これはクリエイティブな取組み。私はいわゆる護憲ではない。地球意識に立って、緑を大切にするための9条を選択し直し、平和を創造していきたい。 この波をこの若狭からはじめて、ピースボートでロシア、韓国、中国の若者のあいだに広げていきたい。
正木さんは著書「木を植えましょう」の中で私たち個人と社会、地球生態系の関係をイクラとスジコとサケの関係にたとえて説く。
今の私たちは自分のことを個として独立した一人の人間と考えているが、それは実はイクラが自分は一つの粒だと感じているのと同じ。そして自分に見えている世界は自分だけの小さな自己中心幻想世界。5人いれば5粒のイクラと同じでそれぞれ5つの小さな幻想世界がある。個人が集まった社会(国、人類社会)はイクラが集まったスジコ(卵巣)であり、そんな小さな幻想世界の集合だ。そしてその国や人類社会はスジコを抱えるサケ、すなわち地球生態系の一部である。私たちは本当はサケす、なわち地球生態系そのものであるのに、自分のことを一粒のイクラだという小さい幻想世界に閉じこもっている。
私たちがイクラとして見えていると思っている世界は客観的な世界でない、マーヤーという幻想世界。仏教で言う無明の世界。 この無知、無明ゆえに私たちは苦しみの鎖に縛られている。
それでは客観世界に至るとはどういう事か。禅で言う見性、あるがままの真実の自己、あるいは世界を見ること。それはいわばイクラの一粒が自己を超越してサケの目を悟り、スジコ全体やサケであることをありのままに見るようなものであろう。ただしそれはエゴが完全に消滅しまったときのサマディー(三昧)とよばれる超常意識においてのみられる世界である。つまりイクラがイクラやスジコの世界を超越してサケの意識を悟るのだ。
この無明のために、本来一体であるはずの自然が人間と環境という主体と客体に分離して見えるのだ。イクラがサケから分離しているように思うのは幻影にすぎない。ところが僕たちは日常的にその幻影世界の中で自己中心的に利害を判断して生きている。
川を壊すことは自分の体を壊すことなのに、僕らは平気で川を壊す。森を削るのは自分の身を削ることなのに僕らは森を切り崩して痛みを感じない。環境を傷つけ、環境から略奪して、「儲かった」「れで安全になった」と考える。こんな錯雑した行動によって僕たちは今日の環境危機を引き起こしている。
覚醒とはアイデンデティーの拡大である。
自意識の成長を見てみよう。まず誕生したときは僕たちは自己愛の固まりだった。幼児も自己愛ばかりだ。それが少年期になると家族愛に目覚める。それから帰属意識は友人関係や学校に拡大し、さらに地域社会、国家、民族、世界、生態系へと広がっていく。
環境危機から脱するには現代人はアイデンデティーを人間社会から地球大のエコシステムに拡大しなければならない。
波の本質は海だ。Aという波もBという波もCという波も同じ海水である。
だが波は「我」を主張して他の波と互いに競い合ったり、打ち消しあったりしている。
一つ一つの波が他の波と個々別々の存在に見えるのは波が我ありと信じているからだ。
「はじめに波ありき」という世界観から出発するとき海面には無数の他者が存在する、通常の意識では僕らは世界をそのように見ている。
確かに一つの波は現象としては存在する。しかしでは波が波だけで単独で存在し得るか。このように深く見ればみれ波が単独で存在できないのは明らかだ。海があるから波がある。
波は海水の特殊な形態であるにすぎない。海という絶対の存在があってそこから波と言う現象が生じているのだから。海水だけが実在するというこのような世界観を非2元論という。非2元論においては「我」という波も、「他」の波も、「多く」の波も全て一つの海である。海という一者が実在しているだけで「他」も「多」も実在しない。
傷つけたり奪ったりするのは彼と我の2元性の幻想に惑わされているためだ。その誤った認識のために自分で自分を傷つけ、自分が自分から奪っているのだ。
何故隣人を愛さなければならないのか。隣人とは自分自身に他ならないからだ。あるイギリス人がガンジーに言った。
「イエスキリストは汝の敵を愛せよ、といわれましたがあなたはまさしくそのように行動しておられます。」
ガンジーは答えた。
「私には敵などいません」
元々他人など存在しない。実在するのは一つの大きな自己だけだ。そうすれば自分が自分を愛するのは当然ではないか。この非2元性から愛が生まれる。愛とはこの一体感のことである。
ここでも私の体の中から大地の中へ深く根が張るのを感じた。そして動き出すときと。
そしていつもどこかに私の中にあった「受け入れられないのではないか」という恐怖が溶けているのを感じた。
正木さんは笑いながらこう語っていた。「私は大乗仏教徒である。すなわち大丈夫仏教徒。すべては絶対大丈夫」としゃれる。、正木さんの中に自然破壊によっていのちが壊されていく事への深い悲しみ、そして時代への危機感、と同時に生きとしいけるすべてのいのちへの賛歌とそこのぬけの楽天主義が混在する。そしてその根源にはすべてのものが、すべてのいのちが一つのものであるという非2元論の認識。この認識で生きることこそがいまの私たちが取りもどさなくてはならない課題。これこそが究極の真理。
この真理を生きていることが正木さんの瞳の色の透明さのヒミツなのかもしれない。
正木さんのトークライブに続いて正木さんの祈りと記念植樹、そしてミナルさんの舞いがあった。
記念植樹には宮脇さんに教えていただいたこの若狭地域の潜在植生である、ウラジロガシとスダジイそしてコナラを10本植えた。参加者全員で土をかけた。
そのあとミナルさんの舞いが奉納された。櫻の木の下で舞いが始まったがミナルさんが櫻の樹の精のように見えた。舞いが始まると境内全体が柔らかいエネルギーで覆われるのを感じた。そしてそのミナルさんの姿は真っ白い純白のチョゴリ姿。朝鮮の民族衣装。深々と大地にひれ伏すところから舞いは始まった。ミナルさんは太極のボールを胸に抱き、天と大地とすべてのいのちへの感謝の思いを一心に舞いで表現しているように感じられた。 その感謝の思いの一点の混じりけ気もない純粋さに圧倒された。私心から抜け出し、感謝の思いになりきり、すべてを天の流れに身をゆだねる舞いは本当に美しかった。あの小さい体の中から地域全体へと広がるあまりに大きなエネルギーにただ、ただ酔いしれるばかりであった。
この舞いを見ていて強烈に感じたことがる。ああ、平和の中ですべてのいのちが輝きあう新しい時代がはじまる。空絵ごとでなく新しい時代がここから始まるのだという確信がふつふつと沸いてきた。そのような確信をミナルさんの舞いよりいただいた。
ミナルさんによるとチョゴリで踊りたいという気持ちが強烈にしたので、この日のためにチョゴリを注文し、ぎりぎり間に合ったとのこと。このチョゴリで舞われた舞いは朝鮮半島と本当に縁の深いこの若狭と日本が朝鮮半島を通じてユーラシア大陸に再びつながりはじめる、そのスタートとなるのだと感動に包まれた。この後の辻さんの話ともシンクロして、日本海が平和の海、和解の海、つながりの海とし「虹の海」として新しく生まれていくのを感じた。そしてそのために必要なのは私たちの意識の拡大。 自分とは何なのかの認識をイクラからサケへ、波から海へと同じように、自分とは肉体をもった個人にとどまるものではなく、地球と地球上の全ての命であることへの意識の拡大、そしてこの意識で日々を生きはじめることだと強く感じた。
祭りはそのあと「日本海の名前を考えてみませんか」というシンポジュームになった。正木さんと辻信一さん、中川一郎さん、やえさんの4人によるシンポジュームであった。中川さんとは旧知の間柄、憲法9条の選び直そうという運動を取り組んでいる。辻さんの話をきいてから辻さんの著書「スロー快楽主義宣言」という本を池尾さんに紹介されてはじめて読んだ。これにも又目から鱗の衝撃を受けた。新しいロハス(持続可能で健康)な暮らしの哲学と具体的な取組例、指針が満載。新しい時代の羅針盤ともなる一冊で私にとっての座右の書だと感じた。私にとって正木さんの「木をうえましょう」が原論なら「スロー快楽主義宣言」は生活の実践の書。
夜の演奏はやえさん、真砂さん、neneさん、ミナルさんを中心にすすめられた。やえさんは加藤登紀子の娘さんで農園もやっている。大地から歌がうまれているという印象を受けた。宮沢賢治が農民芸術概論をあらわし農民の芸術活動を説いたがそれが姿を現しはじめていると感じた。夜のインディアンフルートの奉納演奏の真砂さんも農業をやっているという。自然と生きる生活の中からうまれる本物の芸術というのを感じた。土の臭いと同時に本当にナチュラルでピュアで深い演奏が続き、来るべき未来の芸術を体験した。
至福体験。
今回のにじうみ祭りのアーティストとしての参加者は正木さんを筆頭に全員シャーマンであるように思えた。自然や宇宙と会話ができる。古事記には「石や木々がしゃべりまくりやかましい」という記述があるときいたことが。古代の人々は、石や木々の声を聞くことができたようだ。 仏教の「山川草木皆悉有仏性」とも通じる感覚。実は私たちも全員備えている感覚ではないかと思う。ただ物質文明の中の自分中心の生活のなかで中でさびつかせてしまった感覚。私たちは隣の人から全人類に至まで、目の前の木々から山川海空、そして地球、太陽と月と星々、宇宙にいたるまで大きな一つのいのち。分かちがたくつながっている。あなたは私、全ての人類は私、目の前の木々から山川海空もすべては私。地球、太陽、月、星々、宇宙も私。私たちもその感覚を取り戻す道を歩みたい。そこに新しい時代が生まれる予感がある。