その当時は、自分などよりは、少し年上世代の中原16世名人が、旧世代の大山15世名人を打ち破り、棋界の太陽とも称されて、新時代を築き始めた一つの棋界の画期の時期で、将棋人気も盛り上がっていた。大御所の故升田九段や大山15世名人、更に、近い年上世代の故米長九段や加藤九段などとの若い中原16世の凌ぎの削り合いに、胸を踊らされた。恐ろしげな大人たちを、少し年上のお兄さんが、ばったばったとなぎ倒してくれる。自分のような未熟な少年でも、もうちょっと頑張れば、鬱陶しい大人たちを、乗り越えられて、何がしかの夢を、実現出来るかも知れない。そんな風に思わせて貰えたのだと思う。
ただそれ以降は、自分より年下世代の谷川次期17世名人や、究極の棋士のような羽生永世七冠の台頭もあって、中原16世の存在の影も薄れていき、やや興味も失ってしまった。多分、あまり上手くいかない自分の人生では、こうして、自分より若くて優秀な人たちに、みるみる追い越されていくのだ。夢などとは程遠いままに、社会の荒波に揉まれ続け、何事も成せないまま年老いていくと言う現実を、思い知らされているように感じたのかも知れない。
ただ、ずっと中原16世と将棋の薄いファンではあり続けた。ただ、それも、中原16世の、世間を騒がせた、例の突撃スキャンダルで、尊敬していた清廉な筈の人格の裏の顔に幻滅して、すっかり将棋、棋界への興味は、失ってしまっていた。
それが、数年前のこと、棋界の大御所になった谷川次期17世も参加している詰将棋回答選手権と言う近年始まったらしい催しで、弱冠小学校六年生が優勝して、将棋村では、ちょっとした騒ぎになっていると言うニュースを、偶然耳にした。自分も興味を失ってからは久しく、もうすっかり斜陽と思っていた将棋界にも、ひょっとする羽生さんの跡を継ぐようなスターが現れたのだろうかと、少し気に止めた記憶がある。
もちろん、それが、現在の藤井二冠だったのだが。自分が、その話題など忘れかけた頃に、長年破られなかった加藤九段の史上最年少プロ記録を更新して、藤井少年の話題は、沸騰し始めた。
その少し前に、現役名人が、将棋ソフトと対局して、無惨に打ち負かされてしまっていた。AIが、将棋では、人間が太刀打ち出来ない次元に迄、進化してしまったのだ。その厳しい現実を背景に、主要なタイトル戦の竜王戦で、挑戦者の三浦九段のスマホカンニング疑惑が取り沙汰され、渡辺竜王側からの抗議で、挑戦者差し替えと言う前代未聞の騒ぎが起きた。三浦九段の名誉は回復されたが、処分を下した連盟会長の谷川九段の引責辞任に迄、事態は発展した。観る将でもなくなっていた自分などは、もう将棋も、将棋連盟も終わりだなと、思っていた。
その直後に、天才少年が、救世主のように現れたのだ。江戸幕府開府の頃に確立された現代の将棋四百年の歴史上、最高の天才と迄褒めそやす人もいる彼のこれまでの活躍は、まだ短くも、驚愕させられる程のものだ。限られた趣味の世界の将棋の話題が、あの羽生九段の七冠独占時やアイドル女優との結婚時などを凌ぎ、世間全般を騒がせた。ルールなどあまり知らなそうな女性たちも加わって、観る将ブームと言われ始めた。自分も、すっかり将棋に対する興味を復活させて、藤井二冠ファンの観る将になってしまった。
正直、孫世代とも言える彼を見ていると、中原さんを凌いでいった谷川さんや、羽生さんなどに対するような、自分に近い世代が追い越されてしまったと言う羨望や嫉妬めいた感情は湧かない。何か、ほっこりした子どもが、勝負になると底知れない強さを発揮して、大人たちをなぎ倒しいく。ただただ、幼い可愛いらしさしか感じさせない風貌だが、辿々しい語り口なのに、話す内容は、格調高くて、随分と大人びている。しかも、生意気では無い。
高齢者になって、あまり大した社会貢献もしてこなくて、この結構情けなくなってしまった世情に、自分にも責任の一欠片はあったかなと思う毎日だが。しかし、藤井少年などを見るにつけ、世の中も、捨てたものではない。未来世代は、なかなか凄いな、と。スポーツ選手などの中にも、旧世代を凌ぐ有望な若者は、次々と、育っているようだし。
昨日の順位戦の藤井二冠の対局結果は、当然の如く、勝利。内容は、実力者中村七段とのお互い慎重で、難解な応酬から、いつの間にか優勢を築き、そのまま隙のない差し回しで、優勢を拡大して押し切る。少年にして、典型的な横綱相撲。先頃優勝した朝日杯のような持ち時間の短い棋戦では、大逆転勝ちのようなご愛嬌もあるが、たっぷり長考出来る順位戦では、どの対戦でも、一時的にも不利になることなど殆ど無いらしい。慎重の上にも慎重を期して、考え尽くす姿勢が、隙の無さを生んでいるのかも知れない。その不用意さとは無縁な様子は、ちょっと若者らしさが無いとも言えるが、そのしたたかな勝負師の姿勢と、ほんわかした雰囲気とのギャップも良い。
とにかく、ここまでの順位戦通算39勝1敗と言う空前絶後の成績。同等の重要棋戦竜王戦も、級別予選で、初参加から四年優勝。もちろん、その人気を決定付けたデビュー戦からの29連勝の通算連勝記録。朝日杯での史上最年少、しかも中学生での全棋士参加棋戦優勝。昨年の史上最年少タイトル、史上最年少二冠もある。卒業目前だった名大附高を敢えて中退して退路を絶った来季は、どこまで強くなるのだろうか。
とにかく、先の見えた高齢者にも、楽しみを与えてくれる。