※赤城の子守唄〜1934年(昭和9年):KIINA.2000年
https://m.youtube.com/watch?v=9QKYgAp5haY
※旅笠道中〜1935年(昭和10年):KIINA.2000年
https://m.youtube.com/watch?v=jDuIwaQzYJU
「赤城の子守唄」は国定忠治を主役にした時代劇映画「浅太郎赤城の唄』の主題歌として作られました。東海林太郎さんの歌は空前の大ヒット。ラジオの普及率が一気に増えただけでなく、映画のタイトルも「赤城の子守唄」に変えられたと言われています。
東海林さんはタキシードに子役時代の高峰秀子さんを背中におぶって、全国各地でこの歌を歌ったそうです。
「旅笠道中」は1935年(昭和10年)公開の清水次郎長をテーマにした映画「東海の顔役」の主題歌として、こちらも東海林太郎さんの歌でリリースされました。
この頃、日本経済はようやくどん底から抜け出て束の間の好景気に沸いていました。日本映画はサイレントからトーキーへ。封切館だけでなく二番館、三番館と料金は安くなりますから、庶民にとって気楽に足を運べる娯楽になったのでしょうね。
このサイレントからトーキーへの移行期に、"股旅もの"が次々と作られました。
"股旅もの"ブームの火付け役となったのは長谷川伸さんの書いた数多くの戯曲でした。「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」「瞼の母」「一本刀土俵入り」は舞台で上演されるやたちまち映画化されました。
この時期に何故"股旅ブーム"が起こったのかについて、映画評論家の佐藤忠男さんが「封建的なやくざ社会の一宿一飯の掟や義理にからめとられながら、そこに人情の血を通わせたいとする意地と悲哀を持った主人公が、同時代の庶民の代弁者となり得たからだ」と指摘されています(「長谷川伸論 義理人情とは何か」)
「一宿一飯の義理にわれわれがいかに深くとらわれているか。真に一宿一飯の義理の名によって、恩も怨みもない他人を殺せと強調できるのは、やくざよりもむしろ国家だからである」
斬った張ったの大活劇だけが喜ばれたのではなかったのですね。「関の弥太っぺ」も「瞼の母」も、長谷川伸さんの戯曲はやくざ渡世の悲哀をテーマにした作品が多いです。
何より「国家」の名が重かったこの時代、庶民は無意識下で義理に絡めとられて心ならずも人を斬るやくざの姿に自分を重ね合わせていたのかもしれません。
KIINA.のオリジナルの股旅演歌の中で、唯一と言っていいマイナー調で作られた「月太郎笠」。大好きな一曲です。
https://m.youtube.com/watch?v=bbpdxoht0N0
まさに一宿一飯の義理によって「恩も恨みもない人」を殺しに行かなければならないやくざ渡世の悲哀を、24歳のKIINA.が見事に歌い上げています。
「赤城の子守唄」と「旅笠道中」の間に入っていても何の違和感もありませんね。