紅白大トリという、世界中の12月31日で最も晴れがましいステージを終えて、明けた2009年。Kiinaのデビュー10周年イヤーが始まりました。
恐らくこの年を誰よりも心待ちにしていたのは、Kiinaよりも長良会長だったのではないでしょうか。
会長は日頃からKiinaに「10周年まで頑張れ。そこまでやれたら大丈夫」(スポーツ報知インタビュー)とおっしゃっていたそうです。
Kiinaが無事に人気歌手として10周年を迎えられたら、どうしても歌わせたかった曲。それが会長のお父様である浪曲師東天晴さんをテーマにした一代記だったのでしょう。
2月4日、デビュー10周年記念曲「浪曲一代」が発表されました。
https://columbia.jp/artist-info/hikawa/discography/COCA-16225.html
初回限定盤のジャケットは、デビュー曲「箱根八里の半次郎」と同じ表情、同じアングルで撮影したそうです。
https://columbia.jp/artist-info/hikawa/discography/COCA-16224.html
今回は書きたいことが沢山あるので、2回に分けて書かせていただきます。
前半は「浪曲師 東天晴」さんのことです。
「浪曲一代」が発表された時、Kiinaも西さんも「伝説の浪曲師」とだけ紹介していたので、「東天晴?誰??」と思われた方が多かったと思います。
でもチコちゃんは、じゃない、私はこの曲の主人公が長良会長のお父様だということを知っていました。
Kiinaの人気が社会現象になって、Kiinaを発掘し育て上げた長良じゅんという人物にも注目が集まるようになった2005年、「週刊朝日」でルポライター岩切徹さんによる長良会長の聞き書き「長良じゅんの人生是浪花節」の連載が始まりました。
この連載はまる1年近く、43回まで続きましたが、この中で会長がご自分のルーツもお話しされていました。
内容を「〜だそうです」と書いているとまだるっこしいので、まるで直に見てきたように書かせていただきますね。
・連載11「父は東天晴というポリドール専属の、結構名前の売れた浪曲師だった」から始まります。
本名は神林駆。熊野神社の近くで生まれ育ち、弟の武彦と碁石に使われる黒い那智石をイカダで運ぶ仕事をしていたところへ、たまたま通りがかった東天紅という盲目の曲師が、耳にした浪曲の声に惚れこんで兄弟をスカウトしました。二人は熊野の親元を離れ岐阜へ。
・やがて天晴さんは売れてきて巡業に出るようになり、浅草で生まれた長良会長は3歳半で岐阜の師匠の家に預けられます。
会長が7歳の時、天晴さんは膵臓がんで亡くなり、今度はお母様に呼ばれて長野へ。
天晴さんの最後の興行先が長野だったという縁で、興行元だった市川勘一さんという方が親代わりを引き受けてくれました。
・曲師をしていたお母様は、長良会長に浪曲師を継がせようと厳しく仕込みます。9歳の時、「東豆天晴」の名前を貰って長野市で一番大きな劇場でお披露目興行を行い、かの大スター広沢虎造さんのひとつ前で「一心太助」をうなりました。
・けれども、会長は1年で浪曲をやめてしまいました。学校でクラスメイトから袴姿をからかわれることに耐えられなかったのです。
・こうして会長は表舞台から裏方の仕事に回り、高校を卒業すると興行の仕事の修行のために上京。ここから長良会長のマネージャー人生が始まるのでした。
岩切さんは、いったん連載が終わった後、水原弘さんや美空ひばりさんとの交流もインタビューして、ゆくゆくは長良会長のマネージャー人生の一代記を一冊の本にまとめるおつもりがあったと思うのですが、残念ながら叶いませんでした。
というわけで、「10周年記念曲は『浪曲一代』」と発表された時、私はすぐに「会長はきよしくんという媒体を通して『東天晴』の名前をのちのちまで残したいんだろう」と思ったのです。
それは、幼くして死別したお父様への思慕もあったでしょうし、「後を継いで欲しい」と願ったお母様への贖罪の思いもあったでしょう。
今や風前の灯同然になった浪曲の世界の中で、「かつて東天晴という優れた浪曲師がいた」という物語を、Kiinaに歌ってもらうことで永久に残したいと思われたのではないでしょうか。
けれども、最初から「東天晴は長良会長の父」と明かせば、「浪曲一代」は会長の私的な曲になってしまいます。「親子愛」「兄弟愛」「師弟愛」を強調することで、この曲のテーマに普遍性を持たせたかったのだと思います。
と、ここまでが「浪曲一代」誕生について私が推量していたことでした。
80年前に亡くなられた伝説の浪曲師東天晴さんは、Kiinaの歌声の中でだけ生き続けていらっしゃいました。
ところが、今私たちは東天晴さんの浪曲を聴くことが出来るのです。
ちょうどコロナ禍が始まった2020年でした。
京都市にある国際日本文化研究センターという研究機関で、2014年にある浪曲愛好家の方から寄贈された約1万枚のSPレコードがデジタルアーカイブ化され、著作権の切れた音源が無料で公開されているというニュースを目にしました。
日文研のHPからたどっていくと、浪曲デジタルアーカイブの中に間違いなく「東天晴」のお名前が。収蔵された44枚の半数には「曲師 東天紅」のお名前があります。
クリックすると、天晴さんの名調子も天紅さんの琴の響きも、まるで目の前で演じられているかのように鮮明に再現されています。
約90年前の天晴さんの肉声です。私は奇跡かと思いました。
長良会長は7歳でお父様を亡くされました。その後、お父様のレコードを聴く機会はあったのでしょうか。
ご生前のうちにこんな風に東天晴さんの浪曲が聴けたらとても喜ばれただろうなぁと思います。
もうひとつ、私が見つけた資料があります。
浪曲の最盛期と言われた昭和初期、プロの浪曲師は全国に3000人いたそうです。
その頃作られた人気番付「大日本浪花節真正大番附」の中の「中堅と花形」という位置に、「東天晴」というお名前が確かにありました。
昭和8年。長良会長がお生まれになる5年ほど前の番付でしょうか。新進気鋭の浪曲師として専門家からも注目されていたのでしょう。
西さんの前口上にある「伝説の浪曲師」は、決してものすご〜く盛った表現ではなかったことを、二つの資料が証明してくれました(^_^)