10.カントー時代(32歳から37歳まで)
実際にカントーに勤務するまで1ヶ月ほどの休みがあった。私は、午前中に家事をして、午後からは麻雀やパチンコをして過ごした。1ヶ月が経過して、出社した先は、新宿の住友ビル20Fのカントー計算機オフコン機器事業本部の統括管理部という所だった。オフコンの販売部隊の管理業務部である。そこにオフコン教育課というのがあった。上司は、遠藤課長で教育課のメンバーは佐々川さん、郡司君がいた。私を含めて4人の課である。郡司君は、容姿端麗の性格の穏やかな青年だった。MC時代から担当としてしばしば会っていたので、気心が知れていた。メーカーの社員は高学歴が多く、良く言えば、上品でインテリジェンス、悪く言えば、世間知らずのお坊ちゃんという印象だった。ある意味、百戦錬磨で鍛えられた私にしてみれば、彼らをコントロールすることは容易なことだった。5年間のMC時代に私は、一定レベル以上の経営ノウハウ・マネジメントノウハウを身に付けていたと思う。
私には、心に秘めたある目的があった。お気に入りのMCを辞めたのは、最初に述べたように結婚を機に里心が付き、毎日、家に帰れる普通の社会人の生活をしたかったのが大きな理由だが、仕事の面では、自分のMCで培ったノウハウを1つの会社でじっくりと実践してみたいという気持ちがあった。コンサルタント業務をやっていると、相手のクライアント企業は、建前としてはこちらの指導に対して納得したような姿勢を示すが、本音の所では、そうは言っても、うちにはうちの個別事情がある、と反発や抵抗を持っている場合が多かった。理論と実践、基本と応用、という2つの概念の乖離は、指導する側はいつもぶつかる壁なのだ。勿論、当事者でないからこそ冷静に状況が判断でき、課題が明確につかめる場合も多いだろう。当事者の場合、立場による利害が判断の目を曇らせる可能性は大きいものだ。だからこそ私はあえて当事者になって、これまで身に付けた経営ノウハウやマネジメントノウハウを実践してみたかった。それが、カントーに転職したもう一つの大きな理由だったのだ。
初出社の朝礼で、皆の前で元気良く挨拶した。社員の人たちは皆、適度な距離を持って気持ちよく接してくれた。私は張り切っていた。佐々川さんや郡司君が色々と社風に馴染むように気を使ってくれた。カントーの社員たちは以前からMCを知っていたし、私に対しては一目置いていた。私は、MCのノウハウを駆使して色々とカントー内で改革を行っていこうと決意した。もし、大学を卒業してすぐにメーカーに勤務したなら、組織の改革など思いもつかなかったろう。経営コンサルタントの会社に勤務していたために私には組織内での自分の役割を改革者として自然に自覚していた。経営トップの意向を受けて、組織の活性化を図るのだ。そんなことを生え抜きのサラリーマンが思いつくはずが無い。私には、出世も保身もあまり関心が無く、ただ、MCで学んだ企業組織の改革のみが自分のビジネスマンとしての使命であり、価値観である、と信じていた。
そのことは、ある意味正しかったが、反面、MCそのものに内在する経営的な脆さを抱えていた。すなわち、MCはその企業のドメインとして集団性格の革新を掲げていた。企業本来の使命は業績向上による限りない存続であろう。そのことはMCもよく口にしていた。しかし、手段はしばしば目的化する。やがてMCが後年、衰退化を辿るようになったのは、企業本来の使命を蔑ろにして、業績を上げるための経営的な方針を時代の変化とともに適応することが出来なくなったからなのだ。MCの社員は内在的に業績よりも組織改革や人間的成長を主眼に行動するようになる。私もそうだった。私にしてみれば、メーカーであるカントーなどは、組織的完成度や社員の成長などは許しがたいレベルであった。
私はひたすらカントーの組織改革をありとあらゆる手段で推進していった。その意味では、私の関心は常に組織改革であり、社員の成長であった。確かに重要なことだが、そのことが目的化しては本末転倒である。どれほど組織改革がなされ、社員が成長しようとも、業績そのものにつながっていかなければ全ては意味が無いのだ。しかし、私はその時点ではそのことにまだ気が付いていなかった。
社内的な立場は一中途社員であるにも拘らず、経営コンサルタントの意識と態度をとっていた私にとっては、教育課のメンバーである佐々川や郡司は勿論、上司の遠藤さんや他の中間管理職でさえ相手では無かった。当然、表立って反感を受けるような愚かな真似はしない。あたかも、受講会社に組織改革を請け負ったかのような気持ちで腰を低く、組織改革の使命感を内に秘めながら、ひたすら改革の手を打って行ったのだ。
当時、カントーオフコン機器事業部は業績不振に喘いでいた。NECやIBM、富士通などがオフコン市場を独占していた。カントーは時計や電卓、楽器などは好調であったが、コンピューターは大手に比して遥かに出遅れていた。
私が入社した時と同じ時期に、星川取締役という事業部長が赴任してきた。これまで、どの事業部長が担当してもカントーのオフコン事業部は業績が思うように伸びなかった。星川取締役はカントーとして切り札として送り込んだ期待の取締役だったらしい。
星川取締役は誠実で真摯な取締役だった。オフコン事業部のメンバーの期待も大きいことがその人柄に触れて私も分かった。私にとってもチャンスだった。新しい事業部に着任した責任者は部隊の問題点を洗い出し、販売戦略を新たに打ち出していかなければならない。新しい企画を提案するには良いタイミングだったろう。企業は大きく分けてその戦略は、商品戦略と販売戦略に分かれるだろう。カントーのオフコンという商品戦略は、商品開発や製造部の役割である。星川取締役の管轄するオフコン機器事業本部は販売戦略を担当する部隊であった。販売戦略はMCの得意とする分野であったのだ。
私は、遠藤課長を説得して、星川取締役に組織改革計画案を教育企画として提出した。その内容は、①社内教育②販売店教育③ユーザー教育の3つに分かれ、社内教育は、階層教育と販売促進教育に分けて提案した。そのプレゼンテーションは成功だった。私の企画内容は、コンサルタントのプロが詳細に精査して1ヶ月以上もかけて作成した内容だったのだ。問題点の洗い出しから、課題の立案、解決策の具体案までページ数にして50枚にも及ぶ企画案は取締役に驚嘆の思いを持って受け入れられた。
私は、企画案をプレゼンする前は、取締役がこの内容を咀嚼できるかどうか心配な所もあった。それは決して、東証一部上場の取締役を軽く見ているというのではなく、専門的な経営理論のバックボーンが無ければ中々、私が提案した内容は理解しにくいのではないのか、と危惧したのだ。事実、MCで上場企業の役員のコンサルタントをしていても、意外と経験や勘に頼って、提案内容を机上の空論とみなす昔堅気の方々も多かったのだ。
星川取締役は私の意図する企画案の内容の本質を理解した。教育企画と銘打っても、内容は組織改革と販売戦略論なのである。勿論、プレゼンに一緒に参加した遠藤課長の立場を配慮することも忘れない。企画案は承認され、大幅な予算も認められた。
企画内容を少し説明しよう。企業が業績向上を図るためになすべき方向は4つに絞られる。1.商品の価値・2.価格戦略・3.販売戦略・4.サービス体制、の4つだ。1と2は、先に述べた商品戦略に含まれる。星川取締役が担当するのは、3と4の販売戦略になるだろう。
カントーの商品価値は知名度が低く、価格においても他社とそう差別化できているわけではない。特に、当時のオフコン市場は業務ソフト開発力が競争のポイントで、カントーが抱えるソフト開発力では大手オフコンメーカーとまともに競っても優位に立てるレベルではなかった。勢い、4番手5番手企業(オフコン市場においての意味)はすき間市場を狙うようになる。すなわち、業種に特化したソフト作りだ。カントーも営業推進部として、医療・福祉・ビデオレンタルその他、などのすき間市場をターゲットにしていた。
そして、販売戦略部門としてのオフコン機器事業本部の営業推進部のレベルは、私が今まで担当したコンピュータメーカーのどの会社よりも低レベルにあった。要するに、営業推進部のメンバーは単に、業務ソフトの説明屋であるだけなのだ。マーケット分析も販売手法も代理店政策も何もあったものではない。そしてそういう事態になっているのは理由があった。
カントーはオフコンを販売するに当たり、最初は既存の販売ルートを活用しようとしたが、電卓や時計、楽器などの販売ルートはせいぜいが街の文具店に毛が生えた程度の販売網しか作れなかった。次いで、多くの事務機器メーカーが行うように、メーカー直販を全国7ヶ所(札幌・仙台・東京・名古屋・大坂・広島・福岡)に設立した。その際に、外資系のオフコン営業マンを採用し各責任者に据えたのである。その外資系オフコンメーカーは一時、日本に進出して業績が低迷し、撤退したメーカーの営業マンであった。それをまとめて大量に採用した。オフコン販売のノウハウや人材がないカントーは手っ取り早く販売網を構築するためにそうしたのだが、そのことが後の禍根となる。
全国7ヶ所の販売責任者をオフコン事業本部がコントロール出来ないのだ。彼ら外資系出身社員はカントーの事業本部のメンバーをソフト開発から来た説明屋としてしか見なさず、そしてそれは当たっているのだが、販売戦略の本部として販売政策が打ち出されても、その意向を受け止めようとはしないのである。本部からの方針や戦略はことごとく無視される。あからさまではない場合でも自分たちの都合の良いように解釈するのだ。そのため、組織力は生きない。影響力の出せない販売本部と勝手気ままに動く実働部隊。これでは、激化するオフコン市場で生き残っていくことは到底無理な話であった。まさに、ドラッカーのマネジメント教本に出てくる機能不全の組織の見本のようであった。
私の企画のポイントとして挙げたことは、①オフコン事業部の各営業推進課の販売ノウハウの確立・②販売店営業マンの営業研修の充実・③販売店責任者(経営幹部も含む)のマネージャー教育、の3点であった。社内階層教育やユーザー教育は後回しとした。早く成果を出さないと企画そのものがつぶされる危険がある。
私は文字通り、身を粉にして本部の営業推進課の次長・課長クラスに働きかけ、販売マニュアルの見直しやセールストークの作成、販売事例研究など、販売会社なら当たり前の作業に取り組んだ。各営業推進部としては、協力してくれる分には有難いというスタンスだった。私の教育課と言う立場もそういった協力体制が取りやすい部署だったのだ。営業推進部の実態は、業務ソフトのバグの応対に追われていたという状況だった。メンバーがソフト開発部からの出身ということもあり、彼らが最も取り組みやすい作業に逃げ込んでいるという事情もある。彼らは、販売マニュアルの必要性を訴えても、一様に、忙しすぎてそこまで手が回らない、というのが口癖だった。それは口実に過ぎない。忙しくない部署はない。重要なことは、優先順位なのだ。課題が100あったなら、98番目に取り組むのではなく、1番目に取り組むのだ。そのことが多くのビジネスマンは分かっていない。如何に経営資源を投入するかが重要なのだ。
実際にカントーに勤務するまで1ヶ月ほどの休みがあった。私は、午前中に家事をして、午後からは麻雀やパチンコをして過ごした。1ヶ月が経過して、出社した先は、新宿の住友ビル20Fのカントー計算機オフコン機器事業本部の統括管理部という所だった。オフコンの販売部隊の管理業務部である。そこにオフコン教育課というのがあった。上司は、遠藤課長で教育課のメンバーは佐々川さん、郡司君がいた。私を含めて4人の課である。郡司君は、容姿端麗の性格の穏やかな青年だった。MC時代から担当としてしばしば会っていたので、気心が知れていた。メーカーの社員は高学歴が多く、良く言えば、上品でインテリジェンス、悪く言えば、世間知らずのお坊ちゃんという印象だった。ある意味、百戦錬磨で鍛えられた私にしてみれば、彼らをコントロールすることは容易なことだった。5年間のMC時代に私は、一定レベル以上の経営ノウハウ・マネジメントノウハウを身に付けていたと思う。
私には、心に秘めたある目的があった。お気に入りのMCを辞めたのは、最初に述べたように結婚を機に里心が付き、毎日、家に帰れる普通の社会人の生活をしたかったのが大きな理由だが、仕事の面では、自分のMCで培ったノウハウを1つの会社でじっくりと実践してみたいという気持ちがあった。コンサルタント業務をやっていると、相手のクライアント企業は、建前としてはこちらの指導に対して納得したような姿勢を示すが、本音の所では、そうは言っても、うちにはうちの個別事情がある、と反発や抵抗を持っている場合が多かった。理論と実践、基本と応用、という2つの概念の乖離は、指導する側はいつもぶつかる壁なのだ。勿論、当事者でないからこそ冷静に状況が判断でき、課題が明確につかめる場合も多いだろう。当事者の場合、立場による利害が判断の目を曇らせる可能性は大きいものだ。だからこそ私はあえて当事者になって、これまで身に付けた経営ノウハウやマネジメントノウハウを実践してみたかった。それが、カントーに転職したもう一つの大きな理由だったのだ。
初出社の朝礼で、皆の前で元気良く挨拶した。社員の人たちは皆、適度な距離を持って気持ちよく接してくれた。私は張り切っていた。佐々川さんや郡司君が色々と社風に馴染むように気を使ってくれた。カントーの社員たちは以前からMCを知っていたし、私に対しては一目置いていた。私は、MCのノウハウを駆使して色々とカントー内で改革を行っていこうと決意した。もし、大学を卒業してすぐにメーカーに勤務したなら、組織の改革など思いもつかなかったろう。経営コンサルタントの会社に勤務していたために私には組織内での自分の役割を改革者として自然に自覚していた。経営トップの意向を受けて、組織の活性化を図るのだ。そんなことを生え抜きのサラリーマンが思いつくはずが無い。私には、出世も保身もあまり関心が無く、ただ、MCで学んだ企業組織の改革のみが自分のビジネスマンとしての使命であり、価値観である、と信じていた。
そのことは、ある意味正しかったが、反面、MCそのものに内在する経営的な脆さを抱えていた。すなわち、MCはその企業のドメインとして集団性格の革新を掲げていた。企業本来の使命は業績向上による限りない存続であろう。そのことはMCもよく口にしていた。しかし、手段はしばしば目的化する。やがてMCが後年、衰退化を辿るようになったのは、企業本来の使命を蔑ろにして、業績を上げるための経営的な方針を時代の変化とともに適応することが出来なくなったからなのだ。MCの社員は内在的に業績よりも組織改革や人間的成長を主眼に行動するようになる。私もそうだった。私にしてみれば、メーカーであるカントーなどは、組織的完成度や社員の成長などは許しがたいレベルであった。
私はひたすらカントーの組織改革をありとあらゆる手段で推進していった。その意味では、私の関心は常に組織改革であり、社員の成長であった。確かに重要なことだが、そのことが目的化しては本末転倒である。どれほど組織改革がなされ、社員が成長しようとも、業績そのものにつながっていかなければ全ては意味が無いのだ。しかし、私はその時点ではそのことにまだ気が付いていなかった。
社内的な立場は一中途社員であるにも拘らず、経営コンサルタントの意識と態度をとっていた私にとっては、教育課のメンバーである佐々川や郡司は勿論、上司の遠藤さんや他の中間管理職でさえ相手では無かった。当然、表立って反感を受けるような愚かな真似はしない。あたかも、受講会社に組織改革を請け負ったかのような気持ちで腰を低く、組織改革の使命感を内に秘めながら、ひたすら改革の手を打って行ったのだ。
当時、カントーオフコン機器事業部は業績不振に喘いでいた。NECやIBM、富士通などがオフコン市場を独占していた。カントーは時計や電卓、楽器などは好調であったが、コンピューターは大手に比して遥かに出遅れていた。
私が入社した時と同じ時期に、星川取締役という事業部長が赴任してきた。これまで、どの事業部長が担当してもカントーのオフコン事業部は業績が思うように伸びなかった。星川取締役はカントーとして切り札として送り込んだ期待の取締役だったらしい。
星川取締役は誠実で真摯な取締役だった。オフコン事業部のメンバーの期待も大きいことがその人柄に触れて私も分かった。私にとってもチャンスだった。新しい事業部に着任した責任者は部隊の問題点を洗い出し、販売戦略を新たに打ち出していかなければならない。新しい企画を提案するには良いタイミングだったろう。企業は大きく分けてその戦略は、商品戦略と販売戦略に分かれるだろう。カントーのオフコンという商品戦略は、商品開発や製造部の役割である。星川取締役の管轄するオフコン機器事業本部は販売戦略を担当する部隊であった。販売戦略はMCの得意とする分野であったのだ。
私は、遠藤課長を説得して、星川取締役に組織改革計画案を教育企画として提出した。その内容は、①社内教育②販売店教育③ユーザー教育の3つに分かれ、社内教育は、階層教育と販売促進教育に分けて提案した。そのプレゼンテーションは成功だった。私の企画内容は、コンサルタントのプロが詳細に精査して1ヶ月以上もかけて作成した内容だったのだ。問題点の洗い出しから、課題の立案、解決策の具体案までページ数にして50枚にも及ぶ企画案は取締役に驚嘆の思いを持って受け入れられた。
私は、企画案をプレゼンする前は、取締役がこの内容を咀嚼できるかどうか心配な所もあった。それは決して、東証一部上場の取締役を軽く見ているというのではなく、専門的な経営理論のバックボーンが無ければ中々、私が提案した内容は理解しにくいのではないのか、と危惧したのだ。事実、MCで上場企業の役員のコンサルタントをしていても、意外と経験や勘に頼って、提案内容を机上の空論とみなす昔堅気の方々も多かったのだ。
星川取締役は私の意図する企画案の内容の本質を理解した。教育企画と銘打っても、内容は組織改革と販売戦略論なのである。勿論、プレゼンに一緒に参加した遠藤課長の立場を配慮することも忘れない。企画案は承認され、大幅な予算も認められた。
企画内容を少し説明しよう。企業が業績向上を図るためになすべき方向は4つに絞られる。1.商品の価値・2.価格戦略・3.販売戦略・4.サービス体制、の4つだ。1と2は、先に述べた商品戦略に含まれる。星川取締役が担当するのは、3と4の販売戦略になるだろう。
カントーの商品価値は知名度が低く、価格においても他社とそう差別化できているわけではない。特に、当時のオフコン市場は業務ソフト開発力が競争のポイントで、カントーが抱えるソフト開発力では大手オフコンメーカーとまともに競っても優位に立てるレベルではなかった。勢い、4番手5番手企業(オフコン市場においての意味)はすき間市場を狙うようになる。すなわち、業種に特化したソフト作りだ。カントーも営業推進部として、医療・福祉・ビデオレンタルその他、などのすき間市場をターゲットにしていた。
そして、販売戦略部門としてのオフコン機器事業本部の営業推進部のレベルは、私が今まで担当したコンピュータメーカーのどの会社よりも低レベルにあった。要するに、営業推進部のメンバーは単に、業務ソフトの説明屋であるだけなのだ。マーケット分析も販売手法も代理店政策も何もあったものではない。そしてそういう事態になっているのは理由があった。
カントーはオフコンを販売するに当たり、最初は既存の販売ルートを活用しようとしたが、電卓や時計、楽器などの販売ルートはせいぜいが街の文具店に毛が生えた程度の販売網しか作れなかった。次いで、多くの事務機器メーカーが行うように、メーカー直販を全国7ヶ所(札幌・仙台・東京・名古屋・大坂・広島・福岡)に設立した。その際に、外資系のオフコン営業マンを採用し各責任者に据えたのである。その外資系オフコンメーカーは一時、日本に進出して業績が低迷し、撤退したメーカーの営業マンであった。それをまとめて大量に採用した。オフコン販売のノウハウや人材がないカントーは手っ取り早く販売網を構築するためにそうしたのだが、そのことが後の禍根となる。
全国7ヶ所の販売責任者をオフコン事業本部がコントロール出来ないのだ。彼ら外資系出身社員はカントーの事業本部のメンバーをソフト開発から来た説明屋としてしか見なさず、そしてそれは当たっているのだが、販売戦略の本部として販売政策が打ち出されても、その意向を受け止めようとはしないのである。本部からの方針や戦略はことごとく無視される。あからさまではない場合でも自分たちの都合の良いように解釈するのだ。そのため、組織力は生きない。影響力の出せない販売本部と勝手気ままに動く実働部隊。これでは、激化するオフコン市場で生き残っていくことは到底無理な話であった。まさに、ドラッカーのマネジメント教本に出てくる機能不全の組織の見本のようであった。
私の企画のポイントとして挙げたことは、①オフコン事業部の各営業推進課の販売ノウハウの確立・②販売店営業マンの営業研修の充実・③販売店責任者(経営幹部も含む)のマネージャー教育、の3点であった。社内階層教育やユーザー教育は後回しとした。早く成果を出さないと企画そのものがつぶされる危険がある。
私は文字通り、身を粉にして本部の営業推進課の次長・課長クラスに働きかけ、販売マニュアルの見直しやセールストークの作成、販売事例研究など、販売会社なら当たり前の作業に取り組んだ。各営業推進部としては、協力してくれる分には有難いというスタンスだった。私の教育課と言う立場もそういった協力体制が取りやすい部署だったのだ。営業推進部の実態は、業務ソフトのバグの応対に追われていたという状況だった。メンバーがソフト開発部からの出身ということもあり、彼らが最も取り組みやすい作業に逃げ込んでいるという事情もある。彼らは、販売マニュアルの必要性を訴えても、一様に、忙しすぎてそこまで手が回らない、というのが口癖だった。それは口実に過ぎない。忙しくない部署はない。重要なことは、優先順位なのだ。課題が100あったなら、98番目に取り組むのではなく、1番目に取り組むのだ。そのことが多くのビジネスマンは分かっていない。如何に経営資源を投入するかが重要なのだ。