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日記、日々の想い 

歩けないのに、翔んでいたあの時…

 歩く。歩いて来た。歩いて行く。歩いている。そんな当たり前のことが、出来なくなってしまいました。半引きこもりだった自分には、かえって、お似合いな状況とも言えましたが。ただ、意識は、思いは、身体とは、少し別でした。歩けない身体で、歩き続けていました。
 とにかく、社会不適合者的な自分を持て余す家族との軋轢しか、自分は、試練を経験してこなかったとも言えます。それが、いきなり、入院6か月、全治10か月でした。怪我の時点で、緊急手術でも容易に除去出来なかった微細な工業原料と、まとわりついた雑菌が、患部の砕け折れた骨の接合を、阻んだのです。
 自分は、病院では、応急的な緊急手術しか、受けていません。骨折時に、金属の添木を、骨に直接取り付けるような処置は、当時でも、当たり前の治療でした。骨を、正しく、迅速に接合する為です。しかし、患部の怪我の状況が深刻だった自分には、その処置は、施せなかったのです。大腿から、脚全体を覆う巨大なギプスで、固定するしか、ありませんでした。
 ギプスは、出血で、血溜まりとなり、中は、血がちゃぷちゃぷしていました。気持ちが、悪かった。自分は、足元なので、分かりませんでしたが、同室の患者さんなどは、出血のギプス内の血溜まりの腐敗臭が、大変だったようです。臭いが、漂ってくれば、吐き気を催す位には。現代のように、出血や汚物を、自動的に溜めてくれる装置なんて、まだありませんでした。同室の皆さんは、一番年下の自分には、言いづらかったみたいでしたが。とにかく、学生ですから、当たり前に、大部屋でしたからね。迷惑を、掛けました。
 ただ、体力は、徐々に、回復していきました。内臓が、傷んだと言う訳では、ありませんでしたから。食事も、普通に取れるようになりました。やがて、車椅子です。ただ、普通の車椅子では、ありませんでした。骨折した右脚は、大腿から、膝も覆って、下腿までのギプスです。曲げることが出来ません。
 右脚を伸ばしたまま置く、特殊な車椅子です。最初は、終始、介助して貰わなければなりませんでした。
ただ、やがて、松葉杖で、歩けるようになりました。右脚は、伸ばしたままですが。また、両腋の下に、挟んで歩く、昔のタイプです。その時代には、そんな松葉杖しかありませんでした。病院のフロアは、Pタイルで、滑りそうで、結構冷や冷やした思い出が、あります。
 まあ、この時期の自分の最大の進歩は、不特定な女性たちと、きちんと向き合って、話せるようになったことでしょうか。看護師さんたちとの関係です。特に、初期の時期は、否応なく、生理的な部分を、含めて看護師さんに、依存しなければ、なりませんでした。同性に対して以上に、女性に、向き合おうとしない、忌避していた自分が、突然にです。
 自分は、幼稚園に上がる頃に、実家が、引っ越しをしました。その時期から、極度の人見知りを、断続的に発症し始めました。その過程での唯一の幼馴染は、女の子でした。近所の唯一の同級生が、彼女だったからです。
 ただ、ふとしたきっかけ。二人遊びをしている時に、彼女の下着が、見えてしまったと言うようなことです。極度に、異性として意識し始めて、避けるようになってしまいました。それからは、異性で、本当の意味で、親しくなった子は、いませんでした。
 思春期になると、ましてやです。ただ、入院生活に於いては、とにかく、看護師さんに、縋って生きるしかありませんでした。当時は、看護師イコール看護婦でしたから。多くの女性たちに、依存、当たり前に交流もして、入院生活は、送られて行ったのです。
 自分の人見知りは、もちろん、異性に対してだけでは、ありません。それでも、高校生くらいまでは、同性の友だちも、最低限でしたが、いることはいました。でも、それ以降は、とにかく面倒に感じて、誰とも話したいなどとは、思わなくなってしまいました。学校には、勉強はしませんでしたが、通うことは、通いました。たから、半引きこもりと、言うところだろうと、思っています。
 それと、怪我をする前の自分は、世の中で、まともに交流のある人間は、母と姉だけだったのです。女性ですよね。だから、幼馴染と言い、自分は、実は、女性の方が、常に近しい存在だった気もします。
 兄は、父親の代わりに、弟の自分を自立させようとしていました。だから、自分には、厳しく当たるようなところがありました。自分にとっては、鬱陶しい存在でした。あまり話たくもありませんでした。
 そして、女性に興味がなかった訳では、ありませんでした。同性には、まったく性的な興味を持つなどあり得ない人間です。ただ、不安定で、脆弱な自我が、その自我自身を守る為に、敢えて、興味がある存在を、忌避したのでしょう。
 当時の整形外科病棟は、今ほどではなくても、高齢の入院者の割合が、かなり高かった。だから、極端な長期入院中の若い男性患者だった自分は、看護師さんたちにとっても、かなり気になる存在だったのだと、思います。
 ましてや、看護師さんたちも、現代と違い若かったのです。ベテランは、婦長さん、あっ今で言う師長さんですね。それと、主任さん以外は、全員若かったのです。自分より年上の団塊の世代が、既婚者も含めて、三人。当時、二十代半ばです。あとは、病院付属の准看護学校を、卒業したばかりの十代が、三人です。
 十代のうちの二人とは、年中ふざけ合うような関係になっていきました。更に、地域の拠点病院として、他の看護学校や、准看護学校の生徒たちも、研修に来ていました。その年下の女性たちとも、やや、危ない関係になったりもしました。成人しても、幼稚だった自分とは、精神年齢が、見合っていたのかも知れません。
 とにかく、この時に、看護師や、看護学生の女性たちとの交流経験から、皮肉なことに、女性ともちゃんと、向き合えるようになった。その結果、復学して、妻と出会い、結婚して、家庭を築いたことは、事実です。自分には、社会に少しでも、適合して行く、第一歩の中でも、特に貴重な、体験になったのだろうと思います。
 この入院中、自分は、8人部屋と、4人部屋を、行き来しました。そして、その過程でも、同室者の中では、常に最年少で、落ち着かない患者でした。だから、年配の父親世代の人などは、内心、眉を顰めていたかも、知れません。若い看護師や学生たちと、わいわいきゃあきゃあと言う感じでしたから。
 とても、今の若い人たちの路上飲みが、どうこう言えるレベルではありませんでした。深夜の消灯後の病室でも、思わずうるさくしてしまったりしていたのですから。子どもの頃の学芸会とか、親戚の集まりで、笑いを取るのに、夢中だった時の再来のようでもありました。
 ただ,そんな感じで、同室者でも、少し年上のお兄さん世代には、結構、可愛がられました。ちょっと、面白い弟分と言う感じでしょうか。お恥ずかしい話、内緒の夜の外出で、お酒のある店に、連れて行って貰って、ご馳走になったりしていました。
 現代で言えば、コロナ禍の検疫待機者や、自宅療養者が、勝手に外出して、遊び回っているのを、批判出来ないレベルでは、あります。お恥ずかしい。でも、こんなことも、半引きこもりだった自分の、社会復帰のきっかけになった気がしています。
 まあ、こんな風に、ある意味、精神的なリハビリは、逃げられない環境に向き合うことによって、進み始めていたと思います。右下腿の開放性骨折とは別問題の、半引きこもりのリハビリについてでしたが。
 入院以前は、精神的には、ただ、闇の中を、這うように彷徨っていたのか、闇の底で、ただ、蹲っていたのか。そんな感じだったのですが。
 思春期以前の子ども時代の、多少、躁を拗らせていた時のような。危なげで、不安定ではありますが、精神は、歩くどごろか。疾走したり、飛び跳ねたりを、繰り返しているかのようでした。翔んでいたかも知れません。
 ただ、その時の問題は、精神などでは、ありません。現実世界で、歩けないのです。とは言っても、2か月もすると、松葉杖で歩くのも、慣れては、きていました。身体の体調は、もう健康だった時とは、変わりません。ただ、行動を制約する巨大なギプスは、外せないままなのでした。
 やがて、再び、精神的に、打ち拉がれる時が、やってきます…

 当地の,今朝の最低気温は、空港観測値で、15.7℃でした。昨日に引き続き、やや低めでした。風は,昨日より,少し、強いですね。

 昨日の天気予報で言っていましたが、太平洋高気圧が、南海上に少し去り,上空に大陸の寒気が入ってくるようです。最高気温は、27.0℃でしたが、雲の多い天気で、涼しく感じられる陽気になっています。




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