所在地:埼玉県川口市金山町
川口神社はもと「氷川社」と称し、川口町の鎮守氏神として古くから領主・住民の崇敬厚く、
しばしば社殿の御造営や神宝の奉献があった。創祀についての記録は荒川の水害により
失われているが、天慶年間(西暦940年前後)足立郡司判官代武蔵武芝の創建とも伝へ、
暦応2年(1339)および天文4年(1535)の板碑、室町初期の古神像、江戸期の棟札数点等がある。
江戸時代には、川口は幕府の御料所となり、当社社地は除地(免税地=氷川免)と定められ、
氷川大明神と尊称した。徳川八大将軍吉宗公は、産米を増し飢饉を防止するため見沼を開発し、
見沼代用水路を完成させたが、芝川落口の門樋工事の際、幕府勘定役井澤弥惣兵衛為永の
配下杉島貞七郎保英は当社に工事成功を祈願し、無事に難工事を完成させた。
享保18年(1733)、この神恩に感謝して神前に奉納した神鏡は、現在市指定文化財となっている。
維新後の明治6年に村社に指定されたのち、町内の天神社、稲荷社(三社)、
金山社を合祀して、社名を「川口神社」に改めた。昭和に入って市政施工に伴い、
川口市の総鎮守として同十年県社に列せられた。
大東亜戦争後、神社本廳所属の宗教法人となり、中央・幸栄・並木地区十三町会の
氏子を始め、四十数万市民の崇敬を受けて今日に至っている。
川口神社はもと「氷川社」と称し、川口町の鎮守氏神として古くから領主・住民の崇敬厚く、
しばしば社殿の御造営や神宝の奉献があった。創祀についての記録は荒川の水害により
失われているが、天慶年間(西暦940年前後)足立郡司判官代武蔵武芝の創建とも伝へ、
暦応2年(1339)および天文4年(1535)の板碑、室町初期の古神像、江戸期の棟札数点等がある。
江戸時代には、川口は幕府の御料所となり、当社社地は除地(免税地=氷川免)と定められ、
氷川大明神と尊称した。徳川八大将軍吉宗公は、産米を増し飢饉を防止するため見沼を開発し、
見沼代用水路を完成させたが、芝川落口の門樋工事の際、幕府勘定役井澤弥惣兵衛為永の
配下杉島貞七郎保英は当社に工事成功を祈願し、無事に難工事を完成させた。
享保18年(1733)、この神恩に感謝して神前に奉納した神鏡は、現在市指定文化財となっている。
維新後の明治6年に村社に指定されたのち、町内の天神社、稲荷社(三社)、
金山社を合祀して、社名を「川口神社」に改めた。昭和に入って市政施工に伴い、
川口市の総鎮守として同十年県社に列せられた。
大東亜戦争後、神社本廳所属の宗教法人となり、中央・幸栄・並木地区十三町会の
氏子を始め、四十数万市民の崇敬を受けて今日に至っている。