武田信玄が禅に帰依し、その師「快川和尚」の恵林寺は武田家の菩提寺とも言われますが、
信玄亡きあと、天正10年(1582年)4月3日織田と武田の戦によって
武田の残党がこの恵林寺に逃げ込んだとして、信長の息子織田信忠によって取り囲まれ
快川和尚は寺を頼って来たものは全て仏弟子として渡すわけにはまいらぬと断り、
火をかけれれ、快川紹喜以下、僧100名近くが業火の中、経を唱え、辞世の言葉を残して
生きながら刮然として焼死するのですが、その時快川和尚が唱えた
「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉が残っていますが、
詩吟の教室では猛暑の夏に、己を励ます意味に於いても、以下のこの詩を吟じます
<span style="font-weight:bold">夏日悟空上人の院に題すするの詩 杜荀鶴(とじゅんかく)
三伏門を閉じて披一衲を披く
兼ねて松竹の蔭房廊を蔭う無し
安禅は必ずしも山水を須いず
心頭を滅得すれば 火も亦涼し</span>
快川和尚の兄の子の朴蔵主はまだ子供なので、
快川和尚は「お前はここから脱して、私達の最後を後世に伝えなさい。」と命じます
その若い僧は後に末宗和尚となり、徳川家康からの寄進を受けて恵林寺を再建しています。
こうして恵林寺の「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」の名言が
今にも伝えられているのかもしれません。
板垣退助が暗殺された時に「板垣死すとも自由は死なず・・・」といったのは
おそらく後世の創作されたものでしょうが、
心頭を滅却の話は焼死を免れた子供の僧たち、或いは取り囲んだ織田方の武将から
伝わっていったものでしょう。
猛暑の昨今、家の中でも暑いですが、この詩を思い出したいもので、
先日大書の23日の清風会一吟会では、小生はこの詩を吟じた。
3年余り前に他界した吟友が晩年にこの詩を愛吟していたものだった。
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