所在地:埼玉県秩父市栃本1623
山梨県甲府市と埼玉県秩父市の県境に近い山腹にある栃本関跡。
江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取締まるため
主要な街道に関所を設けた。栃本関は、中山道と甲州街道の間近である
秩父住還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は
信州路と甲州路の分岐点になっている。
その始まりは、戦国時代、甲斐の武田信玄が秩父に進出したとき関所を置いて、
山中氏を任じたと伝えるが、徳川氏の関東入国以後は天領となり、関東郡代伊奈
忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで
藩士の職を代々務めた。しかし、藩士1名のみでは警備が手薄であったため、
寛永20年(1643)、秩父側の大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を
付設して警固を厳重にした。したがってその後、栃本関を通行の者で秩父側から
行く者は、まず麻生加番所で手形を示し印鑑を受けて栃本関に差出すことに
定められた。関所の役宅は、文政元年(1818)と文政六年(1823)の二度に
渡って焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後二階を建て増し
するなど改造されたが、玄関や上段の間、および外部の木柵などには、
関所の面影をよくとどめており、国指定史跡となっている。
山梨県甲府市と埼玉県秩父市の県境に近い山腹にある栃本関跡。
江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取締まるため
主要な街道に関所を設けた。栃本関は、中山道と甲州街道の間近である
秩父住還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は
信州路と甲州路の分岐点になっている。
その始まりは、戦国時代、甲斐の武田信玄が秩父に進出したとき関所を置いて、
山中氏を任じたと伝えるが、徳川氏の関東入国以後は天領となり、関東郡代伊奈
忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで
藩士の職を代々務めた。しかし、藩士1名のみでは警備が手薄であったため、
寛永20年(1643)、秩父側の大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を
付設して警固を厳重にした。したがってその後、栃本関を通行の者で秩父側から
行く者は、まず麻生加番所で手形を示し印鑑を受けて栃本関に差出すことに
定められた。関所の役宅は、文政元年(1818)と文政六年(1823)の二度に
渡って焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後二階を建て増し
するなど改造されたが、玄関や上段の間、および外部の木柵などには、
関所の面影をよくとどめており、国指定史跡となっている。