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一度も自分が死にかけたことのない人間は本当等の人間ではないのよ(老婦長の言葉)

2021-06-12 06:14:50 | 日記

おはようございます。開口一発はっきりあえて乱暴に書ます。

「死にかけたことのない人が、死ぬ気があればなんでもできるとか言うな・・・」と私個人は思う。死ぬときは、問答無用でやってくることを理解しているのだろうか。私は事実15メーターほど車で下に落ちたが、今の車は頑丈で計算されつくされているようで、何とか生きている。どうも、正面からの衝撃には、まぁ数回転はしただろうが、あの程度では死ぬことはないのかもしれない。まさに記憶すらも動転していたが。

一度落ちてみればわかると思う。死んでゆくとは多分だが説明できる。人はこう話しても私を嫌いな人間であれば、まず否定から入るのだろう。それはそうとして、まぁおちてみればわかるだろうが、死んでゆくことはその瞬間に、何も選ぶ余地はないと、あの瞬間に気が付いた。落ちてゆくそのコントロール不能になったあの瞬間に、私の頭の中には「祖母、養父、妻」が見えた。残念ながら、その他の家族は見えなかった。

15年前の自ら死にかけたCPR20000になったときには、動けなくなってゆく自分を上から見ていた気がする。二回目の死にかけた、車で落ちていった結果。あの後から様々なものの見方が徐々に変わってきたと思う。本屋へ行って、ほんの1ミリのずれに気が付いたり、直感的なものがさえたり、苦手であった英語が少しは読めるようになったりもした。本も初めて書いてはみたが50ページも最後のほうは、散々なものになってはいたが、なんとか書きおえた。

兄が、お前はまるでゾンビだなぁ。と私に言ったことがあるが。ゾンビを見た人がいるのかとは思ったのだが、まぁそれも屁理屈ではないか。

随分と話がそれてしまった。

死にかけてもいない人間が、悪いが偉そうに言えた類の言葉ではない。では、私のような人間が、コールセンターで働けばよいのか?違う。これはある意味で、人の選別であるのではいか。危ういこの世の仕組みを、さっさと見抜き、会社を否定せずに、物理的に画面の向こう側に広がる、現実世界をVR、MR、ARなどの機械の目を介さずに、自分の生きている目で見抜かなければ、いけないのではないか。結局、楽しく、嬉しく、気持ちの良いというものは、結果論ではあるが、人も家族をダメにするのは確実だ。入口が広いものは、結構危ういと私は今はそう思う。

この考えも、皆が皆この巨大な変革の時期であれば、気が付く事実ではなかろうか。

なんでも、気が付いた時にはたいてい遅いことのほうが多いものだ。だが、死ぬことに目が向いた人間を止めることはできはしない。全ての社会問題のほとんどは「無関心」が原因であることが多いとやっと気が付いてきたところだ。全て「否定」というところから、絶望は始まるのではなかろうか。

ネガティブワードはなるべく少ないほうが良いではないか。

これからの子供たちはもっともっと厳しく、つらい経験をすることになるだろう。これもある意味では人がふるいに懸けられているといっても過言ではないのかもしれない。ここで、学びとりルk所とができて、流れを読む訓練もできて、わが子への否定をなるべく少なくし、人を許し、まず自分自身を許すこと、それが結果として、人と人との関係の修復につながるきっかけだと、今ははっきりと断言できる。

壊れても再構築すればよいではないか。その関係が修復できないものであるならば、最初からそういうことであったという話だろう。そこにも個人の好き嫌いが存在するのかもしれない。どこでも今は同じであろうが、私の場合は今妻と幼馴染以外は人との関係は壊滅状態にあるようだ、それも気のせいかもしれない。なればこそ、自分に余力があるのであれば、こういう時こそ、買い物に行った穐、片隅で必死に食品を売る、飲食業の方にさりげなくできるときには、そこでも買うようにしている、痛いほどにその人の苦しさが伝わってきた。話をしてみて思った。お金にならない薄利な食品であるのに、更に100円引いてくれるという。甘すぎる私は、泣きそうになった。同じ思いを味わっていると、その人の人に対する悲しみが痛いほどに何処かに突き刺さった。感受性の強すぎるこの甘すぎる人は、会計を済ませ、すぐさまその場を離れ一旦車に戻り、涙がをっ隠そうと必死になっていた。「おセンチなことだと笑うやつは笑えば良い」私の問題なのだから、誰かにどうこう言われる話ではない。一刀両断したとしても問題はないのだろう。

私の妻の中に、現在進行形であるが命が宿っているようだ。明後日検査の日であるのだが、とある前の一件があるために妻は不安で仕方がないようだ。私は無事に生まれてきたならば、DVだと周囲に言われようが何だろうが、「手を挙げる時がくるだろうと想像する(どれだけ悲しいのだろうか・・・。今はまだわからない)」

有名なアニメのセリフではないが、親に殴られもしないで大きくなった人間など何処にいる。「ろくでもない人になる確率のほうが高いであろう」これは、私達の問題だ。ときっぱりと言えることができれば、誰も口出しなどしてこないだろう。

私はあえて嫌われても良いから、キャンプ場へ連れていき、いつか必ず子供を、登ってこれる程度の高さに置き去りにする予定でいると先の話だがついさっき妻に話したばかりだ。そして、少し見えないところで、ずっと登ってくるのを待ってみようと思う。いつか自らがそうしなければ、その子は私のように成り果ててしまうのだろう。それを回避するためにも何が何でも強くなっていただかなければ、その子は生き抜けない。世の中のフェイクも見抜ける目を身につけていただけなければ、あまりにも可哀そうではないか。なぜ子供に気に入られる必要があろうか。優しさ故に・・・。それではないかと、優しすぎたこの人は今そう答えのようなものに行き着いた。

あえて、私は自らの意思で、馬鹿正直に言い続ける選択をする。

最近、ようやく本当に優しい人間のパターンが分かりかけてきたところだ 。失われた空白の20年を家族で一緒に埋めて行くことにする。

 

貴重な時間をありがとうございます。

 



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