そこへ法事の帰りに お供と 通りかかったのが、
法福寺の第15代 『竹岡大乗』住職でした。
住職は、お供に
『あの亡骸は誰じゃ?』
とたずねました。
お供は、
『あの唐人お吉です。関わらない事が いいですよ。』
と言いました。
誰も手をつけようとしなかったお吉の亡骸を見て、住職は約3キロある道を急ぎ足で帰り、
下田奉行所 へ 死の真相 事件性は なかったのか? と問いたずね、自殺という事が判明すると、
斎藤家の菩提寺でもあった下田のあるお寺に連絡すると、
『住職も関わっちゃなんねぇよ』
と埋葬を拒否されました。
当時 斎藤家とは絶縁され
下田の17人のコジキとして数えられていた お吉には、当然ながら 身よりはありません。
それを哀れに思った住職は、
『仏に抱かれれば、みな兄弟』という仏心を貫き、
知人に一緒に川岸からあげてくれと頼むも 誰も手を貸そうとはしなかったの
それで住職は、二人の侍女(認知症)と一緒に荷車に乗せ、法福寺までつれてきました。
腐敗こそありませんでしたが、ひどく濡れていたお吉をふきあげ 住職の母 梅さんの一番良い着物を身に纏わせて、 葬儀をあげ、
慈愛の心で法名『釈貞観尼』を与え、『宝福寺』が菩提寺となり、境内の一角に葬りました。
その行為に怒ったのが、檀家の人たちてます。
『我々と唐人お吉が、一緒だというのか?』
や
『住職、唐人お吉なんかを、埋葬すれば寺が潰れてしまうぞ。』
などと言われるも
住職は、
『お吉を、供養したら、潰れる寺なら 潰れてしまえば いい。』
と言いました。
当時 400を越える檀家を有していましたが、
これをきっかけに200まで減ってしまったようです。
しかも、
住職は、人心をかきみだした罪人として 20数年間 投獄され、解放された時は かなり弱り果てていたそうです。
どうして、そこまでして、浮浪者のような一人の女性を思い、お吉と檀家を天秤にかけれたのか。
ここにひとつの話があります。
下田の17人のコジキとして、呼ばれていた お吉は、
毎日 夕方になると法福寺を訪れていました。
そして いつも決まった場所に、立ち
法福寺に背を向けて 立っていたというのです。
そこはお勝手口、
住職の、お母さん(梅さん)が、ご飯を炊きあげていると 決まって見えるところに 立っていたというのです。
最初は、早く帰ってほしいから オニギリを一つ渡していましたが、
毎回 決まって なかなか振り向き オニギリを、もらおうとはしません。
梅さんが、回りの人に見られると事だから
『どうかもらって下さい。』
というと、
『そんなに私に もらってもらいたいのかい?』
といい、オニギリをもらって行ったとの事、
最初は、梅さんも 嫌々 渡していましたが、いつしか 情がうつり その顔には 慈愛の心が、宿っていたようです。
母とお吉の そんなやり取りを知っていた住職は、
お吉を、手厚く葬ろうと決めたのであります。
その慈愛に満ちた 思いは 、今も受け継がれ 、
お吉が身を投げたとされる3月27日には、
毎年
お吉を供養するために、お吉ヶ淵 と 宝福寺では法要 (お吉まつり)が行われています。
この幕末動乱期、外国人の侍妾となったり、娼婦として幕府から集められた 女性は、ほかにもいましたが、
お吉の存在は、1928年小説『唐人お吉』が発表されて以後、広く知られる事となりました。
幕末・開国史にかけた、この数奇な運命を辿った お吉の一生は、
小説 戯曲 映画 多くの作品となり、一大ブームを生み、人々の心に お吉が浸透していきました。
また宝福寺は、お吉記念館を併設しており、特大の坂本龍馬 像も立てられ 観光名所としても 人気のようだ。
唐人お吉の唄
唐人お吉小唄
生まれ4歳の頃まで、育った南知多町内海には、
※お吉像(白砂の湯 敷地内)
※お吉出生の地
があり、
愛知県知多郡南知多町内海、
そして静岡県下田市には、
今でも お吉を偲び 訪れる方が、後を 絶たない ようで あります。
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