#千葉ルー #済東鉄腸 先生のトークを引きずっているのでもう少し😅💦
千葉ルー本書にもトークにも出てきたシオラン(=チョラン)の話。
「反哲学者かつ反出生主義者」で「世界を呪い続けた凄まじい存在」※ と聞くと「…怖っ」となるけれど
「私たちは誰も彼も地獄の底にいる、一瞬一瞬が奇跡である地獄の底に」※
というシオランの言葉には
全く違和感なく「うんうん、そうだよね~」と納得します。
これ
仏教の四苦八苦、『この世はキホン全て地獄』という思想に通底するものがあるように思えますし。
ただ、「シャツのように絶望を取り替え」ながら※ 人生を送ったシオランのように生きることは、
私のような凡人には、実際とても難しい気がします(幸か不幸か)。
仮に今日は絶望のシャツを着ることができたとしても、明日はついつい希望のワンポイント入りを選んでしまう人が大勢ではないでしょうか。
絶望のシャツで生き抜いたシオランの強さ、確かに凄まじいものがありそうです。
さて、そんな絶望の極みを描き続けたシオラン作品から漂う「ギロチン台のユーモア」(絶望を突き詰めた先に湧き出してくるユーモア、とでも言い換えられましょうか?)、
トークショーでもそこに話が及びました。
それで思い出した作品があります。
都内の美術館で見つけた明治時代の作品
「地獄めぐり絵図」(絵・河鍋暁斎)
明治時代のお金持ち商人が、14歳で早世した娘の供養のため腕利きの絵師描かせた絵本。それを収める木箱もまた、別の絵師兼蒔絵師が丹念に仕上げた贅沢なものとなっています。
阿弥陀三尊が娘を迎えにくるところから始まるこの絵本。文章はありません。
てんやわんやで三途の川を渡り、
冥界ではお大師様やお地蔵様、お不動様や閻魔様まで加わって地獄見物ツアー敢行、亡くなった親族に会ったり、現地の芝居小屋で歌舞伎まで見物。
一行が天に到着して娘が如来となるまでの全四十図が並びます。
どれもものすごく細やかでカラフルで、何よりユーモラス。
地獄らしいグロテスクな描写もあれば
現地の住人たちが各々働いたり遊んだりする様子もダイナミックに、かつ繊細に描かれ、
そのカオスっぷりが実に愉快。
生命力に満ち溢れています。冥界なのに。
美しく、可愛らしく、恐ろしく、繊細に、そして「おもしろ可笑しく」作り上げられているけれど、
それにしても。
いつの時代も、子に先立たれる事ほどの真の地獄はないでしょう。
本を作らせたこの商人(勝田五兵衛という小間物問屋だそうです)だって例外ではなかったに違いありません。
悲しみと絶望がこの芸術に行き着くまでに、どれほどの苦闘があったことか。
この箱入り絵本の仕上がりの細やかさと美しさが際立つほど、その悲嘆もまた鋭敏に響く。
おもしろ可笑しい魅力に引き込まれるほどに、また悲しみにも思いを馳せずにはいられない。
そこにきてシオランの話。
絶望の先に湧くユーモア。
「地獄めぐり絵図」の方は幾分「慰め」的な要素があるとしても
どちらも、それぞれの悲嘆と、それが「ユーモア」に昇華されるまでの過程をあれこれ想像すること無しに味うことはできない…
…と、読書や作品鑑賞やトークショーの余韻にまたしつこく浸りながら、考えたり味わい直したりしております。
皆様ありがとうございます。
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いろいろなもの、こと、作品に出会い、圧倒され、感動し
いろいろな方に出会ってお話を聞いたりしていると
こうやって点と点がつながって予想もしなかった線がおぼろげながら浮かび上がってくることがあります。
それが実に楽しいし、それでまた感動します。
そして己の無知=世界の広大さに打ちのめされ、むしろワクワクして嬉しくなるのです。
そんな楽しい営みをこれからまだしばらく何とか続けていきたいと思います。
【地獄めぐり絵図】
明治生命館1階の静嘉堂文庫美術館、数ヶ月前の企画展で拝見しました。
絵・河鍋暁斎、木箱・柴田是真、
明治2~5年(1869~72)の作品。
三菱財閥の二代目・岩﨑弥之助(弥太郎の弟)のコレクションらしいので
また企画展などで展示されるのではないかな?と思います。
写真のレプリカは、ミュージアムショップで買いました。
展示の前で圧倒され「…これ、持ち帰りたい!」と思っていた私…まんまと購入。
時々開いて地獄を眺めております。
箱も本体も紙製。解説本付きです。
「※」を付けたシオランの言葉: 済東鉄腸先生の「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」(通称「千葉ルー」、左右社)で引用されているものです。


