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日記、日々の想い 

ゴリラとピグミーの森と、悲しき南回帰線



 今日は、どんよりした曇りで、時折り、雨がばらついて来ます。まるで、梅雨の始めの頃のような気象です。でも、西日本は、記録的な早い梅雨入りになっているようですから、東日本で、首都圏の隅っこの当地も、本当は、梅雨入りしてんじゃないの?とか、思っています。

 今朝の空港観測値の最低気温は、15.4℃。まあ、暖かったです。9時前には、既に、23℃を超えていました。ただ、雨が、ぱらつき始めたこともあって、今は、むしろ気温は下がっていて、これ以上上がらないんようです。いずれにしろ、これから、暫くは、こんな鬱陶しい天気が、多くなりそうです。それにしても、今年は、季節の進みが、早いですね。

 思春期鬱の頃に、小説や詩集以外で、出会って夢中になって読んだ本に、伊谷純一郎先生の「ゴリラとピグミーの森」と、クロード・レヴィ・ストロースの「悲しき南回帰線」と言う本が、有ります。「悲しき南回帰線」は、「悲しき熱帯」と言う題名にした訳本もありますが、自分が読んだのは、確か文庫本で、「悲しき南回帰線」」です。
 こんな事を、思い出していたのは、霊長類学者の河合雅雄先生の訃報に、接したからです。97歳だったそうです。改めて、自分の親世代の方だったんだな、とそんな感慨を、覚えました。河合先生の著書も、日本ザルや、ゴリラに関する本を、数冊読んだ記憶が、あります。でも、そのきっかけとなったのは、伊谷先生の「ゴリラとピグミーの森」でした。
 京都大学に、霊長類研究所と言う組織がありますが、それは、今西錦司先生が先駆となられた霊長類学に由来します。伊谷先生と、河合先生は、今西先生の直弟子筋の方たちで、霊長類研究所の初期の主要メンバーだった方たちです。それで、河合先生の訃報から、ずっと前に亡くなられた伊谷先生の本を、思い出したのです。
 そして、その同じ時期に、同じ分野の訳本で、夢中になって読んだ本の「悲しき南回帰線」も、思い出しました。それでは、長年親しんできた、深めてきた、霊長類学や、文化人類学の歴史と概要を、と蘊蓄を垂れたいところですが、そうはいきません。何せ、どんな夢中になって、一時的にのめり込んだことに対しても、上っ面だけなぞって、直ぐに放り出す。そんな、非生産的な人間の極みと言える自分のことですから。あっ、ここで言う、非生産性と言うのは、ちょっと、消費して、何も生み出さない、そんな感じです。
 まあ、それは、それとして、この「ゴリラとピグミーの森」と、「悲しき南回帰線」は、忘れてるけど、忘れられない本ではあります。すいません、意味分かんなくて。ただ
ぱくっとですけど、自分の今の、ものの考え方の基盤の一部には、間違いなくなっている本です。まあ、市井の隅っこで、しこしこ勝手に生きている自分のような人間の考え方の基盤になったところで、なんだと言うことではあるのですが。
 とにかく、この二冊に共通していたのは、霊長類学、文化人類学と言う学術書でありながら、紀行文的で、適度な文学的抒情性を備えていたと言うことでしょうか。
 門外漢の、しかも、まだ半分子どもだった自分からしても、結構その世界に入り込み易くて、しかも、捉えられたら、すっかりと引き込まれてしまうような、文学的な魅力も兼ね備えていたと言うことです。
 「悲しき南回帰線」は、文化人類学の学術書に分類されるのでしょう。第二次世界大戦前の時代に、ブラジルの奥地の先住民の社会を、調査した記録です。ただ、それは、精密なだけの調査記録ではなくて、ある意味、西洋文明社会に生きる著者自身と、その世界に対する問い直しにもなっているようでもありました。
 西洋文明社会が、未開と蔑む社会が、ただ無秩序なのではなくて、政治的なプロパガンダ以前に、それなりの社会的システムを、持っている。その先立つシステムによって、その社会が、それなりに成り立っている様を、フィールドワークしている、そんな感じでした。西洋人が、プロパガンダを押し付けなくても、安定した社会構造は、存在すると言うことだったと思います。
 アマゾンの奥地の先住民族へのフィールドワークでありながら、西洋文明への文明批評にもなっていると言うような。この本には、「世界は、人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」だったと思いますが、有名な一文があります。自分には、とても腑に落ちました。
 当たり前ですよね。でも、みんな言い出さない。宇宙でも、些細な存在に過ぎない地球で、その歴史で、ほんの一瞬のあだ花にしか思えない狂ったサルの人間なのですから。
 フランス革命に象徴される西欧近世から、現代に至る人間主義、人権主義の過剰な暴走に対する、鋭い批判。ある種の厭世感が、自分には、強く響きました。自分の中に、形作られつつあった、神もいない、仏もいない、でも、先立つ'なにか'はあって、それは、人間の理解を超えているのでは、と言う思いにも、強くシンクロしました。
 対して、「ゴリラと、ピグミーの森」は、霊長類学の学術書です。この本も、「悲しき南回帰線」同様、学術書に留まらない本だと感じています。ただ、ちょっと、受け取った自分の感覚的な違いは、少しありました。それは、未開とされる人々ではなくて、類人猿を、扱っていると言うことが、まずあります。
 伊谷先生と、レヴィ・ストロースの本を読み比べて、東西文明、或いは、宗教的な背景の違いも、感じずにはいられませんでした。「ゴリラとピグミーの森」は、よりその世界に入り込んで、その世界から、人間の今も、考えると言うような感じでしょうか。「悲しき南回帰線」は、自らも属する西洋文明社会を批判しますが、著者の立ち位置は、やはり西洋文明の中にあると言うような。
 自然と対峙し、制御しようとする近、現代の西洋文明に対して、自然と一体的に生きようとする東洋思想
の違いと言った感じでしょうか。
 とにかく、やはり、人間を寄せつけずに生きてきた密林に生きるゴリラにも、それなりの社会が、存在している。群れと言う社会ですが。その同じ森に生きる、やはり未開とされるピグミー族の人々。
 著者は、その中に分け入って、ある意味、共生的に、フィールドワークをします。その調査の行方には、類人猿の一種に過ぎない人類は、果たして進化の結果として、今を生きているのかと言う問いかけが、常にあるように思いました。
 河合先生の訃報に接して、どうしても、書いてみたくなって書いてみてしまいました。何か、本の具体的な内容など、まったく書けないほど忘れていたので、内容、すかすかですが。この程度の話でも、興味を持てた方がいらっしゃったなら、是非に、おすすめしたい本ではあります。




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