本屋で同じ本に手を伸ばして手と手が触れ合った男女は恋愛に発展しないわけがないように、何においても「出会い方」は今後その人の印象を大きく左右する大事なものだと思う。
ロマンスではないが、今回は出会い方が上手くいかなかった事を書いてみたい。
大阪市内のモールでやっていた「バンクシー展」に行ってきた。
バンクシーとは匿名で活動する有名な絵描きで、大量消費や格差社会など、社会問題を皮肉った内容の絵を町の壁などに描きつけている人物らしい。
一種のカリスマのような扱いなのだろうか。展覧会の看板に「彼は天才か、反逆者か」なる煽り文句がついており、来場者は若者が多かったように思う。
バンクシーについてほとんど知らず、名前を聞いた事がある程度だった私は、展示されていたほとんどの作品を初めて見たのだが、多くの作品にユーモアと皮肉があり、好感触を持ったものも複数ある。
暴徒が火炎瓶の代わりに花束を投げている絵(有名なようだ)などは、特に小気味良かった。
一方で多くの作品が、「悪者」のアイコンを設定してこき下ろす内容だったのは、個人的に好ましく映らなかった。
例えば弱者を押さえつける権力の象徴として警察官や兵隊、
富を貪る資本主義の象徴としてディズニーやマクドナルドがやり玉に挙がっていたりする。
これらのアイコンが露悪的でまぬけに描かれている、いかにもな風刺画といった作品群に関して私はどうにも、作者が気に入らない対象を頭ごなしに否定しているような印象を抱く。
総合して、私はバンクシーを好きになれなかった。
改めてバンクシーの絵を気に入らなかった原因を考えてみた時、バンクシーは風刺をやるには権威を持ちすぎていたからだと思った。
そもそも私は風刺という文化を問題提起のツールとして見た場合、程度の低いものだと考える。
自分が取り組むには荷が勝つ問題を、まるで無責任な立場から好き勝手に、問題の末端部分だけを茶化すというのは、いうなれば負け犬の遠吠え的な弱者の発想であると思うのだ。
表現の方法はともかく、行動の内容は匿名掲示板に書かれた程度の低い、短絡的な政治批判なんかと同じようなものではないか。
であるので、本来風刺というものは高く評価されるものではない。
権威のない場で発表され、流し見してクスリと笑えれば上々のものである。
もし私がバンクシーを見たのが路地裏の壁だったり、3流雑誌の1ページであったりしたなら、違う印象を抱いていたかもしれない。
だが展覧会でバンクシーは体制に反逆する無頼漢だ、とか、社会を痛烈に斬るカリスマだ、といった持ち上げ方をされていた。実際の彼のスタンスは解らないが、そんな紹介文の横で額縁に入って綺麗に並べられた作品は、私にはひどく傲慢なものに映ったのだ。
例えば、先の例に出した社会の負け犬たちがたむろするネット掲示板の書き込みなどは、
「日本は本当に腐ってるよな、悪いのはひとえに政治家の怠慢だよ。」など無責任に誰かをこき下ろした後、
「まあ俺は働いてないからそれ以上に怠慢なんだけどね。」みたいな結びを入れたりする奴がいる。
そういった無力さの自覚というか、ある種の卑屈さ、漫才でいう「誰が言うてんねん」待ちのスタンスが感じられれば、私はバンクシーを好きになれていたかもしれない。