1865年(文久3年)1月15日、
土佐藩主 山内容堂は、上洛の最中 季節外れの時化により、法福寺に投宿していました。
時を同じくして、兵庫より脱藩浪士の坂本龍馬らを伴い、勝海舟は、東帰の途にありましたが、時化により、下田港に非難し、角谷に投宿していました。
幕府軍艦奉行並の、勝海舟の、入港は、容堂にも届き、
『是非とも酒席に招きたい』と使者を遣わし、
海舟は、龍馬以外の わずかなお供をつれ 法福寺に参上しました。
海舟は、龍馬の脱藩の罪をとき自分に身柄を預けてほしいと懇願します。
容堂は、海舟がお酒を飲めない事を承知で
『ならば、この酒を飲み干してみよ。』と切り返すと、
ためらうことなく 朱色の大杯のお酒を飲み干しました。
赦免の証がほしいと海舟は、言うと、
容堂は、自らの白扇にひょうたんを書き、その中に『歳酔三百六十回鯨海酔候』と記し海舟に手渡しました。
まもなく脱藩の罪を解かれた龍馬は、維新回天の活躍が、始まります。
ちょうどその頃 お吉は、下田では、仕事が成り行かなくなり、
京都の祇園で芸妓となり、自らを『唐人お吉』と気丈にも 名乗っていたそうです。
ハリスから様々なことを 聞いたお吉は、開国論を説くようになり、
祇園に珍しい芸妓が いると評判になりました。
目新しいもの好きの 『坂本龍馬』 が、それを聞かず 見ず には、いられません。
記述こそ残っては居ませんが、
二人は幾晩も 開国論に、華を咲かせたそうです。
お吉は、坂本龍馬 が 時代の表舞台に出立するのを 後押しした 一人とされています。
そしてお吉は、『勝海舟』とも交流のあった『松浦式四郎』の配下となり、開国運動に奔走します。
その当時 お吉の姉は、内海生まれの嘉左エ門と結婚し、子供もいて 下田で暮らしていましたが、周囲からの冷たい目を受けていました。
維新後 流浪の果て 下田に戻るもすることがなかったお吉は、
28歳(1868年(明治1年))の時、
姉もとの子(甥)の勘太郎(11歳)を連れ、生まれ故郷でもある 愛知県南知多町内海に滞在をしています。
この内海帰郷は、勘太郎の父 嘉左エ門の生家に勘太郎を送り届ける事が目的であったようであります。
※明治2年の祭礼名簿に、12歳の勘太郎が、『嘉左エ門勘太郎』として名を連ねています。
その後一時期、横浜で鶴松と同棲をし髪結業をしていましたが、ほどなく廃業、
31歳(1871年(明治4年))には、
下田に戻り、唐人結いの出来る 髪結業を営むも、周囲の偏見もあり、
店の経営も思わしくなく、ますます酒に溺れるようになっていきました。
そのため鶴松から同棲を解消され、独り身となりました。
その後
静岡県三島で芸妓となりますが、
36歳(1876年(明治9年))には、
内海を再び訪れています。
その理由には、諸説ありますが、
寂しさをまぎらわすためとも、
御先祖のお墓参りにきたとも、
勘太郎を連れ戻しにきたのだととも されています。
姉もとに 勘太郎を送り届けたのかは 記述はありませんが、
その後 下田に戻り 再び 芸妓となります。
42歳(1882年(明治15年))の時、
お吉を哀れんだ船主の後援で、小料理屋『安直楼』(あんちょくろう)を開くが、
既にアルコール依存症となっていたお吉は、年中酒の匂いを漂わせ、
度々酔って暴れるなどしたため、二年で廃業となった。
その後も、唐人という相も変わらぬ 世間の罵声と嘲笑をあびながら
貧困の中 物乞いを続けた後、不遇の晩年を送り、身を持ち崩し……
1891年(明治24年)3月27日、51歳 の 時に、
稲生沢川 門栗ヶ淵(現在のお吉ヶ淵)の川で 身を投げ自らの命を絶ってしまいます。
その晩は、寒く 豪雨が降っていましたが、
綺麗な声で 新内の歌を歌っている女性が目撃され、
当然 声が途切れてしまったという地元民の証言もあり、
自殺する前に 当時を思いだし 歌を口ずさんだのではないか
と云われています。
当時の下田周辺の方は、死後もお吉に冷たく、
お吉の亡骸は、『触れば手が腐り、見れば目が腐る 唐人のお吉の亡骸』と
誰も近づくものはおらず、三日間放置されました。
寒さから 腐敗は進まず 綺麗なままであったそうです。
(続)
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