e Marceau)の出身地です。
フランス パリ経由で、リヨン入り、リヨン駅前にあるホテルが、日本選手団の宿泊先です。
リヨンは、フランス第2の都市で、職の都とも、呼ばれています。
フランス リヨンとの時差は7時間、リヨンは、小説「星の王子さま」の著者 サン=テグジュペリの故郷であり、リヨン空港は別名、サン=テグジュペリ空港とも呼ばれています。
私が出場するマラソンは、大会最終日、7月28日、午前7時スタートです。当初は、午前8時スタートでしたが、気温が高いため、1時間繰り上げてのスタートとなります。
マラソン本番までは、10日間あり、調整するには、丁度よい日数です。
Oさんと走るのは5月の大会依頼ですが、Oさんは、故障明けと言う事で、私は、少し心配をしましたが、一緒に走ってみて故障が完治している事を実感でき、安心しました。
本番までに、コースの試走も何度か、しっかりと行う事が出来ました。
路面が硬く、10キロも走ると結構足に負担がかかりました。
予定していた三村さんの手作りミムラボ シューズを履くのをあきらめ、ウォーミングアップ用のシューズで、走る事にいたしました。それほど、路面が硬いと言う事です。
日中は40度近い気温になるため、調整練習は、早朝または、午前中に行いました。
本番1週間前の7月22日、月曜日、後半伴走予定のHさんが、リヨン入りしました。
Hさんと一緒に走るのは4月の霞ヶ浦マラソン以来、実に3ヶ月ぶりです。
Hさんは、5月2日に足の故障をしたため、今日まで無理をしない練習をこなしてきた様です。
7月24日、水曜日午前、レースペースでの、最後のポイント練習を行いました。
7月25日、木曜日、早朝練習があるのですが、Hさんが足に、違和感があると言う事で、待ち合わせ場所の玄関には現れませんでした。
Hさんと走る予定でしたが、Oさんと朝練習を行いました。
Hさんの足の違和感はそんなに酷い状態ではなく、1日、安静にすれば良くなるだろうと言う判断でした。
翌日の7月26日、金曜日、Oさんと、Hさんは、足の状態を確認するため二人でジョギングを行い、違和感が消え、「大丈夫、本番は走れる。」と、言う判断になりました。
本番前日の27日、土曜日 午後、最後の調整練習、刺激練習をホテル近くの公園で3人で、行いました。
Hさんは、私たちとは別メニューで、行う事にして、Oさんと練習を行いました。
練習を、終えて、Hさんが、「自分だけ、もう少し、練習してから帰る。」と、言うので私とOさんは、二人で公園を後にホテルに、戻りました。
ホテルに戻り、シャワーを、浴びて夕飯の準備を行っていました。
その時、妻から電話がかかってきました。
夕飯のおかずを買ってきてくれる事になっていたので、私は、喜んで、電話にでました。
「Hさんが歩道に座っている、動けないで歩道に座っている。」との、電話内容でした。
気温が高いので、私は、熱中症で、動けないでいると思いました。
急いで日本チームのトレイナーさんに連絡をしてHさんがいる場所に救護に向かってもらいました。
Hさんは熱中症ではなく、足が痛くて歩けない事をその後、知りました。
Hさんは、トレイナーさんとOさんに支えられてホテルへと戻ってきました。
私は、すでに夕飯を食べ終わっていました。
Hさんの足の状態は、1年前のロンドンパラリンピックと、同じ足の状態だと言う、事でした。痛い箇所も同じとの事でした。
私は、気持ちが、動揺しました。頭の中が真っ白になりました。
今は、Hさんの事は考えずに、私は、自分のレースに集中する事にし、予定より1時間遅い、20時に、就寝しました。
明日の朝になったらHさんの足は良くなる事を期待して、大聖堂で購入した十字架に、無宗教の私が、祈りを捧げてから就寝しました。
本番当日の28日、日曜日、朝、午前2時に、起床して、朝ご飯の準備と、出発の準備をしました。
午前3時30分、とても早い朝食を戴きました。夜食と、呼んでもよい時間帯です。
日本から持っていった実家で作ったあきたこまち米と、ふりかけと、味噌汁で、ご飯を戴きました。
午前4時30分、チームドクターに付き添われ、ホテルを出発、マラソン会場へと向かいました。
Hさんの足の常態は昨日とほぼ変わっていませんでした。
、昨日よりも悪化したのではないかと思われる気がいたしました。
午前6時までに最終コールを済ませ、伴走者の交代場所を大会側に申告しなくてはいけません。
伴走交代できる地点は10キロ、20キロ、30キロの3箇所と決められており、それ以外での伴走交代は違反行為となり、失格となります。
Hさんの足の常態で交代場所を決める事にしました。
チームドクターが、「痛み止めの注射を打って直ぐは一番効果がありますが、時間が経過すると効果が薄れて行きます。2時間もすると効果はほとんどなくなります。。」と、おっしゃいました。
「スタート直前に注射をすればスタートから10キロまでは薬で誤魔化して走れるかも知れない。Oさんに、10キロ地点に待機していただき、Oさんに後半32キロ、頑張って走っていただこう。」と、言う事になりまし
た。
大会側に10キロで伴走交代をする事を申告し、Oさんは会場、控え室から移動して行きました。
控え室には、私と、Hさんが残り、Hさんにガイドしていただき、トイレに、連れて行ってもらいました。
Hさんの歩くスピードは、1メートルを10秒もかかる程の超ゆっくりペース、こんな常態でスタート直前の痛み止めの注射は本当に効果があるのかとても心配になってきました
痛み止めの注射が効かなかった場合、スタートからこのペースで、歩かれたら10キロ、3時間、4時間、かかるかも知れません。
ゆっくり歩いて途中棄権では全く走らずに終わってしまいます。
トイレを済ませて、出てきたら、控え室には他の選手は移動していなくなっていました
他の選手はスタートラインに向かって移動を開始していました
私たちも、スタート地点に向かって、超ゆっくりと、歩き出しました。
歩いている途中、日本選手団監督のYさんに、
Hさんが、「やっぱ、駄目だは。注射、打っても、たぶん走れないは。Oさんに今からでも替わってもらえませんか。」と、言いました。
Y監督は、「もう、大会側に、伴走交代地点を申告してしまったし、いまさら、無理です。」と、言いました。
私は、「しかたない。とりあえず、10キロまで歩こう。」と、覚悟を決めて、スタート地点へと歩き出しました。
歩き出してまもなく、Oさんが、「間に合った。」と、言って現れました。
Y監督に、Oさんが、「Yさん、30キロまで、僕が伴走します。Hさんは、30キロから伴走と言うことで、大会側に申告していただけませんか。Hさんを、頼む。」と、言い、スタート地点へと向かいました。
Y監督が「後はこちらで手続きどうにかするから。」と、言ってくれました。とても嬉しい一言でした。
私は、「スタートラインに、立てないのでは?」と、スタート1時間前、本気で思いましたが、選手団スタッフの皆様の御協力のおかげでスタートラインに、まずは、立つことが出来、これだけでも、十分、私は、感動しま
した。
スタートラインに、立てた嬉しさで、涙が止まりませんでした。
元々は、スタートから、20キロまでの伴走を予定していたOさん、30キロの伴走と言う事で、設定ペースを4分から4分10秒ペースに、落として走る事にいたしました。
アップ無しでのスタートでしたので、5キロ過ぎまでは呼吸が苦しく、体も重く苦戦しました。
10キロ過ぎから体が楽になり、ペースも少し、安定しました。
20キロ地点を通過、30キロ地点に待機するHさんの表情が明るいと、Oさんが、言いました。
表情が明るいと言う事は、Hさんは、ゆっくりでも走れると、私は、思いました。おそらくOさんも、そう思ったはずです。
20キロから30キロのペースが、ダウンせずにHさんに、繋がれば完走は確実、最悪の事態は避けられる。そう思うと重い足も、精神的にも少し、楽になりました。
25キロからの上り坂も、さほど苦しむ事無く、上りきる事が、出来ました。
まもなく30キロ、Hさんの足の痛みが消えている事を祈り、交代地点の30キロに、到着、伴走交代をしようとしたところ、「歩いてでないと伴走交代は出来ない。」と、Hさんが、言いました。
Hさんの言っている意味がわかりませんでした。
私と、Oさんは、チームドクターの痛み止めの注射により、痛みが完全に消えているものだと思っていました。
伴走がOさんからHさんに交代になり、歩きはじめました。
ゆっくりでもいいので、とにかく完走だけはしたいと言う気持ち一身で、前を目指して歩きだしました。
100メートル歩くのに何分、かかったでしょうか?
なかなか、前に進まず、気持ちだけはあせりはじめました。
1キロ近く歩いたでしょうか?
31キロ付近で、無念の棄権となりました。
覚悟は、できていたので、特に落ち込む事無く私の世界陸上選手権のマラソンは、終わりました。
この度の世界陸上選手権の出場に当たり、多くの日本チームスタッフの皆様の御協力ニより、無事、終了出来たことに大変感謝いたします。
結果は途中棄権ではありましたが、多くの事を学ぶ事が出来たことが私にとって唯一の救いであり、財産となりました。
伴走者と、選手は一心同体ですので、棄権の責任は全て私に、あります。
2年後の世界陸上選手権(ドーハ」、目指して、今後とも、努力、頑張って参りたいと思います。
途中棄権となってしまった事、応援、サポートいただいた皆様、大変申し訳ございませんでした。