絶望せずに生きるために必要な事
最近、新聞に気になるコメントが載っていた。
ある作家が、太平洋戦争による中国残留孤児を題材にした小説を出版したのだが、その作家にインタビューした記事である。
以下、引用
「当事者の方(戦争体験者)は、絶望せずに生きていくために「悪」が必要になるんだと思う。私にはそれがない。この時代を知らない戦争世代の方が、知らない人に向けて書けるのではないでしょうか」。
毎日新聞1月14日木曜日夕刊2面、中脇初枝さんインタビュー記事「中国残留孤児」から引用
死の受容のプロセス
これを見たとき含蓄のある言葉だと思った。小説そのものにも興味はあるので、そのうち書店でパラパラとめくってみようと思っているが、このコメントで連想したのがキューブラーロスの著書「死ぬ瞬間」だ。
亡くなっていく人にインタビューして、死を受容するプロセスを記載した本である。
以下、Wikipedia、エリザベス・キューブラー=ロスより引用
死の受容のプロセス
エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表したもの。以下のように纏められている。
すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている。
否認・隔離 自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。
怒り なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
取引 なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。
抑うつ なにもできなくなる段階である。
受容 最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である
引用終わり
神との取引
絶望的な気分になったとき、人は絶対的な悪を必要とするという仮説は納得できる。
自らの死が対象だと神を相手に取引せざるを得ないのであるが、別の状況だとまわりの人間が対象になる場合が多いのは当然だ。
たとえば、高学歴にもかかわらず能力不足なので閑職に追い込まれたサラリーマンは憎しみの対象が上司や会社へと向かう。
自分も覚えがあるのだが、40歳代半ばになると、突然自分の老後に対する不安感が沸々と湧いて来る。そんな時、職場の同僚や上司に八つ当たりしたくなるものである。
また、うつ病になった場合なども、誰かを絶対悪とすれば心の中の負のエネルギーがそちらに向かうためバランスが取れるようになるのかもしれない。
しかし、いずれの場合でも、心の中に憎悪のはけ口となる対象が大きな存在になってしまうと、自己矛盾をかかえることになるのだ。
挙句の果てには中途半端な心の状態が病気への引き金となり益々状況が悪化する可能性がある。
そう考えると、死の受容のプロセスのように、否定や怒り、漠然とした不安に対して、直接神と取引するような心の姿勢が大事なのではないか。
裸の自分
ネットで見つけた絶望に関する名言を紹介する。作者は漫画家の方のようだ。
(愛のシッタカブッタ、小泉吉宏)
どういうワケか絶望すると「自分」が見える
絶望するともう やりようがなくて
行き場がなくて見栄もなくなって…
それでも ちゃあんと生きている
余分なものが全部なくなって残ったものをふと見ると
それが裸の「自分」
引用終わり
何もかも捨てさる
自分は考える。
ではどうすればいいのだろうか。
自分もよく分からないけど、絶望する原因が何であるにせよ、今自分がこうして生きている事だけが真実である。
生きている事、それは呼吸していることだ、と呼吸法の大家が言っていたが、それ以外に裸の自分、己の真実はないのだという。
だから、もし絶望する原因が先が見えないとか死ぬかもしれない、あるいは何かを失うとか見栄とか得であったなら、何もかも捨て去って、この瞬間の呼吸を大事にすることだ。
となんやら中途半端な結論で終わってしまうが、これしか無いと思う。