バレンタインデーは日本人の伝統行事ではない。祭りでもない。キリスト教徒にとってクリスマスは大切な行事だが、イブにホテルで性交して、ケーキやブロイラーを食って酔っぱらうのは宗教行事ではない。
外国人特にキリスト教徒から見れば、奇怪極まりない日本人の風習である。
どうして、日本ではこんな事になってしまうのか?
原因は色々考えられる。日本人の宗教観は多神教である。多神教はある意味では無神論に近い。絶対的なよりどころを持たないからだ。要するに「何でもあり」なのである。宗教には教理が重要だが、多神教の場合、どうも理屈はなじまない。理屈で考えればナンセンス極まりないことを日本人は日常繰り返しているのである。
結婚式はウエディングドレスをまとい、神式。ケーキを切って三三九度である。仏滅の日に式を挙げる人は少ない。死ぬときは大半の日本人はお寺のお世話になり、初七日を告別式と兼用でやってしまう。
院号を戒名に書くために散財する。
このようなばかげた風習から逃れるためには正式に宗教に入らなければならない。
創価学会などは冠婚葬祭には面倒見がいいだろう。おおかた新興宗教系はぼった食っている分、このあたりのアフターケアが充実している。一度はまると脱会しにくいのも、こうした事情によるのだろう。
バレンタインの馬鹿騒ぎも日本人の習性と密接な関係がある。チョコレート会社が始めた愚行であるが、蔓延してしまうおぞましい下地が日本の風土にあったのである。
こういう記事を書くと、必ず「おまえはもてないからやっかんでいるんだろう?」などと以前は冷やかされたものだが、最近はこのような書き込みが激減した。日本人の大半がバレンタインデーに食傷気味になった証拠である。
「おぞましい下地」とは日本の同質社会性である。生まれてから死ぬまで「右にならえ」を強要される社会。異端者はよってたかってぼこぼこにされる。まさに「出る杭は打たれる」である。
絶えず周囲を気にして同質の行為を強要される社会ではストレスがたまりやすい。
クリスマスが日本で流行した背景にはストレス発散の目的があったと思われる。本来の行事と無関係であるはずの「性交」と結びやすいのもこれで説明できる。かつては盆踊りがクリスマスと同じ機能を果たしていたが、形骸化したために、これではストレスが発散できなくなったのである。
バレンタイデーも「性交」と関連が深い行事である。チョコレートには発情効果がある。日本で広まる条件を満たしていたのである。ストレスのたまった女性をうまく焚きつけて、多数派工作に成功してしまうと、日本人特有の右へならえで、くだらないと思ってももはや抵抗できなくなる。
しかし、義理チョコが蔓延し、不景気で「お返し」も激減したことから、さしものバレンタインデーにも陰りが見えた。
ところで、日本を同質社会と評してきたが、巷をうろついている連中の服装には個体差が大きい。「どこが同質なんだ? みんな好き勝手な格好しているじゃないか?」と勘違いする人もいるだろう。しかし、よく見ると、やはり同質であることがわかる。
同質社会は対流がないので淀むのである。つまり沈殿物の階層社会になる。同質化は階層ごとに発生するのである。
サラリーマンの服装、茶髪チンピラの服装、馬鹿女子高生の半ケツ服装、とよく見れば個性のないこと甚だしい。沈殿がひどいと階層も細かくなる。仁義を違えると制裁を受けるのである。街中でチンピラもどきがチンピラの格好をしていると、チンピラからぼこぼこにされるのはその好例である。平サラリーマンが部長の格好をしても同じ。
微妙な差異をめざとく見つけて差別化するのも日本人の特性である。本当にイヤラシイ習性である。
この記事を読んで「そんなに日本がいやなら、日本から出て行け」と騒ぐバカウヨがいるのも哀しい特性の一つである。
(記事)
【OL生活】バレンタイン 9割「なければいいのに…」
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