いつも練習していただいている方々にコートを開放して使用していただいた
いつもの公共のコートは雪に埋もれていたので3週間ぶりの集まりだったかな
皆楽しそうで よかったです
私がこのようにテニスができ、またレッスンもできるのは皆様のおかげ
お金には代えがたい時間を作っていただいております
ありがとうございます。
昨日も楽しくテニスができました~
本当の優しさ
テニスから戻りお散歩行き お家でipadにて世の中をサーフィン
その中に、救命救急の医師と消防隊員のやり取りした記事が目に入った
搬送された方が すでに亡くなっているということ
救命救急センターの医師は命を救うために待機し、行動を起こす
消防隊員は特別なことがない限り病院に搬送するという
医師は言う「明らかに死亡している方だ」消防隊員は「死亡という判断は特別な時」
意見が分かれる
消防隊員は心停止している方に救急治療を行う、死亡と認識していても
医師は亡くなっている方には何も施すことができない、処置のために数人の医師が関わっている間にも多数の患者が運び込まれてくる。一分一秒が勝負である
医師は言う 消防隊員の優しさだと
消防隊員は搬送されるご家族が泣き叫ぶのを見て病院に運ぶ
それが果たしてよいことなのか?という問いかけの記事
死亡と判っていてもご家族のために搬送を選ぶ優しさはどうなのか
本当の優しさは「結論がわかっていたら 冷静な判断」ではないかと
自分たちの世界にもある
「かわいそう」と思い取り繕ってその場をしのごうとする、またその場から逃げようとする
冷酷な通知かもしれないが、長引かせることがもっと残酷な時がある
ハッキリと「無理」というのが 優しさかもしれないと思った
自分を置き換えて 助けていただいた医師、救急隊員には感謝している
とぎれとぎれの意識の中 モニターに「ピー」という酸素濃度が図れなくなった音
医師が「そんなものはずせ」と怒涛
ここだけ 脳裏に残っている あとは知らない
それが現実
死んでいたかもしれない自分
もう一度 本当の優しさというものをどのようなことなのか考えてみよう
嫌われようが 「冷酷、冷淡」 は必要なんだと思う