新しい時代が生まれる確信
・・・「虹海祭り」を手伝って(その1)
私は自分の体から太い根が大地に深く伸びるのを感じた。
小浜市 徳 庄 博 美
4月15日(日)に小浜明通寺にて虹海祭りが開かれた。この祭りは正木高志さんの呼びかけに応えてNG0アンナプルナが主催したものだった。
この取組みの中での気づきが私にとって大きな意味を持っていたので言葉としてまとめておきたいと考え文章化していた。その時に、はとぽっぽより「にじうみ祭り」の報告依頼があったので個人的な体験手記として投稿させてもらうことにした。正木さんの思いを誤って理解しているところも多々あると思うが容赦のほどをお願いしたい。
正木さんはインドでヴェーダンタ哲学を学び、インド各地を遊行。そして現在では家族と共に九州阿蘇でお茶を中心としたアンナプルナ農園を経営し、近くの山に多くの仲間と共に木を植え森の再生に取り組みながら、小鳥たちの鳴き声と共に生きている方である。
数年前、正木さんは猿田彦という名前に誘われるようにして、奈良吉野へ、そして丹後へ、さらに島根の佐田神社へと歩き続けた。そして佐田神社の近くにある島根原子力発電所を眺めているときに一つの忌まわしいビジョンが浮かんだという。もし日本が憲法9条を変えて、戦争をする体制をととのえ、対立している国へ武力攻撃に踏み切るならば、相手国は日本へ最も大きな打撃を与える方法として原子力発電所へのミサイル攻撃を行うであろう、私が相手国なら必ずそうすると。 またすでに今でも原子力発電所の放射能は海のいのちを苦しめつづけているのに、さらに六ケ所村で再処理が本格的に行われるようになればすざまじい放射能がまき散らされ、すべてのいのちが枯れ果ててしまう地獄を生み出してしまうであろう、という思いが沸々と湧いてきたという。
このような未来を現実化させてはならない、そのために春分の日に出雲を発ち、原子力発電所の建ち並ぶ日本海側を木を植えながら歩き、夏至の日に六ケ所村にたどりついて国民が憲法9条を選び直すための平和の祈りを捧げたい、 さらに日本海の名前を日本海を取り巻く全ての国が受け入れることのできる名前に考えなおし、そこから日本海を対立の海から国と国をつなぐ、人と人をつなぐ平和の海へとしていきたい、この動きをNGOを立ち上げ、日本だけでなく、ロシアや韓国、北朝鮮、中国にも広げていきたい、そこから全世界に平和を生み出していきたい、 若狭は原発の集中立地場所でありこここで虹海祭りをおこない、世界的な新しい平和運動のスタートとしたい、と言う思いでウォーク9をはじめ、若狭でにじうみ祭りを計画しているいう。こういう話をNGOアンナプルナよりきき、大いに共感し、手伝いをさせてもらうことになった。
このお手伝いを通じて、私は自分の中に出始めていた新しい生き方の小さい根が急速に成長し、太くなり、深く大地に伸びてゆき、しっかり根が張ったのを感じた。そしてこれからの人生の生き方の方向性が固まり、この道以外に私の生きる道はないと確信を持つことができた。このように私には決定的ともいえる大きなインパクトを持つ出会いがこのにじうみ祭りであった。お手つだいをさせてもらえたことに感謝である。
正木さんとは今まで全く面識が無かったが、はじめて出会い握手をしたときに驚いた。その目にびっくりをしたのだ。茶色の目が深く澄み切り、吸い込まれそうであった。
最初の打ち合わせのとき「大切なのはウォークやイベントに集まる人数ではない。祈りの深さだ。いかに自分が垂直に深く振動するかだ。」という意味のことを聞いた。これがまず衝撃だった。いままで私は様々な社会運動は人数が大きな力だと考えていた。運動を行うとき、できるだけ多くの人に行動を共にしてほしいと考えそのことを第一に強く意識して取り組んできた。しかしその前に自分を深く見つめること、内面を掘り下げることの大切さの指摘であった。そうなのだ、あの痩せて布を1枚まとっただけの無位無冠のガンジーがインドを非暴力で独立に導いた力もこの力ではなかったか。ガンジーはサティアグラハということが最も大切だと言っていた。サティアグラハは真理把持と言うように訳されていると思うが、この真理から出発しているか否かがこれからの私たちに問われていることと感じた。
ガンジーだけでなく、振り返れば大きな運動も小さな運動もどのような運動も最初は全て一人から出発している。その人は何度も何度も独りになって自分に問い続け、自分を掘り下げて、自分の内側の声をきいて、運動を始めている。そして本物の運動は自らの思いが宇宙の真理に則っているかを常に問い続けている。谷津(やつ)干潟をよみがえらせた森田さんもそうであった。森田さんはゴミ捨て場になっていた東京湾の習志野市の谷津干潟を、昔遊んだ元の干潟によみがえらせたいと、新聞配達の仕事が終わると来る日も来る日も、雨の日も風の日ももただ一人黙々とゴミ拾いを行い続けた。誰に訴えることもなく、ただひとりで。時には冷やかしの声や「ええ格好するな」などの罵声を浴びながらも。ゴミを拾った後又ゴミが捨てられる。いたちごっこだった、しかし数年たつ内にようやく森田さんの行動を理解して、共にゴミ拾いをする人が一人、二人と現れてきた。やがて支援者が増え、ついにはカニや鳥の自然の憩いの場所、子どもたちの遊びの場所として谷津干潟は見事によみがえった。現在はラムサール条約に登録された自然観察公園として習志野市の誇る人々の癒しの場所となっている。あの森田さんも五輪の書や聖書を繰り返し読んで自分を問い直したという。
しかし私の場合は自分一人でまず立つ、というではなく同じ思いを持つ仲間に依存する、群れるところを出発点にしていたのではないかという言うことに気がついた。
そしてその真理の力を強く感じたのが市長への表敬訪問のとき。
表敬訪問の応接室に現れた市長は最初は表情が少しこわばっているように感じた。定岳さんが「中間貯蔵施設の誘致反対を市長が決定していただいたのを遠くから聞いて嬉しく思いました。ありがとうございました」と述べたときもまだ市長は距離感を抱いているのではないかと感じた。初対面であれば当然であったかもしれないし、さらに9条問題が正面にでると今の日本の政治的な雰囲気の流れの中で、市長という立場では微妙な問題となる可能性もあった。私は秘かにそのことを少し恐れていた。
しかし市長の堅い表情が急に崩れたのは正木さんとチコさん、ラビさん家族3人で 「木を植えましょう」と「慈しみ(ブッダの言葉);すべての生きもたちよ幸せであれ」 に曲をつけて歌ったときである。応接室の空気が一瞬で変わったように感じた。応接室に平和と和らぎが訪れた。
この時の歌詞となっていた釈迦の有名な言葉「慈しみ:すべての生きものたち幸せであれ」は今までにも知識としては知ってはいた。しかし、この歌によってはじめて私にはいのちを持った言葉として迫ってきた。それは決して2400年前の言葉ではなく、21世紀の今こそ必要なこれからの生き方の指針として深く胸にしみこむものであった。少し長くなるが紹介したい。(中村元さんの原訳は 岩波文庫 「ブッダの言葉」蛇の章に あります)
慈しみ (「ブッダのことば」より
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
ハリー オーム シャンティ シャンティ シャンティ
能力(ちから)あり まっすぐ 正しく 言葉優しく
柔和で 思い上がりの ないもので あるように
足ることを知り 質素で 雑務少なく 簡素に暮らし
清らかで 聡明で 高ぶらず むさぼらず
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
母親が ひとり子を 命をかけて まもるように
そのように いっさいの 生き物たちを 慈しめ
立ちつつも 歩みつつも 坐っているときも 横になっているときも
眠らないでいるかぎり このこころを しっかりたもて
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
ハリー オーム シャンティ シャンティ シャンティ
ハリー オーム シャンティ シャンティ シャンティ
そうなんだ、そうなんだ、私たちはこの釈迦が説いた道から遙かに離れてきてしまったのだ、そして様々な深刻な環境破壊と、戦争、社会問題、心と身の病を生み出してきてしまった。この道に立ち返らなければならないのだ。 これらの出口が見えないような問題もこの道に還ることで解決されるであろう、そして本当の安らぎと幸せ、喜びのなかで生きられるようになるだろうと深く納得した。
私は3人の歌を聴きながらこのように感動していたが、市長もこの2つの歌をきっかけに急に心がほぐれた様子で、手拍子を取り出して歌にあわせはじめた。そして多弁になり宗教が戦争を引き起こしている問題点と宗教どうしが手を取り合うことの大切さ、そして若狭には神宮寺という神道と仏教の融合した伝統があるという話になった。それは実は正木さんのライフワークとも重なる話だということで2人で盛り上がった。
この様子をみていて深く感じたことがある。人と人の溝を溶かし、つながりをつくるものは理屈ではないということだ。私は人を納得させるのは理論だと考えていた時代が長くあった。理屈を積み重ねて相手を説き伏せる、このような姿勢を取っていた。そこで意見の違う相手に対する時には、前もって、何を言えば効果的に説得できるか反復練習をしている自分がいた。心は緊張でかたくなっていた。しかしその結果は気まずい思いを残し、物別れになることが多かった。そして心の中で相手に対しののしっている自分がいた。しかし、振り返ってみると私の心の奥には常に相手に対し「受け入れられないのではないか」という恐怖が巣くっていたように思う。
だが、正木さんの姿勢はちがった。歌で市長の心をほぐしてしまったのだ。そして歌の内容が本当に誰もが心の底で求めてるいのちの大切さの訴え。そしてそれが心のつながりを生み出してしまった。そこから会話が弾みだした。
私たちがこれから若狭の再生の取組をしていくとき大切な姿勢を学ばせてもらったように思う。「一切の生きとし生けるものよ幸福なれ」という、誰もが心の深いところで共通して持っている願いを取組みのいのちとしていくことの大切さである。原発の問題も、憲法9条の問題も、森林や海、農業、福祉、子育て、教育の問題もである。この思いがこれからの時代最も大切になってきていると感じる。この釈迦の思いはこの「にじうみ祭り」を受け入れていただいた明通寺の住職、哲演さんの思いでもあると思う。(つづく)
にじうみ祭りは正木さんのトークライブで始まった。
でだしは奥さんのチコさんの乳ガンの話で始まった。奥さんに乳ガンが発見されて正木さんは奥さんの死の可能性ということを目の前に突きつけられて愕然となり、病院近くの公園をさまようように歩いていた。しかしそのとき櫻の木の近くを通ったとき「私も病んでいる」という声が聞こえたような気がしたという。そして空耳かと振り返りよく見ると老いた櫻の木が立っており、よく見るとその樹はの肌は荒れ、樹全体が衰弱しているのが見て取れた。正木さんはさっきの声はこの櫻の木の声だったのだろうかと考えた。正木さんは改めて気がついた。私たちが空気や土壌を汚してきたせいで人間だけでなく樹も深く傷ついていたのだと。私たちの肉体は水や食べた食物から成り立っている。そして空気を呼吸しながら生きている。そう考えると私たちの肉体は環境でないものは何一つない。私たちの肉体は環境で成り立っている。しかしその環境を、水を、土を、空気を私たちは汚してきた。その汚染は木々や農作物に病気をもたらす。そしてその汚された農作物を、水を空気を私たちは体内に取り入れている。そうならば私たちの肉体も病むのが当然ではないか。妻の癌は自然が病んでいることの結果だったのではないか。そこで奥さんと相談して自然のために何ができるか考えた。近くの山が伐採されいていたので、その山の森を再生させるために、落葉樹の植林をはじめようと考えた。自然保護運動は開発をしようとする人々と意見が対立することがあるが、植林は誰もが賛成してくれる。呼びかけると阿蘇の地域の多くの人々が集まった。そしてその植林が本当に楽しいことに気づく。そして元気がもらえる。森の中で鳴く小鳥たちの声がすばらしい。この楽しさが生まれるのは、森には妖精が住んでいいて喜んでくれているからではないかと感じることもあったという。
私たちも森林(もり)の会をつくり炭焼や炭撒き、間伐の活動をはじめているがそのときの心地よさと植林の楽しさに共通するものがあるのを感じた。そして私たちは環境そのものであるいう考えには改めて目を覚まされた思いである。
Walk9のにじうみ祭りについては次の詩が正木さんの中に生まれてから動きが始まったという。
お母さんあなたの名前は何ですか。
お母さん あなたの北に住む人は
あなたを南海と呼んでいます。
お母さん あなたの南に住む人たちは
あなたを北海と呼んでいます。
お母さん あなたの西に住む人達は
あなたを東海と呼んでいます。
お母さん あなたの東に住む人たちは
あなたを西海と呼んでいます。
そうして争っています。
この海は南海だ、北海だ、東海だ、西海だ。
争いには終わりがありません。
みんな正しいのですから。
都会が大きくなり 森が小さくなり
ゴミが増え、海が小さくなり
とうとう戦争が起きそうになりました。
おかあさん、あなたの名前は何ですか。
これはまさに今の日本海をめぐる政治状況。
さらによく見れば世界中に同じ構図の争いがある。そして多くの血が今日も流され続けている。 若い兵士だけでなく、こども、お年寄りも容赦なく一般市民も巻き込みながら。
対立は世界各地に広がり、あちこちで緊張がギリギリと高まっている。
日本海(東海)周辺をめぐりすでにいくつかの地域で感情的な対立が生まれつつある。
尖閣(釣魚台)諸島でのガス田をめぐる中国との対立、竹島(独島)をめぐる韓国との対立が先鋭化しつつある。そのなかで韓国・朝鮮、中国敵視を公然と説く人々やマスコミの活動も活発である。
日本海の歴史を見たときそこには交流(結び)の海と争いの海という2つの顔が浮かび上がる。室町期までは日本海は日本とアジア、半島を結ぶ交流(結び)の海だった。我々日本人の多くは半島をとおって何派にもわかれて日本海を渡りやってきた移住者の末裔。日本列島はシルクロードの東端でユーラシア大陸から多くの人々が海を渡ってやってきたと言う説が歴史学上でも有力になってきている。中でも若狭はその交流の正面玄関。その歴史がふるさと若狭にも色濃く残る。若狭の名称自体が韓国語のワッサ、カッサ=行き来する、から来たという説もあるぐらい半島とも関係が深い。人々と文化が日本海をとうして平和の内に交流しあい、つながっていた。
しかし秀吉の時代には朝鮮支配を目指して半島出兵を行った。江戸時代は平和な友好の時代がつづいたが、明治にはいると戦争の時代に入り、日本政府は、日清戦争や日ロ戦争を引き起こした。その戦争の舞台に日本海と朝鮮半島がなった。これらの戦いに勝利した日本政府は韓国併合を行い、朝鮮の植民地支配をはじめた。その中で日本政府は朝鮮ひとびとの土地や資源や文化、言葉、名前をうばい、抵抗する人々の命を奪った。、戦争中には200万人ともいわれる朝鮮の人々の強制連行まで行った。日本の敗戦により朝鮮は独立を達成したが、朝鮮戦争を経て、冷戦の中で、日本は韓国政府と友好関係を結んだが北朝鮮は対立した。 そして今度は北朝鮮による拉致事件やミサイルの発射実験。それに反応して日本政府はアメリカと共同してミサイル防衛体制構築を進める。そして憲法9条の改憲を問う国民投票法案が国会を通過させた。
戦争の歴史を振りかえり、対立が激しくなる今を思うと気が重くなる。
そこで出会ったのがこの「お母さんあなたの名前は何ですか」の詩。
全ての国の、全ての人々の主張にはそれぞれにとっては正しく、それぞれの理由がある。 しかしそれを相互が譲ることなく主張をぶつけあえば、そこにはやがて戦争が生まれる。
正木さんは日本人の日本海に対する愛着の思いは当然のことだとし、よく理解する。しかしそうならば同時に朝鮮の人々にとっても東海という名前が大切なのも当然であろう、という。
このような時代の中で今の私たちのとって必要なのは意識のシフトだと正木さんは言う。日本国民意識から地球意識へのシフト。「私にも愛国心がある。しかし私は日本人の前に地球人」と。周辺の国にとってもそれは同じ。もし今度相互にミサイルを使った戦争になり、核施設もねらわれるとしたらどの国も滅びる。そして地球のすべてのいのちは回復不能にまで深く傷つく。
このように私たちが地球市民になることは不可能だろうかと正木さんは問いかける。決してそれは不可能ではないと言う。なぜなら日本で戦国時代には、戦国大名達が国ごとに争いあい、その後の、江戸時代には関所で国と国は分けられていた。しかし今国ごとに争いあっているだろうか、関所や国境は消えてなくなり、日本という国になった。 今自分は若狭の国の人間だと人はいないだろう。同じじように今度は日本や韓国・朝鮮、中国、ロシアという国境が無くなる時代が来る。そしてそこに平和が訪れる。 そのために必要なのは私たちの意識を国民意識から地球市民意識へシフトさせること。
・・・「虹海祭り」を手伝って(その1)
私は自分の体から太い根が大地に深く伸びるのを感じた。
小浜市 徳 庄 博 美
4月15日(日)に小浜明通寺にて虹海祭りが開かれた。この祭りは正木高志さんの呼びかけに応えてNG0アンナプルナが主催したものだった。
この取組みの中での気づきが私にとって大きな意味を持っていたので言葉としてまとめておきたいと考え文章化していた。その時に、はとぽっぽより「にじうみ祭り」の報告依頼があったので個人的な体験手記として投稿させてもらうことにした。正木さんの思いを誤って理解しているところも多々あると思うが容赦のほどをお願いしたい。
正木さんはインドでヴェーダンタ哲学を学び、インド各地を遊行。そして現在では家族と共に九州阿蘇でお茶を中心としたアンナプルナ農園を経営し、近くの山に多くの仲間と共に木を植え森の再生に取り組みながら、小鳥たちの鳴き声と共に生きている方である。
数年前、正木さんは猿田彦という名前に誘われるようにして、奈良吉野へ、そして丹後へ、さらに島根の佐田神社へと歩き続けた。そして佐田神社の近くにある島根原子力発電所を眺めているときに一つの忌まわしいビジョンが浮かんだという。もし日本が憲法9条を変えて、戦争をする体制をととのえ、対立している国へ武力攻撃に踏み切るならば、相手国は日本へ最も大きな打撃を与える方法として原子力発電所へのミサイル攻撃を行うであろう、私が相手国なら必ずそうすると。 またすでに今でも原子力発電所の放射能は海のいのちを苦しめつづけているのに、さらに六ケ所村で再処理が本格的に行われるようになればすざまじい放射能がまき散らされ、すべてのいのちが枯れ果ててしまう地獄を生み出してしまうであろう、という思いが沸々と湧いてきたという。
このような未来を現実化させてはならない、そのために春分の日に出雲を発ち、原子力発電所の建ち並ぶ日本海側を木を植えながら歩き、夏至の日に六ケ所村にたどりついて国民が憲法9条を選び直すための平和の祈りを捧げたい、 さらに日本海の名前を日本海を取り巻く全ての国が受け入れることのできる名前に考えなおし、そこから日本海を対立の海から国と国をつなぐ、人と人をつなぐ平和の海へとしていきたい、この動きをNGOを立ち上げ、日本だけでなく、ロシアや韓国、北朝鮮、中国にも広げていきたい、そこから全世界に平和を生み出していきたい、 若狭は原発の集中立地場所でありこここで虹海祭りをおこない、世界的な新しい平和運動のスタートとしたい、と言う思いでウォーク9をはじめ、若狭でにじうみ祭りを計画しているいう。こういう話をNGOアンナプルナよりきき、大いに共感し、手伝いをさせてもらうことになった。
このお手伝いを通じて、私は自分の中に出始めていた新しい生き方の小さい根が急速に成長し、太くなり、深く大地に伸びてゆき、しっかり根が張ったのを感じた。そしてこれからの人生の生き方の方向性が固まり、この道以外に私の生きる道はないと確信を持つことができた。このように私には決定的ともいえる大きなインパクトを持つ出会いがこのにじうみ祭りであった。お手つだいをさせてもらえたことに感謝である。
正木さんとは今まで全く面識が無かったが、はじめて出会い握手をしたときに驚いた。その目にびっくりをしたのだ。茶色の目が深く澄み切り、吸い込まれそうであった。
最初の打ち合わせのとき「大切なのはウォークやイベントに集まる人数ではない。祈りの深さだ。いかに自分が垂直に深く振動するかだ。」という意味のことを聞いた。これがまず衝撃だった。いままで私は様々な社会運動は人数が大きな力だと考えていた。運動を行うとき、できるだけ多くの人に行動を共にしてほしいと考えそのことを第一に強く意識して取り組んできた。しかしその前に自分を深く見つめること、内面を掘り下げることの大切さの指摘であった。そうなのだ、あの痩せて布を1枚まとっただけの無位無冠のガンジーがインドを非暴力で独立に導いた力もこの力ではなかったか。ガンジーはサティアグラハということが最も大切だと言っていた。サティアグラハは真理把持と言うように訳されていると思うが、この真理から出発しているか否かがこれからの私たちに問われていることと感じた。
ガンジーだけでなく、振り返れば大きな運動も小さな運動もどのような運動も最初は全て一人から出発している。その人は何度も何度も独りになって自分に問い続け、自分を掘り下げて、自分の内側の声をきいて、運動を始めている。そして本物の運動は自らの思いが宇宙の真理に則っているかを常に問い続けている。谷津(やつ)干潟をよみがえらせた森田さんもそうであった。森田さんはゴミ捨て場になっていた東京湾の習志野市の谷津干潟を、昔遊んだ元の干潟によみがえらせたいと、新聞配達の仕事が終わると来る日も来る日も、雨の日も風の日ももただ一人黙々とゴミ拾いを行い続けた。誰に訴えることもなく、ただひとりで。時には冷やかしの声や「ええ格好するな」などの罵声を浴びながらも。ゴミを拾った後又ゴミが捨てられる。いたちごっこだった、しかし数年たつ内にようやく森田さんの行動を理解して、共にゴミ拾いをする人が一人、二人と現れてきた。やがて支援者が増え、ついにはカニや鳥の自然の憩いの場所、子どもたちの遊びの場所として谷津干潟は見事によみがえった。現在はラムサール条約に登録された自然観察公園として習志野市の誇る人々の癒しの場所となっている。あの森田さんも五輪の書や聖書を繰り返し読んで自分を問い直したという。
しかし私の場合は自分一人でまず立つ、というではなく同じ思いを持つ仲間に依存する、群れるところを出発点にしていたのではないかという言うことに気がついた。
そしてその真理の力を強く感じたのが市長への表敬訪問のとき。
表敬訪問の応接室に現れた市長は最初は表情が少しこわばっているように感じた。定岳さんが「中間貯蔵施設の誘致反対を市長が決定していただいたのを遠くから聞いて嬉しく思いました。ありがとうございました」と述べたときもまだ市長は距離感を抱いているのではないかと感じた。初対面であれば当然であったかもしれないし、さらに9条問題が正面にでると今の日本の政治的な雰囲気の流れの中で、市長という立場では微妙な問題となる可能性もあった。私は秘かにそのことを少し恐れていた。
しかし市長の堅い表情が急に崩れたのは正木さんとチコさん、ラビさん家族3人で 「木を植えましょう」と「慈しみ(ブッダの言葉);すべての生きもたちよ幸せであれ」 に曲をつけて歌ったときである。応接室の空気が一瞬で変わったように感じた。応接室に平和と和らぎが訪れた。
この時の歌詞となっていた釈迦の有名な言葉「慈しみ:すべての生きものたち幸せであれ」は今までにも知識としては知ってはいた。しかし、この歌によってはじめて私にはいのちを持った言葉として迫ってきた。それは決して2400年前の言葉ではなく、21世紀の今こそ必要なこれからの生き方の指針として深く胸にしみこむものであった。少し長くなるが紹介したい。(中村元さんの原訳は 岩波文庫 「ブッダの言葉」蛇の章に あります)
慈しみ (「ブッダのことば」より
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
ハリー オーム シャンティ シャンティ シャンティ
能力(ちから)あり まっすぐ 正しく 言葉優しく
柔和で 思い上がりの ないもので あるように
足ることを知り 質素で 雑務少なく 簡素に暮らし
清らかで 聡明で 高ぶらず むさぼらず
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
母親が ひとり子を 命をかけて まもるように
そのように いっさいの 生き物たちを 慈しめ
立ちつつも 歩みつつも 坐っているときも 横になっているときも
眠らないでいるかぎり このこころを しっかりたもて
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
すべての 生きもたち 幸せであれ 幸せであれ
ハリー オーム シャンティ シャンティ シャンティ
ハリー オーム シャンティ シャンティ シャンティ
そうなんだ、そうなんだ、私たちはこの釈迦が説いた道から遙かに離れてきてしまったのだ、そして様々な深刻な環境破壊と、戦争、社会問題、心と身の病を生み出してきてしまった。この道に立ち返らなければならないのだ。 これらの出口が見えないような問題もこの道に還ることで解決されるであろう、そして本当の安らぎと幸せ、喜びのなかで生きられるようになるだろうと深く納得した。
私は3人の歌を聴きながらこのように感動していたが、市長もこの2つの歌をきっかけに急に心がほぐれた様子で、手拍子を取り出して歌にあわせはじめた。そして多弁になり宗教が戦争を引き起こしている問題点と宗教どうしが手を取り合うことの大切さ、そして若狭には神宮寺という神道と仏教の融合した伝統があるという話になった。それは実は正木さんのライフワークとも重なる話だということで2人で盛り上がった。
この様子をみていて深く感じたことがある。人と人の溝を溶かし、つながりをつくるものは理屈ではないということだ。私は人を納得させるのは理論だと考えていた時代が長くあった。理屈を積み重ねて相手を説き伏せる、このような姿勢を取っていた。そこで意見の違う相手に対する時には、前もって、何を言えば効果的に説得できるか反復練習をしている自分がいた。心は緊張でかたくなっていた。しかしその結果は気まずい思いを残し、物別れになることが多かった。そして心の中で相手に対しののしっている自分がいた。しかし、振り返ってみると私の心の奥には常に相手に対し「受け入れられないのではないか」という恐怖が巣くっていたように思う。
だが、正木さんの姿勢はちがった。歌で市長の心をほぐしてしまったのだ。そして歌の内容が本当に誰もが心の底で求めてるいのちの大切さの訴え。そしてそれが心のつながりを生み出してしまった。そこから会話が弾みだした。
私たちがこれから若狭の再生の取組をしていくとき大切な姿勢を学ばせてもらったように思う。「一切の生きとし生けるものよ幸福なれ」という、誰もが心の深いところで共通して持っている願いを取組みのいのちとしていくことの大切さである。原発の問題も、憲法9条の問題も、森林や海、農業、福祉、子育て、教育の問題もである。この思いがこれからの時代最も大切になってきていると感じる。この釈迦の思いはこの「にじうみ祭り」を受け入れていただいた明通寺の住職、哲演さんの思いでもあると思う。(つづく)
にじうみ祭りは正木さんのトークライブで始まった。
でだしは奥さんのチコさんの乳ガンの話で始まった。奥さんに乳ガンが発見されて正木さんは奥さんの死の可能性ということを目の前に突きつけられて愕然となり、病院近くの公園をさまようように歩いていた。しかしそのとき櫻の木の近くを通ったとき「私も病んでいる」という声が聞こえたような気がしたという。そして空耳かと振り返りよく見ると老いた櫻の木が立っており、よく見るとその樹はの肌は荒れ、樹全体が衰弱しているのが見て取れた。正木さんはさっきの声はこの櫻の木の声だったのだろうかと考えた。正木さんは改めて気がついた。私たちが空気や土壌を汚してきたせいで人間だけでなく樹も深く傷ついていたのだと。私たちの肉体は水や食べた食物から成り立っている。そして空気を呼吸しながら生きている。そう考えると私たちの肉体は環境でないものは何一つない。私たちの肉体は環境で成り立っている。しかしその環境を、水を、土を、空気を私たちは汚してきた。その汚染は木々や農作物に病気をもたらす。そしてその汚された農作物を、水を空気を私たちは体内に取り入れている。そうならば私たちの肉体も病むのが当然ではないか。妻の癌は自然が病んでいることの結果だったのではないか。そこで奥さんと相談して自然のために何ができるか考えた。近くの山が伐採されいていたので、その山の森を再生させるために、落葉樹の植林をはじめようと考えた。自然保護運動は開発をしようとする人々と意見が対立することがあるが、植林は誰もが賛成してくれる。呼びかけると阿蘇の地域の多くの人々が集まった。そしてその植林が本当に楽しいことに気づく。そして元気がもらえる。森の中で鳴く小鳥たちの声がすばらしい。この楽しさが生まれるのは、森には妖精が住んでいいて喜んでくれているからではないかと感じることもあったという。
私たちも森林(もり)の会をつくり炭焼や炭撒き、間伐の活動をはじめているがそのときの心地よさと植林の楽しさに共通するものがあるのを感じた。そして私たちは環境そのものであるいう考えには改めて目を覚まされた思いである。
Walk9のにじうみ祭りについては次の詩が正木さんの中に生まれてから動きが始まったという。
お母さんあなたの名前は何ですか。
お母さん あなたの北に住む人は
あなたを南海と呼んでいます。
お母さん あなたの南に住む人たちは
あなたを北海と呼んでいます。
お母さん あなたの西に住む人達は
あなたを東海と呼んでいます。
お母さん あなたの東に住む人たちは
あなたを西海と呼んでいます。
そうして争っています。
この海は南海だ、北海だ、東海だ、西海だ。
争いには終わりがありません。
みんな正しいのですから。
都会が大きくなり 森が小さくなり
ゴミが増え、海が小さくなり
とうとう戦争が起きそうになりました。
おかあさん、あなたの名前は何ですか。
これはまさに今の日本海をめぐる政治状況。
さらによく見れば世界中に同じ構図の争いがある。そして多くの血が今日も流され続けている。 若い兵士だけでなく、こども、お年寄りも容赦なく一般市民も巻き込みながら。
対立は世界各地に広がり、あちこちで緊張がギリギリと高まっている。
日本海(東海)周辺をめぐりすでにいくつかの地域で感情的な対立が生まれつつある。
尖閣(釣魚台)諸島でのガス田をめぐる中国との対立、竹島(独島)をめぐる韓国との対立が先鋭化しつつある。そのなかで韓国・朝鮮、中国敵視を公然と説く人々やマスコミの活動も活発である。
日本海の歴史を見たときそこには交流(結び)の海と争いの海という2つの顔が浮かび上がる。室町期までは日本海は日本とアジア、半島を結ぶ交流(結び)の海だった。我々日本人の多くは半島をとおって何派にもわかれて日本海を渡りやってきた移住者の末裔。日本列島はシルクロードの東端でユーラシア大陸から多くの人々が海を渡ってやってきたと言う説が歴史学上でも有力になってきている。中でも若狭はその交流の正面玄関。その歴史がふるさと若狭にも色濃く残る。若狭の名称自体が韓国語のワッサ、カッサ=行き来する、から来たという説もあるぐらい半島とも関係が深い。人々と文化が日本海をとうして平和の内に交流しあい、つながっていた。
しかし秀吉の時代には朝鮮支配を目指して半島出兵を行った。江戸時代は平和な友好の時代がつづいたが、明治にはいると戦争の時代に入り、日本政府は、日清戦争や日ロ戦争を引き起こした。その戦争の舞台に日本海と朝鮮半島がなった。これらの戦いに勝利した日本政府は韓国併合を行い、朝鮮の植民地支配をはじめた。その中で日本政府は朝鮮ひとびとの土地や資源や文化、言葉、名前をうばい、抵抗する人々の命を奪った。、戦争中には200万人ともいわれる朝鮮の人々の強制連行まで行った。日本の敗戦により朝鮮は独立を達成したが、朝鮮戦争を経て、冷戦の中で、日本は韓国政府と友好関係を結んだが北朝鮮は対立した。 そして今度は北朝鮮による拉致事件やミサイルの発射実験。それに反応して日本政府はアメリカと共同してミサイル防衛体制構築を進める。そして憲法9条の改憲を問う国民投票法案が国会を通過させた。
戦争の歴史を振りかえり、対立が激しくなる今を思うと気が重くなる。
そこで出会ったのがこの「お母さんあなたの名前は何ですか」の詩。
全ての国の、全ての人々の主張にはそれぞれにとっては正しく、それぞれの理由がある。 しかしそれを相互が譲ることなく主張をぶつけあえば、そこにはやがて戦争が生まれる。
正木さんは日本人の日本海に対する愛着の思いは当然のことだとし、よく理解する。しかしそうならば同時に朝鮮の人々にとっても東海という名前が大切なのも当然であろう、という。
このような時代の中で今の私たちのとって必要なのは意識のシフトだと正木さんは言う。日本国民意識から地球意識へのシフト。「私にも愛国心がある。しかし私は日本人の前に地球人」と。周辺の国にとってもそれは同じ。もし今度相互にミサイルを使った戦争になり、核施設もねらわれるとしたらどの国も滅びる。そして地球のすべてのいのちは回復不能にまで深く傷つく。
このように私たちが地球市民になることは不可能だろうかと正木さんは問いかける。決してそれは不可能ではないと言う。なぜなら日本で戦国時代には、戦国大名達が国ごとに争いあい、その後の、江戸時代には関所で国と国は分けられていた。しかし今国ごとに争いあっているだろうか、関所や国境は消えてなくなり、日本という国になった。 今自分は若狭の国の人間だと人はいないだろう。同じじように今度は日本や韓国・朝鮮、中国、ロシアという国境が無くなる時代が来る。そしてそこに平和が訪れる。 そのために必要なのは私たちの意識を国民意識から地球市民意識へシフトさせること。