さすがはwikipediaである。宮沢氏はもう死去していた。記事を作成している方はよほど暇もとい熱意に敬服する次第である。
亡くなられた方を誹謗するのは良くないという日本の伝統に則って、氏の功績を讃えたいのだが、………、ん~、困った、思いつかない。
死者に鞭打つようなことを書くのはあまり気が進まないのだが、強いて言えば、英語が得意だった、ということか。
勿論首相の必須条件ではない。英語が上手という触れ込みだったが馬脚を現してしまった某首相が、だから無能だとは言い切れないこともない。
おそらく田舎都市の助役あたりで終わればいい人だったのかも知れない。
彼はいわゆる東大出身の官僚上がりである。池田、大平の子分である。
私が直接悪口を書くのは忍びないのでwikipediaを引用する。
学歴に異常なこだわりを持つ上に、母校東大へのこだわりが強く、後輩議員や新聞記者たちに学歴を事細かに聞き、東大卒でないと露骨に馬鹿にするので非常に嫌われていた。早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会をそれで敵にまわした。宮澤が竹下登と初めて会ったときに「(東大法学部の)何期生ですか?」と尋ね、竹下は「早稲田です」と返した。そして宮澤は「じゃあ、政経(政治経済学部)ですよね?」と言い、竹下が「いえ、商学部です」と返したところ、宮澤は竹下のことを鼻で笑ったという。また、温厚な竹下が、宮澤から「貴方の頃の早大商学部は無試験だったそうですね」といわれたことを「許せない」と言っていたというエピソードを、佐々淳行が伝えている(『後藤田正晴と十二人の総理たち』)。所属する宏池会の親分であった大平正芳(東京商科大学(現在の一橋大学)出身)さえ宮沢に好意をもてずにいた事は広く知られている。
とはいえリベラルの護憲派として国のために尽力された方である。ご冥福をお祈りします。
(参照)
宮澤喜一
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