まあ、校長くらいになってくれれば、家族として、自分のような不肖の息子でも、色々、多少の恩恵に預かれたのかな、とふざけたことを、考えたりしたこともあった。
何しろ、父は、県教委に転出して、四ヶ月も経たずに、急性心不全で、急逝してしまった、教員時代の道徳研究主任の業務を、過剰に一人で抱え込んだ無理と、教育主事として、学校巡回時の接待漬けで、飲めない酒を、無理矢理飲まされたことが、原因と母は言っていた。公立学校が、県の役人を接待をすると言う、官官接待の呆れた話。しかし、こんな話は、接待を当然の儀礼としていた昭和30年代には、当たり前に横行していたのだろう。ましてや、地方の小役人レベルでは、とやかくされる話ではなかったに違いない。しかし、下戸の父に関しては、母にも愚痴をこぼしていたようだし、かなり身体のダメージになってしまったようだ。やむを得ず、接待を受けていたのだと思う。
父が、亡くなった年齢は、46才だった。その時点で、子どもたちは、まだ誰も成人していなかった。長子の兄が、一浪して、大学の一年生だったが、まだ未成年。姉が、高三で、自分は、中三だった。決して、幼かった訳ではないが、まだ誰も働いてはいない。経済的、精神的支柱を失った母をはじめとした家族の衝撃は、大きかった。
とにかく、突然だったのだ。少し前に、動悸の自覚症状があったらしく、地元の個人病院を受診していた。心筋梗塞が発覚して、発作防止の為に、数錠の強心剤のニトログリセリンを、処方されていた。仕事は、一日も休まなかった。亡くなった朝に、一度大きな発作を起こし、ニトロで、収めたらしかった。
しかし、それで、ニトロが、尽きた。初めて仕事を休み、通院する予定だった。夏休みの受験対策の全員補習の登校前に、好きな庭いじりをする下着だけの後ろ姿が、自分の目にした最後の生きている父だった。
子どもたちが登校したあと、再度大きな発作があって、父は、亡くなった。母が、父に依頼されて、自転車で、ニトロを病院に貰いに行く間に、誰にも看取られずに、父は亡くなったのだ。急性心不全だが、激痛の後には、気を失うので、死に顔は、安らかな寝顔だった。それが、救いだった。
余りにも、呆気なかった。現代に高齢者として生きる自分が振り返ると、何故死ななければならなかったのか、良く分からない。そんな発作をくぐり抜けて、何十年も寿命を伸ばした人は、何人も知っている。父本人も、母も、医者も、やることなすこと余りにも、拙な過ぎた。
しかし、この突然過ぎた父の死は、家族にとっては、父を、否定出来ない絶対的な存在として、こころに焼き付けることになった。数多くの上司、同僚、後輩、教え子、友人知己、親族にとっても。
出世の途上についたばかりの、突然の死。妻と、成人していない子どもたち三人を遺して。良くあることだが、寿命を残して亡くなる悲劇性は、故人の美点だけを、人々に刻む印象とする。そして、批判をすることが、憚られたりする。
母、兄、姉が、父を語れば、崇敬の念だけになる。周囲の人々は、必ず同意してくれるし、そうでなくても、表面は、合わせてくれる。自分も、当初は、そうだったと思う。自分の未来を支えてくれる大きな存在だったことは間違いなく、その衝撃と残された不安が、失った父を、絶対的な存在と、変えていたように思う。
しかし、自分のまるで洗脳されたかのような期間は、短った。父が、亡くなる前から、父と微妙な軋轢を抱え始めていた。思春期に入った男子らしく、父親を、潜在的な競合相手と考えるようになっていたのかも知れない。父が、自分の後継ぎとして、支配的に接していて、父に圧しひしがれていた兄と、末子として、放任されていた自分とは、父との関係は、まったく異質だった筈だ。
兄は、結局のところ、父に言い諾々と従わされるばかりだった。そのままで、父は、人生を終えた。そして、その父との関係性は、兄に、刻まれたままだったと思う。兄は、父の死後、母を支え、家長として、我儘な弟の自分と対峙する重い存在になったが、自分が、父の代わりにならなければならない、いや、絶対になれないと言う狭間で、悩み苦しんでいたのかも知れない。
一方、自分は、抑えつけようとする兄の背後に、父の残影を感じていたように思う.そして、おとことして、自立していく過程で、兄は乗り越えなければならない存在になり、その背後の父の残影も、克服しなければならないものとなっていた。
家族、周囲の人々が、絶対的な善として、父を敬おうとする姿勢に、自分は、強く反発する様になっていったのだ。そう思う自分が、恐怖でもあった。もし、父が生きていれば、この兄との相克は、父との相克だった筈だ。自分は、捨てられて、家を出なければならなかったように思えた。父は、そんな立派な人じゃない。冷酷で、教条的な、上辺だけの道徳感に支配された人だったのではないか。自分は、そんな風に思う時、常に、あの子犬を、思い出していたのかも知れない。
父は、自分なら、直ぐに乗り越えられる、つまらない人間のように思えた。あんたは、生命の大切とか、偉そうに自分に言ったよな。道徳教育の研究主任らしいありきたりなごたくとして。幼い子どもが、周囲を思いやらない我儘さを、身につけようとしている。その危うさを、自分に対して、感じたのかも知れない。自分のしでかした事の責任は、自分で取らせなければ分からない、と。
自分も、薄々、父の人格の酷薄な非情さ、時として暴発する隠されたヒステリックな狂気に、気づいていたのだと思う。そんな時の父は、優しい小学校教師とは程遠い、感情の飛んだ突き放す目をした。子どもの自分に、直ぐ分かるくらいに。
残念な事に、その隠された狂気は、兄妹で、自分にもっとも良く、或いは、増幅されて引き継がれたのだろう。ただ、その事には、自分は、父よりは、自覚的に生きてきた。だから、子どもに、拾ってきた子犬を、捨ててこいと言うような非道な事を言いそうになる自分を、抑えてこれたとは、思っている.父より立派な父親だったとは、思わないが。
自分にとって、あの子犬を捨ててきた残酷な思い出は、今も苦味を伴って、甦る。しかし、それは、遠く実感を伴わない、セピア色の古ぼけた写真のようだ。自分は、今でも、こうして、父を批判的に書くが、その感情は、既に熱を伴わない。遠い記憶。父を、とっくに乗り越えたのだろう。もちろん、それは、父を見下ろせる人間になれたことを、意味しない。父を、客観的に評価出来る程には、対等な大人になれたと言うことだと思っている。
追伸 鬱陶しい長文、重ね重ね申し訳ありません。お付き合い頂けた方がいらっしゃって、もし興味がおありのようでしたら、前段になる文章が、犬、トラウマを表題として、過去投稿分が、5本ありますので、お読み頂ければ、幸いです。