夜中雨が強くって目が覚めてしまった。
この年(3年たったら80)で九州の様な災害に会ったら、生きる気力も失せてしまうだろう。
今のところは住むとこがあり、足腰が痛かったりはするが、贅沢はできないけれど食べて暮らしていける。
それだけでも良いとしなくてはならない?!
などと思っているうちに昔のことが思い出だされてきた。
私が小学生3年生まで実の親と日立で暮らしていた頃の事。
あの頃は学校が2部制だったのか台風の時父におんぶされて学校に行た。
家族で花火を見に行ったり、近くの丘に行ったり、神峰公園が今ほど立派な施設ではなかったがお花見(桜)
父が日立製作所に勤めていたので、会社まで迎えに行くと社員が列になって門から出て来た光景が目に浮かぶ。
夏の夜、父がこんな仕事をしているのだと、下請負の会社に見学に連れて行ってくれた。
あの頃は会社でストライキがあって、母が集会所に行っていると父がすいとんを作ってくれて食べた。美味しかった!
(今思うとこれしか料理ができなかったのかも。)
近くに広場があって、そこに銅線みたいのが捨ててあって、それを拾いに行った。
低い崖があり、そこに桜が咲いていて、桜の花びらで首飾りをつくった。
戦争に行った人が帰って来た時(あの頃は社宅で暮らしていた)赤飯を焚いて食べた。
近所の人が、お米を借りにきた。 鍋をもってお豆腐を買いにも行った。
買い物は、買い物かごを持ち、魚などはひげ皮に包み、その上に新聞紙で包んであった。
(そうすれば公害のもとになるスーパーの袋などは要らないのに。)
社宅の前に畑があって、トマトを取ってかじると青臭かったな~。麦を噛むとガムの様だった
そんな父、私がこちらに来て、中学1年生の時、会社の現場でガスが出たのを部下には行かせられないと
自分でガスを止めにはいったとか?それが原因で病になり、亡くなってしまった。
昭和の良き時代の思い出!