つくばミチル自分史ブログ

ブログを始めました。最初は、自分史から書いていきたいと思います。

自分史その26

2011-07-25 09:18:44 | 日記
10.カントー時代(32歳から37歳まで)
 実際にカントーに勤務するまで1ヶ月ほどの休みがあった。私は、午前中に家事をして、午後からは麻雀やパチンコをして過ごした。1ヶ月が経過して、出社した先は、新宿の住友ビル20Fのカントー計算機オフコン機器事業本部の統括管理部という所だった。オフコンの販売部隊の管理業務部である。そこにオフコン教育課というのがあった。上司は、遠藤課長で教育課のメンバーは佐々川さん、郡司君がいた。私を含めて4人の課である。郡司君は、容姿端麗の性格の穏やかな青年だった。MC時代から担当としてしばしば会っていたので、気心が知れていた。メーカーの社員は高学歴が多く、良く言えば、上品でインテリジェンス、悪く言えば、世間知らずのお坊ちゃんという印象だった。ある意味、百戦錬磨で鍛えられた私にしてみれば、彼らをコントロールすることは容易なことだった。5年間のMC時代に私は、一定レベル以上の経営ノウハウ・マネジメントノウハウを身に付けていたと思う。
 私には、心に秘めたある目的があった。お気に入りのMCを辞めたのは、最初に述べたように結婚を機に里心が付き、毎日、家に帰れる普通の社会人の生活をしたかったのが大きな理由だが、仕事の面では、自分のMCで培ったノウハウを1つの会社でじっくりと実践してみたいという気持ちがあった。コンサルタント業務をやっていると、相手のクライアント企業は、建前としてはこちらの指導に対して納得したような姿勢を示すが、本音の所では、そうは言っても、うちにはうちの個別事情がある、と反発や抵抗を持っている場合が多かった。理論と実践、基本と応用、という2つの概念の乖離は、指導する側はいつもぶつかる壁なのだ。勿論、当事者でないからこそ冷静に状況が判断でき、課題が明確につかめる場合も多いだろう。当事者の場合、立場による利害が判断の目を曇らせる可能性は大きいものだ。だからこそ私はあえて当事者になって、これまで身に付けた経営ノウハウやマネジメントノウハウを実践してみたかった。それが、カントーに転職したもう一つの大きな理由だったのだ。
 初出社の朝礼で、皆の前で元気良く挨拶した。社員の人たちは皆、適度な距離を持って気持ちよく接してくれた。私は張り切っていた。佐々川さんや郡司君が色々と社風に馴染むように気を使ってくれた。カントーの社員たちは以前からMCを知っていたし、私に対しては一目置いていた。私は、MCのノウハウを駆使して色々とカントー内で改革を行っていこうと決意した。もし、大学を卒業してすぐにメーカーに勤務したなら、組織の改革など思いもつかなかったろう。経営コンサルタントの会社に勤務していたために私には組織内での自分の役割を改革者として自然に自覚していた。経営トップの意向を受けて、組織の活性化を図るのだ。そんなことを生え抜きのサラリーマンが思いつくはずが無い。私には、出世も保身もあまり関心が無く、ただ、MCで学んだ企業組織の改革のみが自分のビジネスマンとしての使命であり、価値観である、と信じていた。
 そのことは、ある意味正しかったが、反面、MCそのものに内在する経営的な脆さを抱えていた。すなわち、MCはその企業のドメインとして集団性格の革新を掲げていた。企業本来の使命は業績向上による限りない存続であろう。そのことはMCもよく口にしていた。しかし、手段はしばしば目的化する。やがてMCが後年、衰退化を辿るようになったのは、企業本来の使命を蔑ろにして、業績を上げるための経営的な方針を時代の変化とともに適応することが出来なくなったからなのだ。MCの社員は内在的に業績よりも組織改革や人間的成長を主眼に行動するようになる。私もそうだった。私にしてみれば、メーカーであるカントーなどは、組織的完成度や社員の成長などは許しがたいレベルであった。
 私はひたすらカントーの組織改革をありとあらゆる手段で推進していった。その意味では、私の関心は常に組織改革であり、社員の成長であった。確かに重要なことだが、そのことが目的化しては本末転倒である。どれほど組織改革がなされ、社員が成長しようとも、業績そのものにつながっていかなければ全ては意味が無いのだ。しかし、私はその時点ではそのことにまだ気が付いていなかった。
 社内的な立場は一中途社員であるにも拘らず、経営コンサルタントの意識と態度をとっていた私にとっては、教育課のメンバーである佐々川や郡司は勿論、上司の遠藤さんや他の中間管理職でさえ相手では無かった。当然、表立って反感を受けるような愚かな真似はしない。あたかも、受講会社に組織改革を請け負ったかのような気持ちで腰を低く、組織改革の使命感を内に秘めながら、ひたすら改革の手を打って行ったのだ。
 当時、カントーオフコン機器事業部は業績不振に喘いでいた。NECやIBM、富士通などがオフコン市場を独占していた。カントーは時計や電卓、楽器などは好調であったが、コンピューターは大手に比して遥かに出遅れていた。
 私が入社した時と同じ時期に、星川取締役という事業部長が赴任してきた。これまで、どの事業部長が担当してもカントーのオフコン事業部は業績が思うように伸びなかった。星川取締役はカントーとして切り札として送り込んだ期待の取締役だったらしい。
 星川取締役は誠実で真摯な取締役だった。オフコン事業部のメンバーの期待も大きいことがその人柄に触れて私も分かった。私にとってもチャンスだった。新しい事業部に着任した責任者は部隊の問題点を洗い出し、販売戦略を新たに打ち出していかなければならない。新しい企画を提案するには良いタイミングだったろう。企業は大きく分けてその戦略は、商品戦略と販売戦略に分かれるだろう。カントーのオフコンという商品戦略は、商品開発や製造部の役割である。星川取締役の管轄するオフコン機器事業本部は販売戦略を担当する部隊であった。販売戦略はMCの得意とする分野であったのだ。
 私は、遠藤課長を説得して、星川取締役に組織改革計画案を教育企画として提出した。その内容は、①社内教育②販売店教育③ユーザー教育の3つに分かれ、社内教育は、階層教育と販売促進教育に分けて提案した。そのプレゼンテーションは成功だった。私の企画内容は、コンサルタントのプロが詳細に精査して1ヶ月以上もかけて作成した内容だったのだ。問題点の洗い出しから、課題の立案、解決策の具体案までページ数にして50枚にも及ぶ企画案は取締役に驚嘆の思いを持って受け入れられた。
 私は、企画案をプレゼンする前は、取締役がこの内容を咀嚼できるかどうか心配な所もあった。それは決して、東証一部上場の取締役を軽く見ているというのではなく、専門的な経営理論のバックボーンが無ければ中々、私が提案した内容は理解しにくいのではないのか、と危惧したのだ。事実、MCで上場企業の役員のコンサルタントをしていても、意外と経験や勘に頼って、提案内容を机上の空論とみなす昔堅気の方々も多かったのだ。
 星川取締役は私の意図する企画案の内容の本質を理解した。教育企画と銘打っても、内容は組織改革と販売戦略論なのである。勿論、プレゼンに一緒に参加した遠藤課長の立場を配慮することも忘れない。企画案は承認され、大幅な予算も認められた。
 企画内容を少し説明しよう。企業が業績向上を図るためになすべき方向は4つに絞られる。1.商品の価値・2.価格戦略・3.販売戦略・4.サービス体制、の4つだ。1と2は、先に述べた商品戦略に含まれる。星川取締役が担当するのは、3と4の販売戦略になるだろう。
 カントーの商品価値は知名度が低く、価格においても他社とそう差別化できているわけではない。特に、当時のオフコン市場は業務ソフト開発力が競争のポイントで、カントーが抱えるソフト開発力では大手オフコンメーカーとまともに競っても優位に立てるレベルではなかった。勢い、4番手5番手企業(オフコン市場においての意味)はすき間市場を狙うようになる。すなわち、業種に特化したソフト作りだ。カントーも営業推進部として、医療・福祉・ビデオレンタルその他、などのすき間市場をターゲットにしていた。
 そして、販売戦略部門としてのオフコン機器事業本部の営業推進部のレベルは、私が今まで担当したコンピュータメーカーのどの会社よりも低レベルにあった。要するに、営業推進部のメンバーは単に、業務ソフトの説明屋であるだけなのだ。マーケット分析も販売手法も代理店政策も何もあったものではない。そしてそういう事態になっているのは理由があった。
 カントーはオフコンを販売するに当たり、最初は既存の販売ルートを活用しようとしたが、電卓や時計、楽器などの販売ルートはせいぜいが街の文具店に毛が生えた程度の販売網しか作れなかった。次いで、多くの事務機器メーカーが行うように、メーカー直販を全国7ヶ所(札幌・仙台・東京・名古屋・大坂・広島・福岡)に設立した。その際に、外資系のオフコン営業マンを採用し各責任者に据えたのである。その外資系オフコンメーカーは一時、日本に進出して業績が低迷し、撤退したメーカーの営業マンであった。それをまとめて大量に採用した。オフコン販売のノウハウや人材がないカントーは手っ取り早く販売網を構築するためにそうしたのだが、そのことが後の禍根となる。 
 全国7ヶ所の販売責任者をオフコン事業本部がコントロール出来ないのだ。彼ら外資系出身社員はカントーの事業本部のメンバーをソフト開発から来た説明屋としてしか見なさず、そしてそれは当たっているのだが、販売戦略の本部として販売政策が打ち出されても、その意向を受け止めようとはしないのである。本部からの方針や戦略はことごとく無視される。あからさまではない場合でも自分たちの都合の良いように解釈するのだ。そのため、組織力は生きない。影響力の出せない販売本部と勝手気ままに動く実働部隊。これでは、激化するオフコン市場で生き残っていくことは到底無理な話であった。まさに、ドラッカーのマネジメント教本に出てくる機能不全の組織の見本のようであった。
 私の企画のポイントとして挙げたことは、①オフコン事業部の各営業推進課の販売ノウハウの確立・②販売店営業マンの営業研修の充実・③販売店責任者(経営幹部も含む)のマネージャー教育、の3点であった。社内階層教育やユーザー教育は後回しとした。早く成果を出さないと企画そのものがつぶされる危険がある。
 私は文字通り、身を粉にして本部の営業推進課の次長・課長クラスに働きかけ、販売マニュアルの見直しやセールストークの作成、販売事例研究など、販売会社なら当たり前の作業に取り組んだ。各営業推進部としては、協力してくれる分には有難いというスタンスだった。私の教育課と言う立場もそういった協力体制が取りやすい部署だったのだ。営業推進部の実態は、業務ソフトのバグの応対に追われていたという状況だった。メンバーがソフト開発部からの出身ということもあり、彼らが最も取り組みやすい作業に逃げ込んでいるという事情もある。彼らは、販売マニュアルの必要性を訴えても、一様に、忙しすぎてそこまで手が回らない、というのが口癖だった。それは口実に過ぎない。忙しくない部署はない。重要なことは、優先順位なのだ。課題が100あったなら、98番目に取り組むのではなく、1番目に取り組むのだ。そのことが多くのビジネスマンは分かっていない。如何に経営資源を投入するかが重要なのだ。
人気ブログランキングへ

自分史その25

2011-07-23 12:11:53 | 日記
9.MC時代(27歳から32歳まで)その4
 ある時は、とうとう離婚用紙を市役所に取りに行った。自分の名前を書き、捺印して机に置いて出張に出かけた。夜、出張から帰り、真知子が居ないアパートで焦燥感に駆られて、真知子のパジャマを鋏でずたずたに切り裂いたこともある。ある時はオーストラリアにいる黒井に電話した。時差の関係で夜、電話したがさぞ迷惑だったろう。彼が日本に戻ってきたときは、一緒に離婚後のアパートを所沢で探してくれた。そのころに、つくばの松代という所に土地を購入したばかりだったので、それも止めようと不動産業者に話をしに行ったこともある。司会をしてくれた大山さんにも相談したことがあった。
 大山さんは心配して、2人を呼んで色々、忠告してくれた。今、考えると本当に幼い自分だったのだ。つまらない私事で大騒ぎをして回りの方々に迷惑を掛けた。真知子と冬休みに京都に旅行をした。穏やかでそれなりに楽しい旅行だった。表面的には2人は仲良く旅行した。しかし、私は心の中で今回の旅行は離婚記念旅行だと決めていた。せめて、最後のお別れに楽しく旅行をしたいと考えていたから2人は楽しく旅行が出来た。あまり、楽しく旅行出来たために、喜んでいる真知子には別れ話を中々切り出せずにいた。
 そうこうしているうちに、冬が過ぎ、春になり真知子が宇都宮から取手に転勤してきた。茨城の教員採用試験を受けて採用されたのだ。さぞや真知子も気が乗らなかったろう。しかし、転勤しなければ、2人の関係は決定的に駄目になる。覚悟を持って取手に来たのだと思う。あれこれ大騒ぎしたが、結局、2人は離婚しないで済んだ。真知子が辛抱してくれたのだと感謝している。
 結婚生活も落ち着いてきた頃に、購入したつくばの土地に家を建てることにした。色々、住宅展示場を見て回り、積水ハウスに決めた。山崎さんと言う温和な印象の営業マンだった。以前購入した土地はつくば市の松代という場所にある閑静な住宅地だった。南向きにそう交通の多くない道路があり、環境は良かった。坪単価40万円前後だったろうか。50坪の土地だ。積水ハウスはドーマーのある家というシリーズを建てた。今風の西洋建築だった。1400万円ぐらいだった。新築の家が完成して、取手からつくばに引っ越しをした。
 手伝いとしてMCの仲間や真知子の両親などが来てくれた。ともあれ、結婚当初はすったもんだしたが、真知子もつくばに転勤してきて、2人の結婚生活は落ち着いてきた。真知子の転勤先はつくばの家のすぐ近くにある小学校だった。引越し当時は、よく学校の子供たちが先生の家だということで学校のフェンス越しに写生をしていた。
 私は、相変わらず出張が多く、あまり新居にも居ることが少なかった。白く洒落た西洋風の家、車はスポーツカーのRX7。羨むような生活だがなにぶん家に居ることが無かったので、真知子もさぞ心細かったろう。折角、困難を乗り越えて結婚生活を維持していこうとしても2人が一緒に居る時間が少ないために、お互いの心理のズレをまた大きくしてしまうかもしれない。私は、所謂、里心が付いて、孤独に出張し続けるということに嫌気が差してきていたのだ。研修そのものも5年もやるとマンネリになり、丁度、ひとつの壁にぶつかった様になる。
 京都の立石電気の研修の時は、何人かの同僚と担当した。夜、京都御所(立石電気の近くにあった)の庭で、田中という指導員が「ああ、もう嫌だ!嫌だ!!」と突然、怒鳴りだした。私も同感である。孤独で辛い仕事。砂をかむような同じことの繰り返し。一度、嫌になってくると気持ちは増幅する。私は、毎日を味気ない思いで訓練の担当をし続けた。そのころ、ベテランになっていた私には、何社かの贔屓にしてくれる会社があった。顧客がわが社に合った講師だ、ということで指名をするのである。そういった指名が多いほど売れっ子の証であった。
 私を指名してくれた会社のひとつに、カントー計算機という企業があった。有名な大手電機企業である。電卓から始まり、時計・音楽機器・コンピュータ等々革新的な新商品をヒットし続ける急成長企業であった。新橋時計店時代に営業で回っていた時、カントー計算機のデジタル時計がよく店先に送りつけられていた。地方の時計店は安価な時計の進出に不安を感じ、「こんなものは時計でもなんでもない。おもちゃだ。」と非難していたが、当時新発売されたデジタル時計は若者を中心にあっという間に売れていった。所謂、問屋の営業であった私は、例えば、新橋時計店の卸元である服部時計店に憧れと気後れを感じていた。
 メーカーと問屋ではそこで働く社員の格もセンスも大きな違いを感じていたのである。実際にメーカーの社員は高学歴で知的な雰囲気を身に付けていた。彼らはめったに末端の時計店に来るようなことは無く、問屋の担当でも、私と年の違わない20代前半の社員が問屋の経営幹部達と対等に接していた。メーカーの社員になることに、秘かに憧れていたのだ。
 カントー計算機での担当研修は評判がよく、私は度々、指名された。実際の自分の実力がどうかは分からないが、カントー側の教育担当のメンバーと年も近く気が合ったのである。佐々川という名前の担当だった。研修はカントーの研修センターがある関西の芦屋で行うことが多かった。ある時、担当の佐々川さんと研修が終わり一緒に新幹線に乗って東京に帰った。話が弾み、3時間の間、私達2人は楽しく話をした。佐々川さんは私を気に入りカントーの専属で指名してくれるようになった。
 MCを辞めるにあたり、新橋時計店時代のイメージもあり、私はメーカーの社員として販売促進のような仕事をしたいと考えていた。何社か担当の会社を思い浮かべたが、やはりカントー計算機が一番自分に合っているような気がした。研修で常磐線のはずれにある高萩に行った時、夜、佐々川さんの自宅に電話をした。カントー計算機に入社したい旨を伝えたのである。佐々川さんは快く引き受けてくれた。ただ、少し釘を刺す感じで「山田さんは、僕や郡司(教育課の一員)を見てカントーのイメージを作っているかもしれませんがそれは違いますよ。入ってこられてギャップがあると困るでしょうから最初に言っておきます」とアドバイスしてくれた。それから彼は早速、人事部や上司に働きかけてくれて、面接ということになった。
 当時、カントーは新宿西口の住友ビルという高層ビルに本社があった。たしか48F49Fに会社があったと思う。面接をしたのは、佐々川さんの上司の遠藤さんという課長だった。遠藤課長はカントーコンピュータ学院の校長も兼務していた。カントーコンピュータ学院はカントーの経営するコンピュータ専門学校である。ちなみに、佐々川さんや遠藤課長の所属はオフコン機器営業部というセクションだった。営業部の中にある統括本部付けの教育課であった。
 私は、カントーを研修担当するまでカントーがコンピュータを作っているとは知らなかった。当時は、コンピュータの会社といえばIBMや富士通・NECなどが有名だった。実際、カントー計算機のコンピュータ部門は業績があまり良くない様で、カンヨーの中でも継子扱いされていた。
 遠藤さんと会った後、オフコン機器管理事業部長の堤取締役と面談した。やり手で若くして取締役になった人として有名らしかった。私は少し緊張して、住友ビルの20Fの取締室で面接を受けた。堤さんは、理論家らしい落ち着いた雰囲気の人で何点か質問をした。私は、MCでベテランになっており、大手企業の役員に会っても気後れすることは無かった。面接は合格して、内定をもらうことが出来た。人事部で色々と給与や役職の説明があった。給与額は、600万ぐらいだったろうか。MCではあるときは1000万円を超えることがあったが、メーカーで中途入社ということを考えると妥当な線だろう。私はこの時、32歳になっており、この年齢では、年収600万円は弱電メーカーとしては比較的高額ということを知っていた。カントーでも出来る限りの条件を付けてくれたのだ。
 私が辞める半年前ぐらいに、MCに黒井が入社してきた。私が誘ったのだ。黒井は2回目のオーストラリア留学を終えて、日本に帰ってきていた。留学と言っても、つてがある訳ではない。黒井の家は創価学会の信者でオーストラリアにも支部があるらしく、その縁でアパートやアルバイトを確保していたようだ。2回目の渡豪州は1年半ぐらいの期間になったが(1回目は1年程度)、英語は殆ど話せるようにはならなかった。いつも、日本人と一緒にいた、と言うので何をしに行っていたのか本人も分からなかったろう。私も黒井も雰囲気で物事を決める傾向が強いのでいざ、その場になると、何をどうしたら良いのか戸惑うことが多いのだ。
 ただ、女性とはせっせと付き合っていたらしい。黒井の本領発揮である。同じ日本人の女性の時もあれば、豪州の女性とも付き合っていた。エミリーという、ベッツィ&クリス(白い色は恋人の色、を歌ったデュオ。若い人は古くて済みません。)のベッツィに良く似た可愛らしい人だった。黒井が日本に戻ってから、エミリーが日本に来て3人で良く飲みに行ったことがある。
 黒井は、日本に戻ってから、ブラブラしていた。しばらくは私の狭山のハイムに居候していた。私は、黒井の両親には、後ろめたく感じていた。黒井に悪影響を与えて折角、勤めた清瀬市役所を3ヶ月で辞めさせ、2浪させた後、これまた勤めた日本閣観光を辞めさせて豪州に行かせた、という自分なりの負い目を感じていた。
 最も、黒井にそんなことを言うと、俺は俺の意思で何事も決めている、と怒るだろうが、私には、黒井に悪影響を与えているという自覚があった。黒井は人当たりも良く、話も上手い。大勢の人前でも物おじしないで話せるタイプでもあり、むしろ、私よりもMCの講師には向いているぐらいだと思った。丁度、MCも業績が拡大しており、新規の講師募集を行う予定があった。黒井にその話をすると、大いに興味を示し、俺もやってみたいと言う。
ただ、MCも知名度が上がってきており、倍率は20倍以上の可能性は高く、ただ、応募したからと言って必ず採用されるとは限らない。黒井よりも知的レベルが高い大倉や草刈は共にMCを落ちているのだ。ただ、性格的には黒井はMCの講師としての資質がある。すなわち、人間的に素直で誠実なのだ。ひねくれていたり、裏を読む、あるいは策を弄するとかいった姑息な人柄はMCは嫌う。多くの人に影響を与えるにはあまり懐疑的な人物は向いていない。大倉は知的レベルが高く、極めて理屈っぽいし、草刈はこれまた頭脳明晰だが、猜疑心が強いと言った難点があった。その点、黒井はキャラクターの面では問題なく採用されるだろう。
 ただ、MCは筆記試験がある。一般常識と論文だ。私は、常識問題集や心理学の図書を購入してきて、黒井を特訓した。研修から帰ると、私のハイムにいるので直ぐ勉強に入れる。次の研修から帰るまでにはここまでやっておくようにと指示もした。黒井も私の熱意に打たれもしたのだろう。大分頑張って、勉強した。特に論文に関しては、大体同じ問題が出るので、何回も書かせて添削した。採用計画は聞いていたので、最初の予定の採用時は受けずに、それから半年後の採用に的を絞って勉強させた。MCはその頃、業績拡大中で定期的に採用計画があったのだ。
 半年後の採用は6名だった。応募は200名前後あった。どうにか、1次試験は合格し、2次試験も合格できた。2次試験は面接だが、それも練習してきた。3次試験は、合宿形式だが、それも決して気を緩めることなく積極的に参加するようにアドバイスした。黒井が採用された旨を連絡してきたのは、私が大坂で研修中の時だったが、自分のように嬉しかった。MCなら親友に自信を持って勧められる会社である。研修が終わって、大坂から、清瀬の黒井の家に土産を持って直行した。黒井のお母さんは私の手を取って、何度もお礼を言い、本当に喜んでくれた。私はご両親にやっと恩返しができたと思った。
 後で、黒井の採用に立ち会った先輩講師に聞いたところ、黒井は面接時に何故、MCを受けたのかと聞かれた時、「親友に、山田がおり、彼がMCに入社してから人間的に成長している様子を見て、自分も是非、この会社に入社してみたいと思いました。」と言っていたと聞かされた。事前に勉強した予定通りの答えではないにせよ、黒井なりに感じたことを素直に表現したことが良かったのだろうと思う。私がどんなに援助しても、結局は本人の資質と決意が無ければ採用されない。その意味では、黒井は採用されるべくして採用された人物だったのだろう。
 黒井が入社してから半年ぐらい経過してから、私は退職依頼を出した。さて、MCにどのように退職の説明をするか、悩んだ。まさか、担当会社のカントーに行きますと本当のことが言える訳が無い。真知子が病気でということを理由に会社を辞めることにした。丁度、そのころ真知子は子宮筋腫で手術を受けることになっていた。少し大げさに病気のことを言い、看病と称して辞職することにした。中林さんという先輩講師には、伊豆の研修所で一緒のときに本当のことを言った。中林さんは、辞めるまでは他言しないことを言ってくれた。上司の半田さんは、反対したが、事情(女房の看病)を説明すると涙ぐんで納得してくれた。少し、良心が痛む思いをしたものだ。社員の多くの人たちが引き止めた。
社長に挨拶に行くと、「君をそこまで追い詰めたことを申し訳なく思います」と言ってくれた。申し訳ないのはこちらのほうだ。27歳までプータローでどうにもならない軟弱な自分をここまで鍛えてくれたのだ。感謝してあまりある。本当にMCは私のビジネス、いや人生のお師匠様である。送別会を皆でやってくれた。辞めることが正式に決まると、訓練の予定は殆どキャンセルになった。
 松井という小悪魔的な可愛い女子社員が居た。何となく話があって2人で飲みに行き、池袋のロッカー置き場でキスをした。次の日が研修だったが離れがたかった。黒井もその子は気に入っていたようだが私の手前、手は出さなかったようだ。最も、何回かデートしただけで結局、何も無かった。キスやおっぱいを揉んだりしたがそれ以上はさせてくれなかった。気の強い子で、やがて自分には向かないのが分かった。岩槻に住んでおり、MCを辞めてから車で迎えに行ったりしたことがある。池袋の同伴喫茶に行ったり、新宿ワシントンホテルで食事をしたり、足利の美術館に行ったりしたのが思い出だ。そういえば、足利に行くときにドライブ中、得意な怪談話をしたが、(飲み屋に行くと私はいつも怪談話で場を盛り上げる)「もう、いい」と受けなかったのを覚えている。
人気ブログランキングへ

 ここまで、前半の32歳までを書きました。読んでいただいた方、有難うございます。これからは、記事のアップは不定期になりますが、引き続きよろしくお願いします。


自分史その24

2011-07-22 09:21:41 | 日記
9.MC時代(27歳から32歳まで)その3
 MCでは5年近く在籍した。辞めるキッカケになったのは、結婚したことである。
その前にこんなことがあった。ある地方での研修が終り、受講生と同じ電車に乗って世間話をした。相手は言った。「先生は年中、このような出張が多いのですか。」私はそうだと答えた。彼は「素晴らしいお仕事ですが、いつもお1人で居る仕事ですから淋しくないですか。私などはとても勤まりません。」確かに孤独な仕事であった。3日間という間に親しくなった人達はもう次に再び自分と会うことは無かった。いつも人間関係は新しく、緊張を伴ってスタートするのだ。たまの休みにも曜日が合わずに友人達と会うことも無い。だからMCの講師達は久し振りに会うと皆、仲が良かった。私はその時の受講生の言葉が心に残った。また指導員の仕事は多くの人達に会うが、女性との出会いも殆ど無かった。受講生の中には女子社員なども居るが、短期間の訓練で恋の対象になることはない。唯一、それらしき事を挙げるなら、仕事以外の黒井の日本閣観光の社員達との交流があった。
 黒井は私がMCに入る前後に、オーストラリアに予定通り行った。私たちは、最初に就職し始めた頃は、時間の許す限り会っていた。お互いが、将来の不安を抱えながらお互いを慰め合い、励まし合っていた。私はカウンセラーになるためにカナダに行き、黒井はカメラマンになるためにオーストラリアに行く、ということが目標になっていた。私も黒井も本当は何になりたいのか、恐らく、あまり分かっていなかっただろう。黒井は最初の会社で資金を貯め、1年ほどオーストラリアに行き、その後、帰国するとしばらく日本でアルバイトなどをして金がたまると、また1年半ほどオーストラリアに行った。私は既に、MCに入社して数年が経過していた。
 黒井が日本に居る時は、清瀬の実家や私の狭山のアパートに住んでいた。何分、私は研修でほとんどが出張なので部屋は空いている。黒井はアパートに住んで、せっせと女を連れこんでいた様子だった。小奇麗なハイムだし、家電関係や家具も揃っている。快適な住環境だったろう。日本閣観光関連の仲間で池上とかその他の女子社員とグループで付合った。付合うと言っても、皆でドライブしたり、私のアパートで鍋を囲むとかいった程度である。
 黒井が2度目のオーストラリアに行った後に、黒井を介して知り合った女子社員の池上とドライブしたり、何回かデートらしきことをしたが、あまり気が合わずに付合いを止めてしまった。黒井も居なくなり、何となく仕事にも馴れて来て私は日々の仕事に物足りなさを感じ始めていた。
 そんな頃だ。29歳の春に、義理姉の君代さんの堀川のお母さんが見合いを勧めてくれた。相手は宇都宮の小学校の教師だという。宇都宮大出の才媛だという。私は仕事で忙しく、特に親しくしている人も居ないし、しかも、そろそろ身を固めたいとも考えていたからお願いした。
写真が必要と言うので、自分で清瀬の写真屋に行って撮って来た。今でも覚えているが、気障な写真であった。後ほど、相手の写真を貰った。人の良さそうな印象を持った。川田真知子という名前である。年は私と3つ違いの26歳だった。見合いは宇都宮の料亭のような所で行われた。私は堀川のお母さんと一緒に行き、相手はお母さんとやってきた。2人きりになり色々と話をして、話が弾んで飲みにも行った。印象はおっとりしていて感じが良かった。次回を会う約束をして別れた。後ほど、堀川さんに電話をして結婚を前提にお付き合いしたい旨を伝えた。それから半年後の12月末に結婚した。
 その間、何回かデートをした。真知子は穏やかで人の良い善意の人だった。あるタイプの女性にありがちな見栄や感情の起伏が激しさが無く安心して付き合っていられた。むしろ、仕事がら、私の方が神経質で激しい感情の波があったろう。決して美人とは言い難いが人柄の良さや庶民的な育ちの良さが態度や仕草に出ていた。ただ、誰にでもあることだろうが、そんなおっとりした所もある時は人の気持ちの無神経さや鈍感さに繋がる場合もある。私達は時には噛み合わずにお互いがイライラした。そう言う時は、彼女はあまり表には出さないが、私は自分を押さえると言う事が出来ずに真知子にぶつけた。関係は2人で伊豆に旅行した時に持った。彼女は処女ではなく、そしてそれはどうでも良いことだが、真知子は私のセックス時の態度に強引な印象を持ったようだった。それはこれまでヨーコにしていたセックスパターンで、確かに、私は自分中心で強引な所があった。
人間関係のささいな行き違いは誰にでもあることだから、それらを含めて2人共お互いの良さを認めて、半年を経て人生の伴侶として相手を選んだのだった。結婚式が年末になったのは、お互いの仕事の関係である。ビジネス指導員も教師も平日の休みは中々取れないのである。大林さんが同じ日に結婚した。大林さんは再婚で、相手はブリタニカ時代の人らしい。大林さんとは年が離れている。私と同じ位の若さで綺麗な人だった。私と同じ日に結婚式をしたのは、MCの人達を多く呼ばなくても済むという大林さんらしい他愛の無い理由だった。司会は大山さんに頼んだ。MCの人達なら誰でも司会はプロ並みである。
 お祝いの電報に、カントー計算機の佐々木さんからも届いていた。当時の私のメインの担当会社である。また、黒井からもオーストラリアから電報が届いていた。結婚式では同僚の諸田夫妻が途中から来てくれた。大林さんの式の後に来てくれたのだ。たまたま、同僚の井上さんが欠席したのでその席に着いてもらった。式は、真知子側も私の側も主席者は皆、スピーチが上手く、和やかに進められた。式の後は、サンシャインに宿泊をとった。真知子も結婚式で疲れていたろう。私も興奮していて中々寝つけず、ご祝儀袋のお金を計算したりしていた。翌日、羽田からハワイに飛んだ。私には初めての海外旅行である。
 新婚旅行はあまり覚えていないが、所々に記憶がある。ハワイのインディアンショーでは最前列に座ったが、つい疲れてウトウトしてしまった。火を使ってのショーであるが、芸人であるインディアンの1人が私が寝ているのを面白くなかったらしくしつこく絡んできた。大林さん夫婦と待合わせて、一緒に食事をしたり写真を撮ったりした。大林さん達もハワイに来ていたのだ。観光名所のあちこちに行った。
 その間、私と真知子はあまり楽しめなかった。お互いが一日中一緒に居るものだから、地が出て、それがお互いを疲れさせるのである。恐らく、私の方に原因があったろう。仕事柄、相手の応対の仕方にピリピリするのである。お互いが不愉快になり、つまらない時間が多かった。私は、疲れたり、困った時には、これまでの人生がそうだったように、考えることにより解決しようとした。
 独身ならば、勝手に考える訳で、誰にも迷惑にならない。夫婦ならば、考えたことを相手に伝えなければ問題解決にならない。私は、真知子にネチネチと自分の考えを伝え続けた。彼女にしてみれば「何をつまらないことを延々と話すのかしら」と感じただろう。新婚旅行が終り、羽田に着いた時も、私は文句を言った。真知子がさっさと行ってしまったので、夫婦なのだから2人並んで行こうとかつまらない話だ。今、思えば、未熟な精神の自分だった。寛容さや思いやりは成熟した人間でなければ示すことは出来ない。成田離婚が流行っているそうだが、自分達もその危険があった。
 真知子が鷹揚だったので夫婦で居られたのだ。真知子の人柄の良さは義理の父母にもよく表れていた。お父さんは栃木県警の交通課に勤務している方で本当に誠実で楽しい方だった。お母さんは控えめながら芯のしっかりした人で自然な気配りが出来る方だった。妹がいた。性格は真知子とは正反対な印象で、活発で自由奔放なキャラクターと感じた。皆、平凡でも誠実な市井の人々だった。
 私が結婚生活当初に真知子と喧嘩をして、よーし、離婚だ!と感情的に思っても、宇都宮のご両親のことを考えると申し訳無さで決心が鈍る。そういう時がしばしばあった。MCでも、幼弱性は結婚と仕事で鍛えられる、と言うではないか。これまで長い間、自分勝手に生きてきたのだ。夫婦となることによって、2人で家族を創っていくのだ。社会的に成熟していかなくてはならない。頭では分かっていても、感情が押さえられない。私はイライラし真知子もこんな筈ではと感じていたのではないだろうか。
 新婚生活は茨城県の取手で始めた。お互いが、仕事を持っているのでそこから通勤できるギリギリの場所が取手になった。真知子は栃木県の教員なので首都圏に住むのなら、東京・千葉・茨城南部の教員採用試験を受ける必要がある。2人で話し合って、茨城県の教員試験を受ける計画にした。新居は宇都宮のお父さんが駅前のアパートを探してくれた。2階建ての3室ある真中の部屋である。2間あった。家賃が38000円で安かった。私は狭山では結構、綺麗なアパートに住んでいたので結婚時にはもっとマシな部屋と思っても良かったのだろうが、その時は、そうは思わなかった。義父の、新婚生活なのだから倹約しなくてはいけない、という思いやりで安いアパートを探してくれたのだと感謝した。
 新婚生活はスタートした。ただ、私は相変わらず出張が多いし、真知子は学校の関係でまだ3月までは宇都宮にいなければならないのでいつも一緒では無かった。それが、あまり良くなかったかも知れない。まず、お互いが会えないのでコミュニケーションがずれる。お互いが、こういう人だったのだ、と誤解したまま離れているのでますます心理的な壁が出来る。まあ。一般的な結婚生活の壁なのだが、当人にはそうは思わない。この結婚は本当に正しかったのかと悩み出す。特に、私は思いこみが激しかった。真知子も辟易しただろう。何かにつけ、心理的な諍いがあったように思う。特に悩んだのが、真知子の結婚前の男性との付合いだ。私も人のことは言えない。また、昔ながらのタイプでも無いので、初婚の相手が処女でなくても気にはしない。だが、自分にはあるオメージがあった。付合うにせよ、不倫はいけない、と思っていた。
 それは、会社の同僚の悲惨な遊びの結末を知ったことがあるからだ。笠井という同僚が新橋時計店時代に居た。付合っていた彼女が他の男性と結婚することになった。当然、付合いは終わりになるべきだ。しかし、笠井はその後も彼女に会った。元彼女が人妻という状況設定が彼を卑しい興奮に追い込んだのだろう。彼女も断り切れずに笠井との不倫を楽しんだという。夫である彼がオートバイで通勤した後に、新婚宅であるアパートに笠井は忍び込む。大胆不敵な振る舞いだ。不倫は当人達には軽い気持ちでも、そうでない当事者には深刻な悲劇となりうる。不審に感じた夫が、オートバイで通勤する振りをして出かけた後、徒歩で戻ってアパートを見張った。笠井が自分と妻と乳繰り合っているのを知る。
 夫はスパナで妻と笠井を滅多打ちにしたという。笠井は頭蓋骨陥没で死にはしなかったが、重い障害を持つようになった。夫は暴行罪で刑務所に行ったという話だ。妻はどうなったかは分からない。大宮の病院に笠井を会社の皆で見舞いに行った時は、意識不明で話すことはできなかった。会社も自動的に退職になった。悲惨な出来事だった。その時から、私は、不倫だけはしてはいけない、と恋のルールを自分に課した。
 ある時、真知子との寝物語で結婚前の男女関係を聞いた。彼女は妻がいる12歳年上の教師と付き合っていたと話した。不倫である。私はドキドキしながらそれでも何気ない振りをして話を聞きだした。鹿沼の中学校に勤務していたころだ。2~3年前なのだろう。親元から離れて田舎に下宿し寂しかったこともあり、つい関係を持ってしまった。最初は彼は結婚していなかった。それならばまあ良い。しかし、彼が結婚してからも関係は続いた。その男が真知子を、女房よりも愛していると言ったらしい。不倫は続いた。その後、彼の奥さんに子供が出来てそれをきっかけに別れたという。一時期は日陰の女で一生を過ごしても良いと思ったらしい。でも奥さんに子供が出来たということで彼に嫌気が差して普通の結婚がしたくなった。それで私と見合いしたということだ。別れの時は喫茶店で良い思いでとして私に話した。いい気なものだ。
 私はついに怒りを爆発させた。大声で真知子を罵り、窓ガラスを壊し、結婚指輪を外に投げ捨てた。自分の感情が抑えられなかった。抑えようとする気持ちも無かった。真知子は、私の反応に驚き唖然としていた。それからは精神的な地獄だった。私には研修があり、ひんぱんに地方に出張に出かけるのだが、真知子のことを考えると悶々と悩んだ。どうしても許せないのだ。本を読んだり、仲間にも相談したりしてみたが、イライラはつのった。ある研修では、東北地方に行った。紅葉が綺麗だったので晩秋だったろう。TKCの研修だったと記憶している。研修の合間に、紅葉が見事な庭を散策しながら何度も心に許そうと繰り返した。しかし、直ぐにまた悩みだす。恐らく、その当時の心境としては、結婚生活そのものに対する不安と恐れが潜在的にあったのだと思う。それが、伴侶の欠点を拡大させ、理想と現実のギャップに苦しんだのだと冷静に考えることが出来る。しかし、悩みの渦中にある自分は悶々と悩み続けた。
人気ブログランキングへ

自分史その23

2011-07-21 09:50:11 | 日記
9.MC時代(27歳から32歳まで)その2
 MCの給与は当時としても高かった。私の27歳という年齢からしたら飛び抜けていたろう。年収では800万円近く、指導担当すれば1000万円の収入になった。今でも1000万円は高額である。それが30年前の収入なのだ。私はいきなりリッチになった。清瀬の実家を出て、狭山市の方に部屋を借りた。新築で駐車場付きの小奇麗なハイムである。部屋は3DKある。車は前から欲しかったコスモを購入した。家電製品も一通り揃えた。まさに独身貴族である。とは言え、正式に指導員の資格を取ってビジネス指導を担当するようになってからはそのハイムには殆ど住まなかった。研修の為に出張が殆どだったのである。月に20日以上の出張があった。最もそれほど研修が入るようになるにはそれなりの苦労もあった。
 MCでは若い指導員は私と山形が始めてで、営業としてみれば、ビジネスマンの研修講師としては年齢やキャリアで不安があっただろう。ビジネス指導員の資格試験を取ってすぐの頃は研修受注も頭打ちで、私達若い2人には殆ど入らなかった。最初はそのうちに仕事が来るだろうと思っていたが、ある先輩講師から言われた。「研修の指名を受けるのもビジネス指導員の仕事の内だ。どんどん営業に売り込まないといけない。」私はそう思い。自分でも使ってくれそうな営業マンや部隊に積極的に働きかけた。営業同行したり、自分でも営業をやった。営業は新規の飛び込み営業である。最初に飛びこんだ所では、緊張してしどろもどろだった。そのうちに様になって来たが、飛び込み営業はきつかった。受注こそ少なかったが、そういう私の姿勢をある営業部隊が評価してくれて、ぼちぼち研修が入り始めた。
 川越部長と言う営業責任者が管轄している部隊が私を良く使ってくれた。営業には宮寺さん、笠原さん、三枝さん等がいた。サンテキスタイルの衣料関係の会社では私が担当して評判が良く追加受注が来た。そのうちに、会社全体の研修受注も上向き、私もフルで研修を担当するようになった。私は生き生きと働いた。
 当然、仕事上でのストレスは多い。殆どの受講生が私よりも年上でキャリアもある。営業研修では、どの業種や業界の営業マンも、自分達の世界は特別である、と思っている。今更、研修なんて、という気持ちが必ず腹の底にあった。それがあからさまに出る場合もあれば、隠し持っている場合もある。どちらにしても反発や反感はあるのだ。私は、持ち前の気の強さから、彼らに舐められまいとしてしばしば勝負していった。その勝負が自分としてのビジネス指導員としての技量を高めていったとも言える。
 あるコースなどは、私が話していることを少しもメモしない受講生が居た。私は彼の前に近づき、「何故あなたはメモしないのですか」と相手の眼を見ながら聞いた。彼は「私は頭で覚えているのです」と挑発的に言い返してきた。「それなら、私の今まで言ったことを喋ってみてくださいよ」と切り返した。彼は瞬間、怯んだように顎を引いた。私は「後で、内容を振り返る必要があるので必ずメモはしてください」と穏やかに言うと、彼はしぶしぶ手帳と鉛筆を取り出した。そういったことも何十コースと担当すると馴れてきて、殆どの受講生の反応に対応できるようになった。
 研修が上手く行った時などは、受講生が集団催眠に掛かったように私に心酔した。そういう時の私は自分の自我が最大限に満たされる思いになった。私はレクチャーよりもロープレ指導が得意だった。営業マンであれば、その営業1人1人の行動傾向を指摘するのである。その指導の背景にある理論はセールス・グリッド(ブレーク・ムートン)である。営業マンの商談を通じての、癖や仕草をとらえて、その行動の奥にある営業マンの価値観や心理を推察し、5つのタイプに分類していく。ビデオを止めるタイミングによっては神業に見える場合もあった。
 ビジネス指導員として日本全国を出張し続けた。研修以外は会社に行き、事務処理や営業同行などをする。たまの休みは、平日が多いので友人達とは会うことが出来なかった。平日はパチンコをやったり、買い物をしたりした。休みの日に、コスモで音楽を聴きながらドライブする。尾崎亜美のストップモーションが流れる。こんな時に彼女でも居れば、申し分無い生活なのである。
 MCの女子社員達は皆、仕事は出来るが、気が強い子が多く、私にはちょっと苦手だった。室井という女子社員はコケテッシュな子でスタイルが良く、私や山形には少し気になる女性だった。私は彼女をデートに誘い、映画を見たり飲みに行ったりしたが、結局、長続きしなかった。
MCで社内旅行が実施されたことがある。確か、軽井沢の方である。全社員で野球をしたり、バトミントンをしたりして楽しんだ。私が野球のピッチャーの時は室井さんや他の女性達が「山田くーん、頑張って」と黄色い声援が飛び、他の先輩講師からからかわれた。
 MCには営業マン研修やマネージャー研修以外にも様々な研修がメニューとしてあった。コンサルタントのような契約業務もある。ただ、コンサルタント業務は、研修とは違い、まさに臨機応変の能力が要求される。若手の私たちではまだ担当できるレベルではなかった。ある時、助手としてあるコンピュータ大手会社に中堅講師の中山さんと訪問したことがある。中山さんはコンサルタント契約をその会社と結んでいた。システム部のメンバーと業務の問題点を洗い出し、改善点を見付けだすというテーマでその日は打ち合わせが行われた。中山さんは巧みに質問でメンバーをリードし、問題点の洗い出しや改善点の発見に手を貸した。その手際良さが私には神業のように思われた。システム部のメンバーも中山さんには信頼を置いているようだった。
 会社を出た後で、「どうして、あのように本質を付いた質問ができるのですか?」と素直に聞いてみると、「事実の積み重ねが重要だ。人はそれぞれの思惑で、自分なりに脚色した意見を述べるが、それに振り回されてはいけない。必ず、事実を押さえていけば本質が見えてくる。」と答えてくれた。ただ、どのような事実を押さえていくかが重要で、その事実の押さえ方が能力や経験の差ということになってくるのだろう。私もMCでの経験が3年を過ぎた頃は、コンサルタント的な業務も単発で入るようになったが、あまり評価は芳しくなかった。中山さんや大山さんのように本質をとらえることは難しかった。問題の本質を把握するということは、経験や学習の差というよりは才能の差の部分が大きいのではないかと感じている。
 ある時、大林さんや三浦さん、沢野さんらが私の狭山のハイムに遊びに来たことがあった。皆で騒いで飲み、翌日にはコスモで海にドライブに行った。実に楽しく輝いている日々であった。自己実現を充たせる仕事・魅力ある仲間達・プライドを持てる職種・高収入等々、自分は運にも助けられてこのような恵まれた立場を獲得することができたことを心から感謝した。私は以前からの私の友人達にMCの素晴らしさを説き、自慢した。後になって分かったことだが、大倉や中央大学時代の草刈らは私には内緒でMCの採用試験を受けたようだ。しかし、2人共、採用されなかった。
 自分が担当したコースはMC在籍の5年間で250コース近くあるだろう。月に4コース平均である。記憶に残っているコースを幾つか思い出したい。
 一番最初に担当したコースは大阪で、新入社員研修だった。「貢献と報酬」というレクチャーで、背広の支払いの事例を話した時に反応をある新入社員に聞いた所、「私は払いません」と予定とは違う答えが返ってきた。明らかに、講師に反発しているのである。杓子定規でレクチャーをしているから、そうなる。ベテランならば幾らでも切り返せるが、新人の私は慌ててしまって、困ってしまったのを懐かしく思い出す。ちなみに、そのコースでは、休憩中に新人同士が私の噂をしていて、ある女子社員が「一生懸命教えてくれている姿勢が好感が持てる。」と言っていてくれたのが嬉しかった。
 新人研修では、京都の滋賀の方でやったトンカツの王様の新人研修が記憶に残っている。山形と2人で担当した。トンカツの王様の新人は、社会の落ちこぼれが殆どだった。仕事はきつく、しかし、頑張れば将来お店が持てる。暴走族上がりや逆に苛められっ子などが大部分でとても長時間座って話を聞くというような態度では無かった。最初、起立!と号令を掛けたが殆どが立ち上がらず、寝たままであった。そういう人達を一人前の社会人にしようというのだ。いや、たかだか3日間でそんな事が出来るわけが無い。(新人研修は3日間から4日間だった)少なくとも、返事が出来るようにしたり、遅刻をしないようにさせる、という最低限を身に付けさせなければならない。
 それでも、必死になって挨拶の仕方を教えていると彼らでも徐々に様になってくる。終了後の感想文などを読むと、「いい年をしたオヤジが必死に口をパクパクさせながら挨拶を教えているのを見て、自分も何とかしなければと思えてきた」などと書かれていると少しは報われたかなと感じることがあった。心理学を生かした研修とは言っても、スマートなものではなく、泥臭い内容がMCの研修だった。そうでなければトンカツの王様の新人のようなメンバーの行動を変えることなど出来ないのだ。
 ビジネス経験を積んだ人達ほど、表面的には友好的だが本音のところでは自分を変えようとしない社会人が多かった。営業マン研修では「セールス行動の変化」というのが最初のテーマである。人々は私も含めて、過去のやり方や習慣に拘るのだ。状況や環境が変化してもそれに気が付かない。人間とは習慣の束で出来ている。習慣の集大成がその人そのものの人格である。だから良い習慣を身に付ける事が重要だし、習慣を敢えて変えていこうとする柔軟性が必要なのである。
 営業研修で印象に残っているのは、研修そのものより、後程に受講生から頂いた手紙や2回目に研修で出会う人々の印象などである。いずれも研修中は必死で夢中で過ぎていった。タジーナという会社の猿岡さんという営業課長が私の研修に参加した。最初は態度が反発的だった。しかし、自分でも理由は分からないがある時を境にガラッと変わって協力的になった。数日して、会社に手紙が届いた。私の研修参加に対してのお礼である。大変役に立ち、感謝している、という文面であった。研修の何かの内容が相手の琴線に触れたのであろう。
 トパーズクラブというゴルフ会員権販売の会社の営業が参加した。バリバリのやり手の営業マンと言う雰囲気である。後日、数ヶ月経ってから同じ研修にその人が私を指名して参加していた。研修始めに、私に挨拶して「本当に前回は参考になった。是非、今回もよろしくお願いします」と言う。もうそれだけでその研修はスムーズにいった。ベテラン営業が指導員に敬意を払うのだ。新人営業はそれだけで内容に敬意を払わざるを得ない。私や山形は他のインストラクターよりも若い為、営業マン研修では特にベテラン営業ほど業界の商習慣や過去のやり方に拘り、強い反発を持つことが多かった。MCの営業研修では、相手の業種・業態の中身に入ってはいけなかった。必ず、こちら側の土俵に立たせるのである。そうすればどんな個別事情があっても研修を成り立たせることが出来る。人間心理は共通項があるというその大前提を崩しては研修が成果を収めることは出来ない。
 大阪での公開コースで癖の強い営業が2名居て、この時は苦労した。始めから反発が剥き出しで、やりにくいことこの上ない。確か、住商の関連会社の人だったと思う。新人研修ではあまり苦労はしなかったが、東京製薬だけはてこずった。東大や慶応など、学歴は高いが底意地の悪い新入社員が多く、運営にひと苦労だった。理屈が先行するので行動が伴わないのである。
 研修では全国各地を飛び回った。飛行機や新幹線、夜行列車にも乗った。福井で営業研修がある時は、雪で飛行機が飛ばず、急遽、夜行列車に乗って行った。中々、眠れるものではない。研修所も兼ねた旅館に着いた時は明け方5時ごろ。仮眠をして、研修を開始したのを覚えている。熊本の住宅ハウスメーカーの営業研修の時も帰りが台風で予定の飛行機が飛ばなかった。研修生の宮本さんというジャッキー・チェンに似た人の良いマネージャーが自分の家に泊めてくれたりした。最初、新人講師だった私も2~3年経つとすっかりベテランになった。20歳代の指導員も私や山形以降はどんどん入社して活躍していった。
 山形は後にMCの中では指導員というより、商品企画や経営企画室のような仕事に携わるようになった。彼は私と同年代だが、彼ほどの文字通り頭の良い人間は見たことが無かった。早稲田大学の中退だが、父が山形西湖という東北地方の思想家という。その父には、有名な芸能人なども師事していたらしい。山形は私がこの世の中で知った、本当に頭の良い人間だった。学歴が高いとか物知りであるとか、世間一般のレベルではなく、日頃接していて、その洞察力や本質把握力は際立っていた。
 才能というものは、有る、無し、は生まれつきの要素も大きく、不公平なものなのだ。そして、その才能はまたどう生かすかで大きく評価が変わってくる。後ほどMCの幹部に聞いた話では、山形を採用する際、他の審査員達は難色を示したようだが、本木社長がどうしても山形を入社させたいと主張したらしい。際立った知的能力を買っていたらしいとのことだった。
 もし、山形と違う環境(例えば、企画や研究など)で勝負したら、到底、私は敵わないであろう。大切なことは自分の能力を自覚しどう生かしていくかの環境を選んでいくかであろう。私は、たまたま、心理学という漠然とした分野の関心から、MCに運もあって入社することが出来てビジネス上での良い環境を選ぶことが出来たのだ。
人気ブログランキングへ

自分史その22

2011-07-20 11:09:47 | 日記
9.MC時代(27歳から32歳まで)
 MC(マネジメントコンサルタント)での5年間は、その後の私のビジネス人生の土台を作ってくれた5年間であった。実際、この5年間のビジネス指導担当は自分自身のプロの社会人になるための訓練でもあった。そのお陰で、私は、それ以降は、ビジネスで苦労したと思えることはあまり無かった。それほど、ある意味では徹底して鍛えられたとも言える。だから、私は自分のビジネス生涯を通じて、MCには本当に感謝している。MCこそが自分のビジネス人生の学校だったと言える。
 入社前合宿は熱海の山王ホテルという場所で行われた。合宿参加に当たっては、これまでの試験は会社側が採用判断する場面だったが、今回の合宿は皆さんがMCを判断する場面です、と説明された。とは言っても、3次試験の意味合いがあるのも事実だった。短時間の面接や試験では分からない人間の傾向や本質も2泊3日という合宿ならば、かなりの部分が明らかになるだろう。山王ホテルは昔ながらのホテルで和風式の複雑な作りになっているホテルだった。合宿では、実際にMCが実施している、ビジネスマン向けの営業研修を受講するというものだった。
 私達の担当講師は、村松さんや中林さん、坂本さんだった。参加者は、私と鈴木さん、高光さん、中川さん、栗田さん、山形、ともう一人、私と同じぐらいの年齢の人がいた。合計7人である。鈴木さんは体育会系の応援団員だったという人で、ひょうきんな30歳半ばの人である。高光さんは40歳後半の苦労人という印象の人。中川さんはいかにもビジネスマンという落ち着いた人で40歳ぐらい。栗田さんは30歳ぐらいの人の良さそうな人。山形は神経質そうな、私と同じ年齢のフリーターという印象の奴だった。もうひとりは、結局、研修参加後に不採用となったのでよく覚えていない。
 研修は、レクチャー部分とロープレ部分に分かれて進められた。私は、講義中も積極的に質問し、ロープレでも元気良く参加した。講義は心理学の要素もある話なので興味が持てた。講義部分は、後程分かったのだが、常務の細川さんが担当した。私は、性格の部分の説明が雑な印象を持ったので、鋭く質問すると細川さんはやんわり受けて、逆に私の指摘を誉めてくれた。それですっかり気を良くした私は前向きに研修に参加できた。
 ロープレでは営業マンが商談をする部分を実演するのだが、ここでも私は進んで手を挙げた。始めて担当する村松さんは、後程にこぼしていたが、大分、私にはてこずったそうだ。というのは、村松さんや中林さん、坂本さんは新人講師で、今回は彼らの最終仕上がりも兼ねていたのである。
 夜はロープレの作戦表を皆で作成する。同期となる鈴木さんらとはすぐ親しくなり、興味を持って、楽しく参加できた3日間であった。研修後には連絡があり、正式に採用となった。落ちたのは1人の若い奴だけである。研修の最後にはMCの代表である本木社長が挨拶し、一緒に電車で東京に帰った。その時に、落ちた若い人は「自分は前の仕事場では遅刻ばかりしていました。」と言い、社長から「それはいけないね」と言われていたのを思い出す。MCでは自己管理の出来ない人間は決して採用しない。遅刻をしないことは自己管理能力の基本中の基本なのだ。若い奴が落ちたのも当然だった。と言うよりは、そんな事を社長の前で言う無神経さがそもそも感受性にかけている証拠だろう。
 さて、晴れて社会人となった私は頑張って仕事に取り組んだ。仕事と言っても、MCは学校のような雰囲気がある会社だった。まず、ビジネス指導員という職種で入社した私達はその資格を得るために期限付きで試験に合格しなければならない。3ヶ月で基本科目を合格し、後の6ヶ月で専門科目を取得するのだ。科目と言ってもペーパー試験では無く、内容の理解と表現である。内容とは、例えば、営業マン研修のコースであれば、商談理論の本質理解とその発表ということになる。もし、期限付きまでに合格できなければ、営業マンとして仕事をして、再度、チャレンジという厳しいものだった。この試験には本木社長自らが立ち会った。
 私達、新人指導員候補は最初、多少、軽く考えていた。要するに、決められた内容を覚えて話しをすれば良いのだ、と皆思っていた。実はこれが大変だった。話すためには、内容を徹底的に理解しておかなくてはならない。本質理解しなければならないのだ。自分では分かっている積もりでも、質問を色んな角度から受けると訳が分からなくなってくる。自分の人生でこれほどコミュニケーションの難しさを痛感したことは無かった。指導員候補生は自分も含めて、自我が強いものが殆どだったので、中々、素直には学ばない。年配であるならば、尚更、これまでの経験の殻があるだろう。その殻を打ち破らないと本質理解がなされないのだ。文章で書くと簡単だが、これが難しい。結局、自分の殻を打ち破れないでMCを辞めてしまう人も多く居た。
 中川さん、鈴木さんが辞め、最終的には私、山形、高光、栗田が残った。ビジネス指導員になるための試験を含めれば、約半年間、4次試験を経て、結果、4名が残ったことになる。1次試験で300名近い受験者がいた訳で、約75倍の倍率だ。自分にとって、運が良かった面もある。まず、MCは今回の採用については、20歳代の若手を何名か採用する方針だった。山形と私は20歳台だった。次に、1次試験の一般常識や論文は、私が裁判所調査官を受験するのに勉強した内容とかなり重なっていた。後日、MCの試験官だった先輩に聞いてみると、私の常識問題の採点はトップクラスで、論文も高評価だったという。論文は心理学に関するもので私的には取り組みやすい内容だったわけだ。
 とは言え、半年間でビジネス指導員の資格を獲得するという課題は並大抵の困難さではなかった。私も他のメンバーも大いに苦しんだ。中々、自分の殻を打ち破れないのだ。会社では資格試験に合格することが仕事なので、サンシャインに来ると、事務所の会議室でレクチャーの練習を繰り返し練習することばかりしていた。
 それと先輩講師に付いて、実際の研修を研修会場でオブザーブするのだ。先輩講師からは「君達、オブザーブは研修の準備をしっかりやることが仕事だ」と言われ、確かに、高い給与を貰って勉強させてくれるのだから、助手に付いた時ぐらいしっかり働かなくてはならないと思った。指導員になる勉強は辛かったが、私は充実していた。これまでの自分とは違う自分を作り上げているのだ。会社も仲間もなにより仕事も気に入っていた。私にとってMCはまさに理想に近い会社だった。新橋時計店と違い、本音で仕事に取り組み、人間的成長が日々自分でも実感できたのだ。MCでは皆、純粋で能力があり、人間的魅力に満ちた人達が多く居た。
 私が湯河原の合宿所で夜遅く勉強していた時である。ある先輩講師について、試験科目を指導してもらっていたが、厳しい人で、私は自信を無くしかけていた。何度やっても合格できない。1人、教室でレクチャーをしていると、大林さんという別の先輩講師がやってきた。私はつい弱音を吐いた。すると大林さんは「あなたには深い深い海の底で光り輝くような人間性がある」と励ましてくれた。私は涙がこぼれて仕方が無かった。人前で泣くのは中学生以来である。大林さんはトップ指導員だった。人の気持ちを何処までも思いやる懐の広さは、私には父(心の中にある理想の父親像)のように親しく感じられた。
 大林さんはブリタニカ百科事典のセールスをしていた人である。トップ営業で営業課長までいった。部下が自殺をして、責任を感じて辞めたのである。天才的な話術の人で、嫌味がなく、私はファンになってしまった。私は世の中で詐欺師と言われる人々が居て、その中には、騙されても尚人々から信じ続けられる天才的な詐欺師がいることを、大林さんを知って思った。私が女性でも大林さんには貢ぎ続けるだろう。それほど魅力的な人であった。
 大林さんのエピソードではこんなことがあった。私がMCに入社して2年ほど経過したころである。ある時、会社の打ち上げがあって、2次会らしきバーで大林さんや私を含めた他の講師達それと女子社員数人と飲んでいた。外では霧雨がしとしとと降っていた。「こういう小雨の時はいつも思い出すなあ。」大林さんが語りだす。「私が、20歳半ばのころ(大林さんはその時は35歳前後だった)、自分のアパートに帰ろうとしたら、何人かの駆けていく足音がするんだ。ふと、見るとアパートの玄関脇の木立ちの陰に人影がある。若い女性が身を屈めて潜んでいる。どうしたのかと聞くと、追われているという。私はとりあえず、女性を自分の部屋に匿ったんだ。」その話の続きは、何回も聞いている。その人は、やくざに追われて逃げていた。重病の母の入院費のために、ソープに身を沈めてやくざから借金をした。母は死亡し、返せるあてもない借金地獄から逃れようとしたのだ。今思えば、陳腐な筋書きで本当の話かどうかわからない。しかし、初めて聞く女子社員やバーのホステスたちは真剣に大林さんの話に耳を傾けている。中にはすすり泣きの声も聞こえている。
 こういう時の大林さんの話術は天才的なのだ。やがて、その女性と大林さんは結婚するのだが、波乱万丈の物語は続く。私達、他の男性講師達は、また、始まったかと思いながら、白けた気分で「ママ、水割り、お願いね」などと追加注文をしたりするのだが、女性陣は大林さんの周りに集まって話にうっとりしていて構ってももらえない。自分でいれて頂戴、などと言われて、しぶしぶ、自分で作り、飲んでいる。話が終わり、女性陣の一人が、「大林さんって、本当に優しい人なのね。」としみじみ潤んだ声で言う。私たち男性陣は皆「ケッ!」という心境だった。とは言え、大林さんは男性陣にも好かれていた。天性の人たらしの才能があったのだろう。私は、それ以降も多くの方々に出会うのだが、大林さんのようなタイプの人は出会ったことが無い。
 MCには大林さん以外にも魅力的な人々で一杯だった。私は20歳代の貴重な社会人としての土台作りのこの時期にこのような会社や仕事、人々に囲まれて過ごせる幸運を本当に感謝した。私と一緒に採用されて残ったメンバーは全員、どうにか期間ギリギリで合格することが出来た。
 私と山形は全インストラクターの中でも一番年が若いので、他の先輩指導員達から良く可愛がってもらった。特に、私は山形と違って、年上には素直な所があるので、先輩には人気があった。村吉さんという九州から家出同然で出てきた指導員がいる。元は学校の教師であった。本質理解が優れていて、本木社長がお気に入りの人である。私も好きだった。営業部の人達は、指導員とは一線を引いた所があり、それほどお互いが気を許せないことがあったが、指導員同士はお互いの苦労がわかっているので一体感があった。指導員は50名前後いただろうか。嫌いな自分に合わない人は殆ど居なかった。先に述べた大林さんや村吉さん以外に、北村さん、稲垣さん、三浦さん、沢野さん、中山さん、大山さん、等々、皆、能力があるユニークで魅力的な先輩達だった。
人気ブログランキングへ