忍城・御三階櫓は、明治6年に解体されたが昭和62年に再建。忍城の実質的な天守閣として機能していた。
写真右側は大手門。行田市郷土博物館も併設されている。忍藩は江戸時代には日光裏街道として水運
でも栄え、10万石を擁していた。埼玉県民の一部には馴染みの、うまい、うますぎる「十万石饅頭」は、
忍藩の石高が100,000石であったことが由来となっているとのことだ。
忍城(おしじょう)は、文明10年(1478)頃、成田顕泰により築城された
「守りやすく攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で、北条氏の居城である小田原城が
開城したので、後に忍城も開城に至ったが、忍城は石田光成による水攻めにも耐え、
この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称された。その名残となる「石田堤」が
市内に残されている。寛永16年(1739)時の老中・安部忠秋が入城し忍城大改修に着手、
孫の正武の代に至り忍上御三階櫓の建設城門土塀の修築などが完成し一新したという。
文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯が移封し忠誠のとき明治維新を迎えた。
市では維新後に取壊されていた城郭の面影を再建し、永く後世に伝えることになった。
明治4年(1871)7月の廃藩置県により忍藩はなくなり、忍県になりました。
同年11月には埼玉県に合同しましたが、忍県が置かれた4ヶ月の間、
忍城の二之丸にある殿様の住居が県庁にあてられていました。
本丸土塁。本丸西側を囲む土塁。旧状を良く残す南に二の丸西に土蔵曲輪と橋で結ばれていた。
写真右側は大手門。行田市郷土博物館も併設されている。忍藩は江戸時代には日光裏街道として水運
でも栄え、10万石を擁していた。埼玉県民の一部には馴染みの、うまい、うますぎる「十万石饅頭」は、
忍藩の石高が100,000石であったことが由来となっているとのことだ。
忍城(おしじょう)は、文明10年(1478)頃、成田顕泰により築城された
「守りやすく攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で、北条氏の居城である小田原城が
開城したので、後に忍城も開城に至ったが、忍城は石田光成による水攻めにも耐え、
この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称された。その名残となる「石田堤」が
市内に残されている。寛永16年(1739)時の老中・安部忠秋が入城し忍城大改修に着手、
孫の正武の代に至り忍上御三階櫓の建設城門土塀の修築などが完成し一新したという。
文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯が移封し忠誠のとき明治維新を迎えた。
市では維新後に取壊されていた城郭の面影を再建し、永く後世に伝えることになった。
明治4年(1871)7月の廃藩置県により忍藩はなくなり、忍県になりました。
同年11月には埼玉県に合同しましたが、忍県が置かれた4ヶ月の間、
忍城の二之丸にある殿様の住居が県庁にあてられていました。
本丸土塁。本丸西側を囲む土塁。旧状を良く残す南に二の丸西に土蔵曲輪と橋で結ばれていた。