初回から某県の某知事が公的に批判したり
色々取りざたされてる今回のドラマでございますが
私は昔個人的に書いていた小説で取り上げた時代でもあり
これは後学のために見ておこうと20数年ぶりくらいに見ております。
独眼竜政宗以来ではないかしら(笑)
これの評判がイマイチなのは、
「映像がキレイではない」
「登場人物がややこしくてよくわからない」
「脚本・人物設定・時代考証の問題」
の3点にわかれると思われ、
映像に関しては確かにちょっと見づらい部分もあるけれど、
立場のある人が公的に「汚い」と罵倒するほどかというと
時代劇なんちゅうのは大体そんなもんだと個人的には申し上げたい。
脚本の問題はこちらで云々言ってどうにかなることではないし、
ドキュメントではなくドラマなのだからある程度の脚色は致し方ない。
というわけで、登場人物の簡単な解説をしたいと思います。
【白河天皇】第72代天皇 在位1073-1087、上皇1087-1096、法皇1096-1129
歴史的には藤原氏による摂関政治から上皇・法皇による院政を始めた最初の天皇として知られている。
父は平安中期の宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となった後三条天皇。
後三条天皇は即位からわずか4年、40歳という若さで崩御したため、基盤を強固にする間もなく次の白河天皇に移行することとなる。このとき、後継を異母弟の実仁親王・輔仁親王に定めていたが、この親王も若くして夭逝してしまったために、白河天皇は当時8歳だった子の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位し、この時点から院政が開始したものとされる。
このときはまだ白河院政もそれほど強固ではなかった。当時の関白藤原師実とは協調を図っていたとされるし、子の堀河天皇が成人すると一時親政を成功させたりもした。しかし、堀河天皇が29歳の若さで崩御し、藤原家も内部混乱したために、全面的に権力を掌握するようになったとされている。
また、ドラマでも好色ぶりをかなり強調されているが、若き日の天皇はそうでもなかった。中宮賢子を非常に鍾愛したとされていて、彼女以外の妻妾は少なかった。しかしこの中宮が28歳で崩御すると、それ以後から妻妾の数は増え(中宮の同母妹とも関係を持っている)、さらに男色の噂まで取りざたされるようになったようである。
こういう経緯を経て、強欲かつ好色な「もののけ」法皇像になったものと思われる。
ちなみに、堀河天皇中宮は白河天皇の同母妹で叔母の篤子内親王であるが、鳥羽天皇の生母とは異なる。
【藤原璋子】待賢門院 1101-1145
大納言藤原公実を父に、堀河・鳥羽両帝の乳母をつとめた典侍藤原光子を母にもつ。
幼少時に祇園女御の猶子となったが、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で愛育された。14歳頃に、院と関係を持ったとされる。
法皇は最初、関白藤原忠実の子忠通に璋子を娶らせようとしたようだが、忠通の母は中宮賢子の同母妹でかつては法皇との子も儲けたこともあり、また璋子との関係も知っていたようで、この縁談を固辞したため、孫の鳥羽天皇に入内させた。
しかし入内後も法皇との関係は続き、入内後1年半で第一皇子の崇徳天皇を生むが、明らかに法皇の子であるとされている。鳥羽天皇もそのことをよく承知しており崇徳天皇のことを「叔父子」(実は叔父であるが形式上は子であるため)と呼んで遠ざけるのである。以後四男二女を儲けるも、誰が法皇か鳥羽上皇の子かも判別しがたい状態であったという。
崇徳天皇が得子の生んだ近衛天皇に譲位した翌年、璋子は落飾。彼女の立場は斜陽にあったけれども、存命中のうちは鳥羽上皇の関係は険悪なものではなく、崇徳上皇との確執・対立も顕在するには至っていなかった。
1145年、鳥羽法皇臨御のもとに崩じたという事実からもそのことが伺えるであろう
色々取りざたされてる今回のドラマでございますが
私は昔個人的に書いていた小説で取り上げた時代でもあり
これは後学のために見ておこうと20数年ぶりくらいに見ております。
独眼竜政宗以来ではないかしら(笑)
これの評判がイマイチなのは、
「映像がキレイではない」
「登場人物がややこしくてよくわからない」
「脚本・人物設定・時代考証の問題」
の3点にわかれると思われ、
映像に関しては確かにちょっと見づらい部分もあるけれど、
立場のある人が公的に「汚い」と罵倒するほどかというと
時代劇なんちゅうのは大体そんなもんだと個人的には申し上げたい。
脚本の問題はこちらで云々言ってどうにかなることではないし、
ドキュメントではなくドラマなのだからある程度の脚色は致し方ない。
というわけで、登場人物の簡単な解説をしたいと思います。
【白河天皇】第72代天皇 在位1073-1087、上皇1087-1096、法皇1096-1129
歴史的には藤原氏による摂関政治から上皇・法皇による院政を始めた最初の天皇として知られている。
父は平安中期の宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となった後三条天皇。
後三条天皇は即位からわずか4年、40歳という若さで崩御したため、基盤を強固にする間もなく次の白河天皇に移行することとなる。このとき、後継を異母弟の実仁親王・輔仁親王に定めていたが、この親王も若くして夭逝してしまったために、白河天皇は当時8歳だった子の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位し、この時点から院政が開始したものとされる。
このときはまだ白河院政もそれほど強固ではなかった。当時の関白藤原師実とは協調を図っていたとされるし、子の堀河天皇が成人すると一時親政を成功させたりもした。しかし、堀河天皇が29歳の若さで崩御し、藤原家も内部混乱したために、全面的に権力を掌握するようになったとされている。
また、ドラマでも好色ぶりをかなり強調されているが、若き日の天皇はそうでもなかった。中宮賢子を非常に鍾愛したとされていて、彼女以外の妻妾は少なかった。しかしこの中宮が28歳で崩御すると、それ以後から妻妾の数は増え(中宮の同母妹とも関係を持っている)、さらに男色の噂まで取りざたされるようになったようである。
こういう経緯を経て、強欲かつ好色な「もののけ」法皇像になったものと思われる。
ちなみに、堀河天皇中宮は白河天皇の同母妹で叔母の篤子内親王であるが、鳥羽天皇の生母とは異なる。
【藤原璋子】待賢門院 1101-1145
大納言藤原公実を父に、堀河・鳥羽両帝の乳母をつとめた典侍藤原光子を母にもつ。
幼少時に祇園女御の猶子となったが、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で愛育された。14歳頃に、院と関係を持ったとされる。
法皇は最初、関白藤原忠実の子忠通に璋子を娶らせようとしたようだが、忠通の母は中宮賢子の同母妹でかつては法皇との子も儲けたこともあり、また璋子との関係も知っていたようで、この縁談を固辞したため、孫の鳥羽天皇に入内させた。
しかし入内後も法皇との関係は続き、入内後1年半で第一皇子の崇徳天皇を生むが、明らかに法皇の子であるとされている。鳥羽天皇もそのことをよく承知しており崇徳天皇のことを「叔父子」(実は叔父であるが形式上は子であるため)と呼んで遠ざけるのである。以後四男二女を儲けるも、誰が法皇か鳥羽上皇の子かも判別しがたい状態であったという。
崇徳天皇が得子の生んだ近衛天皇に譲位した翌年、璋子は落飾。彼女の立場は斜陽にあったけれども、存命中のうちは鳥羽上皇の関係は険悪なものではなく、崇徳上皇との確執・対立も顕在するには至っていなかった。
1145年、鳥羽法皇臨御のもとに崩じたという事実からもそのことが伺えるであろう