今朝の、空港観測の最低気温は、15℃でした。随分と、高かったようです。分厚い雲に、覆われていたから、夜の放熱現象も無かったのでしょう。ただ、暖かいと言うほどのことは、無い。日も無く、最高気温は、20℃にまでは、なりません。何より、雨が、一日中、降り続くようです。
「花散らし」と言う言葉のある雨は、あれは、桜の頃ですね。今年は、早い春で、桜も早く咲いて、早く散ってしまいました。遅咲きの山桜なども、もう散ってしまっているのでしょう。すっかり、出歩かなくなった自分には、分かりませんが。
桜の後には、ツツジや、サツキの時期になっていきます。咲き誇りますが、桜のように、儚くは散りません。長く楽しませてくれます。ただ、咲いた花は、いつかは散るものです。花は、まだ咲き誇っていますが、もう散った花びらも、あります。落ちて、少し土に塗れた花びらは、雨に打たれています。うら寂しさが、沁みてくる光景です。
雨音が結構する、しっかりとした降りですね。こんな日の通学路は、本当に気鬱でした。小学生の自分の自宅は,町外れの海辺の高台にあったのですが、学校迄が、とにかく、遠かった。まあ、2km程度ですから、地方で、もっとずっと遠い距離を通学されていた方もいたと思います。いや、今は、この現在の居住地、首都圏でも辺地で、再過疎化のこの町などでは、とても歩いて行けない距離に、学校があります。少子化で、学校廃止、統合の嵐がありました。今は、スクールバスが、利用されていますね。
よっぽど、自分は、学校に行きたくなかったって、ことですよね。幼い頃、幼稚園に上がる前に引っ越して、新しい環境に馴染めませんでした。自分が、極度の人見知りを、発症し始めたきっかけだったかな、と思っています。
ただ、環境に慣れると、はしゃいでふざけて、周囲を巻き込んで,騒いだりする子どもでもありました。みんな,笑って喜んで。でも、調子に乗り過ぎた自分は、平気で、人を傷つけたりもします。傷つけた相手は、当然、不愉快で、反発します。そうなると、自分は、自分が悪いのに、勝手に傷つきます。それで、自らの殻に、閉じこもるのです。まったく、始末に負えない子どもです。そんな生き方の、愚かな過ちを、繰り返していた、そんな気がします。
やがて、どんどん人見知りが加速して、精神的引きこもりになっていったと思います。思春期鬱。もちろん、大人になる過程で、そんな精神的欠陥も、表面的には、制御する処世術をわきまえるようになり、最低限の社会への適合を、出来るようには、なりましたが。
ただ、そんなことで、学年の代わり目には、或いは、学期の代わり目には、慢性的に、五月病だったり、九月病だったりしたと思います。幼い頃の、死の結核病棟の果てに、打ち捨てられれた霊安所で、対面した叔父だった"もの"に見た、死のおぞましさの記憶。それは、一生拭い去られることが無くて。五月病の鬱でも、九月病の鬱でも、死にたいなんて思ったことは、一度として、ありませんでしたが。
ただ、GW明けの五月病と言わず、クラス替えの、或いは、クラスは変わらなくても、席替えの後の、四月。不安定な情緒の自分は、自分自身が悪いことに、だんだん気付くようには、なっていて。新しい人間関係に馴染めない。または、馴染もうとする、或いは、馴染むことで、人を傷つけて、その制御出来ない自分に、勝手に傷つく自分。恐らく、自分自身に、深く絶望していたのだと思います。
晴れた日は、まだ良い。花々が咲き誇る春の通学路は、それだけで、気鬱な自分を、少し、昂らせてくれました。でも、季節の変わりやすい春です。冷たく降りしきる雨。今日のように。暗鬱な空は、更に、自分を、暗鬱にします。長い通学路は、更に長い。気鬱な思いが、目覚めを妨げます。寝坊して、ぎりぎりの時間。必死では、歩きます。荒くなる息に、更に気が滅入ります。傘が重い。なんで、今日は、雨なんだろう。俯き歩く、濡れた通学道。雨を避けようと、下げる傘。前を見ようとして、顔を上げると。雨粒に打たれます。雨傘の先は,雨滴が,滴っていました。あの暗鬱な、雨の通学路…