バッサリ斬り棄て、進撃のマダム!へ

大人になり過ぎて気付くことがある。老いを恐れず、今迄積み上げて来た自分から更に素敵マダムを目指すためのエクスポート。

自由学園見学で思い出された昭和の給食事件

2022-08-04 21:42:00 | 日記
池袋から徒歩5分ほどの自由学園 明日館の見学に出向いた。
1921年に自由学園の校舎として、アメリカの巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設された重要文化財である。
 
石の廊下から入ると低めの天井のスペースがあり、そこに大きな暖炉があった。暖炉の火は身体を温めてくれるだけでなく、見ていると泣きそうになったり、嘘が付けなくなって真実をすべて告白したくなるヤツだ。
それを学校に設置するとは、心も育む学校にはぴったりの設備ではないだろうか!この時点で既に素敵過ぎであったが、その空間から大きな窓に向かうホール部分は、天井がぐんと高く上がっていた。
お陰で実際よりも空間は一層広い様に感じられ、大きな窓から差し込む光が心に届き、刺すくらいに瞬間に照らし、疲れた心にさえ希望が湧いてきそうな感じである。
窓は当時限られた工費の中、高価なステンドグラスの代わりに建具を幾何学的に配置したものとのことだが、とてもゴージャスで洒落ている。
天才建築家って、伊達に天才と呼ばれている訳ではないのだろうが、こんなに癒される空間を創出するとは、すごい!! きっと当時、友達と喧嘩して淋しい気持ちになった生徒も、この空間に招かれた瞬間に温かな光に包まれ心を癒されただろう。
 
その他にも彼の設計の特徴である幾何学的な彫刻を施したゴツゴツした石の柱を中心に燭台を模したような形状にも見える照明にも魅かれた。
実に自然な灯を演出し、自然と共存しているような優しさに安心と寛ぎを覚え、無理しなくて良いというかそのままで良いのだという気持ちにさせる。
大げさな言い方をすると、ここは、この地球に調和しているというか、逆らっていないというか、心がほどける居心地が良い空間が演出されているのだ。
 
食堂として使われていたスペースも、また実に洒落ていた。天井にある照明器具の芸術性に惚れ惚れする。
この食堂だったスペースは、現在、喫茶室として提供されていて腰かけてコーヒーとケーキをいただけば、懐かしい気持ちが蘇る。
私の通っていた学校は公立で、全くこの空間に似ても似つかない普通の校舎であったのだが、給食での消毒臭いアルミの盆にアルミの食器と先割れスプーン、水で薄めたような瓶の牛乳に脂臭いだけのマーガリン。
初めての給食は何もかもが消毒臭く、全然食べられなかった。しかし、当時はアレルギーとか問題視されるような時代でなく、給食を残すことは悪で、嫌いな物でも食べるまでは席を立つことは許されない。完食できなければ皆が遊んでいる休憩時間になっても自席でアルミ皿にのった嫌いな物とにらめっこし続け、先生が諦めてくれるのを待つしかない時代だった。
ある日、トマトが嫌いで同じようにアルミ食器とにらめっこしていた男の子がいた。暫くトマトを睨んでいたのだが、急にニコリとした微笑みを周囲に見せると、次の瞬間、トマトを握りしめ窓の外に向かって思いっきり放り投げた。幸いにも、先生は気づかなかった。皆の想像を超えた行為で、一瞬驚きの空気に包まれたが、実に愉快で爽快な気分に変わった事を覚えている。今、思い出しても最高だ!
 
物事って、そればかり見てると苦しいだけで進めない気がして辛い時間が永遠に続く様に思えるが、実は本人が思うほどたいしたことでない事って多々あるのかもしれない。
例えトマトの彼は、先生に見つかっていたとしても怒られはするだろうが、彼にとって決して食べられないだろうトマトを睨み続けている事と先生に叱られる事と、どちらも嫌には変わりなかっただろう。でもどちらがマシなのだろうか。どっちも嫌なら、早く抜け出すには何が最適だったのだろうか。
窓の外は花壇になっていて、きっとトマトは土に返っただろうし・・・・と思い出して、なんだか心が一つ軽くなった気がした。
 




















夏空

2022-08-04 21:38:00 | 日記
空梅雨が明けた宣言後にぐずつく天気が続いていたが、じっとりとしたまぶしい夏が戻ってきた。
今年はまだセミの鳴く声は聞いてはいない。日曜日のぎらつく道をとぼとぼと近所の小学校まで参院選挙の投票へ向かう。
 
大人になるとこんな狭かったか?と感じる校庭の上には青い空とふわわわ〜~と白い雲が広がっていた。ふと、小学校4年生だった梅雨入り前の頃を思い出した。理由は定かでなかったが、あの時の私は、家でも学校でもなんか淋しくて面白くなくて頑張れなくて、昼休みも友人と遊ぶ気になれず、唯ひとりでフラフラしていた。
そんな時、昼休みで校庭には子供が溢れているのに誰も使っていない2機のシーソーに目が止まり、呼ばれるように片側のシーソーの上に寝転んだ。すっきりした青い空に雲が浮かび、陽はまだ眩しいというほどでもなく、ぽかぽかしてとても気持ちが良い。雲は眺めているとだんだんと動物や人に見えてきて、ゆっくり少しずつ形を変えていく様から色々な物語が浮かんだ。





小さなまんまるの子供の魚が、怪物みたいな怖そうな海の怪物に追われサンゴ礁の中に逃げ込もうとしている。




と、この辺りで一番の大きさを誇るジンベイザメのお爺さんがやってきてお腹の下へをかくまってくれたよ・・
良かった。と言うように。
もう空を見るのが楽しくて楽しくて、それから毎日、昼休みにはシーソーへ真っ先に向かい、寝そべっては雲を眺めて過ごした。3日位すると隣のシーソーに同じクラスの子が私を真似て寝そべり、自然に二人で一緒に雲から物語を創るとか、雲の形から思い浮かぶお互いの家庭でのこと学校でのことの矛盾や変だと思う事を語り続けたるようになった。それがなんだか、のんびりであるものの充実した時間になり、毎日、昼休みが待ち遠しかったが、季節は梅雨入りしてそんな過ごし方は当然できなぬなり、梅雨が明けた頃にすっかり、そんな過ごし方の事は忘れてしまったように思う。
しかし、思い出すのは私にとって、ひとつの変わり目になった大切な時間だったという記憶。
確か、思い出すのは、自分では最大限の努力をしたつもりだったが学年末の成績がそれほどでもなく、母親に
「これが貴女が努力した結果で貴女の限界と云うなら、貴女は所詮、それだけの女よ。平均的な女ってことよね。いいんじゃないそれで。」
と言われた事。その言葉が衝撃的だったのと、やたら悔しかったのとそこからの脱し方が分からなかった事。
子供心に 母の言う事は正しい と思った事。
実に我が母らしいが。
ただ当時は、悔しくてもその言葉の乗り越え方が分からず、このまま平均的な女に育つのが嫌だ!という思いだけがあったように思う。
そんな時に、雲を眺める時間を持てて、同じクラスの友人と思いつくままを素直に語り合えるようなり、夏休み前にはその友人から『塾』『夏期講習』という初めて聞く言葉を知り、母の言葉を乗り越えるきっかけをつかんだ。
 
しかし、大人になった今の私は、結婚にしくじり×が付き、平均的な女に達していない訳で、
当時9歳の私は何をムキになっていたのかしらね?
でも、それが・・・・・子供 って者でムキになれ事ははむしろ良いことだと、大人になり過ぎた年齢になると思うものである。





七夕の日

2022-08-04 21:11:00 | 日記
コロナパンデミック以降、街中から七夕飾りが消えてしまったと感じて歩いていると、急に子供の頃の七夕のある出来事を思い出した。
 
7つ離れた弟が生まれると急に母親業を頑張り始めた母が、1.8m程の笹を買ってきて、弟と七夕飾りを手作りしはじめた。私や妹にも短冊に願いを書くようにと言う。

20歳で私の妊娠発覚からできちゃった婚をし、嫁いだ先には住み込み従業員が10名弱も居る自営業。毎朝毎晩、彼らの食事用意と家事、育児で何がなんだか分からない儘に過ぎて来たのだろう母は、30歳を過ぎて人生の方向を母親業へ向ける事で幸福模索をスタートした頃だった。
若い頃に苦労して乗り越えてそれになりなったという美談が世間には良く流れはするがそうでない人もいる訳で、誰もが苦労した後に成功や上手くやれるようになる訳でないのだと、母を見て感じていた。

当時13歳くらいの私は、毎日が可笑しく腹立たしく、何もかもが驚きと好奇心とで、ちょっとしたことさえ事件という程のおおごとになる気分に常に心が躍り、ざわつく365日フェスティバルな毎日を送る年頃だった。
結局は、単にラッキーでありたいというだけの毎日で、当時、部活と食べる事が楽しみだけの心の成長が遅れ気味だったと思う。
そんな私が夕食前の夕方に書く短冊となれば、
「いつでも美味しい物が食べられますように」  
だった。
しかし後日、母からえらい勢いで叱れることになった。「お前は戦時中に生きているのか? 私の料理がまずいと思われる」と言う。
七夕飾りの笹の前で母溺愛の弟の写真を撮った際、その中でも一番可愛いらしく撮影できたと母一番のお気に入り写真の背景にくっきりと私の短冊、すなわち「いつでも美味しい物が食べられますように」が見事に写りこんでいたからだった。
折角の可愛い弟の写真を他人に見せられない、父の実家や兄弟らに近況写真を送ることが出来ないと、その後、夏が来る度、数年に渡り、母から嫌味を聞かされ続ける羽目になった。
 
また、母子家庭である我が家にも短冊の想い出がある。
彼女が高校生の頃、進学に備えそれなりにお金が必要になり、正直、私はとても厳しい時期を迎えていた。
早く給与を上げて貰える様に=社内営業も疎かにできない
and
目先の金が必要=バイトしないとならない 
ということになっていた。
その為、会社が休みの土日と平日の仕事後の夜にアルバイトを開始。当然、娘と過ごす時間は削られることになったが、娘も理解できる年齢だろうと勝手に納得していた。
ある日、娘の留守中に彼女の部屋の掃除の為に入ると、出窓に七夕の🎋笹飾りがあった。
「ママ大好き!いつまでもいつまでもママと楽しく暮らせますように」と短冊に書かれていた。
10代のキャピキャピする頃の女の子なのに、こんな短冊あり?と順調に並べ続けていたドミノがあと少しでと言う完成前にカタカタと倒れていくような気持になった。娘の幸せのために、今ここが踏ん張り時と一人頑張っていたつもりが結局、この苦難を娘に半分担いでもらっている訳で、それを忘れ一人頑張っていると思い上がっていた私。
私よ!「もう~~てめぇ、ぶっ殺しだ!」である。

一年に一度の逢瀬が叶うロマンティックな日であると言われる七夕。
大人になったのに、ロマンスはおあずけで、私には猛省の日。
ロマンスなんて、もう来ないんだろう。
ロマンスなんて、まぼろし〜〜〜って事に気づいている大人の夏…なのである。