所在地:埼玉県川越市小仙波町5-4-7 浄土真宗本願寺派
光西寺は、永禄九年(1566)に、石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が
建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)
十代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を
行って、幕府の政策に違反した。ことは幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならば
御家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣の岡田頼母、松井図書の
二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。
家臣ともども光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。棚倉在住三十余年、維新の危機に
直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に
転封させ国内国外の重要政策の責任者とした。慶應二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに
川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。
その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に
現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで土族寺とかお供寺とか呼ばれている。
光西寺は、永禄九年(1566)に、石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が
建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)
十代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を
行って、幕府の政策に違反した。ことは幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならば
御家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣の岡田頼母、松井図書の
二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。
家臣ともども光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。棚倉在住三十余年、維新の危機に
直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に
転封させ国内国外の重要政策の責任者とした。慶應二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに
川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。
その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に
現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで土族寺とかお供寺とか呼ばれている。