【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

参拝者たち

2024年03月02日 | 歴史

  

 

 

<宮内庁のルール>

何度も、何度も、薬剤銃で撃たれて、皇居に拉致監禁されていた私が、とうとう怒り狂って「責任者を出せ!」と怒鳴ったら、宮内庁次官の羽毛田信吾が出て来た。長官の湯浅利夫のほうは、以前、彼が女性職員の一人と異常なほど接近した状態で話し込んでいる場面を私が目撃して以来、会っていない。さっさと任期を終えて天下って行きたい、というのが官僚の本音なのだろう。

その腹の内はどうであれ、ともかく自発的に問題処理のために現れた羽毛田に、私は早口で説明した。
「最初は雅子に発砲されて、次に久子に麻薬で襲われて、それから、明仁や寛仁にも毒ガスのような物を使われて・・・つまり、皇宮護衛官が薬剤を使って、私を拉致するんですよ」
羽毛田は聞き返した。「誰が拉致?」
「だから、最初は雅子の命令で皇宮護衛官が・・・それから明仁の命令で皇宮護衛官が・・・」
言葉が切れたところで、すかさず羽毛田が言った。
「助けられない」 
「何ですって?」

羽毛田はにんまり笑って、「助けて欲しいの? それじゃあ」と、突然、私の手を取った。
私のほうは、当然、相手の手を振り払って、傍にいた護衛官に「今、触ったわ」と訴えたが
餌付けされた番犬は「あいにく見ていませんでした」と、とぼけ、
言い争っている間に、広間が完全に真っ暗闇になってしまった。
自動防犯装置が作動したのである。

すると、羽毛田がまた私の下腹部を、正確にはズボンの上から性器を、撫でた。
「いったい、何なの! あなたは」 怒り心頭の私。
護衛官を振り返って「また触ったわ」と訴えてみたが、番犬はすまして「貴女が避けないからですよ」 
・・・「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話を聞いたのは、この後である。

 

 

 

 

<以下に、ノーパンしゃぶしゃぶ料理店の顧客名簿を転載させて頂きました。>

● 日銀  福井 俊彦 (副総裁) ←ここでは関係無いのですが。
      永島  旭 (理事)
      本間 忠世 (理事)
      米澤 潤一 (理事)

● 大蔵省
     橋口  収 (大蔵元次官)
     長岡  寛 (大蔵元次官)
     保田  博 (大蔵元次官)
     西垣  昭 (大蔵元次官)
     松尾 直良 (元関税局長)
     吉田 正輝 (元銀行局長)

● 厚生省
     山口 剛彦 (厚生次官)
     近藤 純五郎(厚生官房長)
     田中 泰弘 (厚生総務審議官)
     伊藤 雅治 (審議官)
     谷  修一 (健康政策局長)
     小島 比登志(総務課長)
     小林 秀資 (保健医療局長)
     木村 政之 (企画課長)
     小野 昭雄 (生活衛生局長)
     羽入 直方 (企画課長)
     宮島 俊彦 (指導課長)
     中西 明典 (医薬安全局長)
     吉武 民樹 (企画課長)
     鶴田 康則 (審査管理課長)
     安倍 道治 (安全対策課長)
     間杉  純 (監視指導課長)
     羽毛田 信吾(老保福祉局長) ←この人がそうです。
     水田 邦雄 (企画課長)
     江口 隆裕 (老人福祉振興課長)
     横田 吉男 (児童家庭局長)
     伍藤 忠春 (企画課長)
     渡辺 芳樹 (家庭福祉課長)
     畠山  博 (育成環境課長)
     小林 和弘 (保育課長)
     小田 清一 (母子保健課長)
     外口  崇 (血液対策課長)
     山本  章 (麻薬課長)
     高木 俊明 (保険局長)
     中村 秀一 (企画課長)
     霜鳥 一彦 (保険課長)
     矢野 朝水 (年金局長)
     紺矢 寛朗 (企画課長)
     大谷 泰夫 (年金課長)
     高橋 直人 (企業国民年金基金課長)
     塩田 幸雄 (資金管理課長)
     皆川 尚史 (運用指導課長)

     (以下略)  

 


 


芸者遊びにでもあるのだろうか、私が神経ガスを嗅がされて意識を無くしていた間に、鉢巻きの様な幅が細い布を腰の廻りに二重に巻かれて、ほどけないほどに固く結ばれていた。紐は腰肉に喰い込んで、下へ抜くこともできず、かと言って、腰骨に引っかかって上へも抜けず、もはや若くもない私の尻を分割して滑稽な図を作っていた。

気付くと、暗闇の中に、羽毛田が手に鋏を持って立っていて、「やって欲しい?」と私に訊くので、素直に頷いたら・・・
その鋏を、私の腰と喰い入っている紐の間に差し込もうとしたため、あまりの痛さに悲鳴をあげた。
すると、怒った羽毛田が鋏で私の尻を突いたのだ。

 

 

 

 

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<走る狗(いぬ)>

思い当るのは一つだけだ。最初に皇居へ拉致された時、私はまだ二歳だった。当然、オムツをしていたのである。
大抵の母親が子どもの排便に対して取る手段として、つまりオムツが濡れているかどうかを確かめるために、着物の裾をまくってお尻に手を当ててみる、という行為をするが、皇居で私の世話をしていた侍女らも、時間を見計らってはそうした。

しかし、問題は、侍女らが他の男児がいる前でも平気で私の着物をまくったことだ。その子供は私より幾つか年上だった。そして、私より天皇裕仁に近縁であるため、身分が高かった。世話係の女らがいなくなると、男児は私の着物の裾をまくり上げた。

 

以後、私は数えきれないほど皇居へ拉致されたが、その度に、皇宮警察護衛官に尻を撫でられた。
四、五歳の子どもであっても、そういった行為には性的な嫌らしさを感じ取るものだ。
ただし羞恥心はまだ無かったので、或る時、「何故、お尻に触るの?」と訊いてみると、「そう命令されている」と若い護衛官が答えた。そして、「他の子にも触っている」と付け足した。私以外の子供の尻も触っているから、公平だ、と言うのだ。

 

或る日、この「ごろつき」どもが四、五人、私の家へやって来て、戸が開け放された玄関先で、奥から出て来た私のスカートを捲り上げて、性器を撫でた。現在でも職場で新参者がよくやらされるゲームである。突撃して、女のアソコを触って来い・・・
北窓から、そっと表の道路を見ると、制服姿の男らが自動車に乗り込むところだった。一人が私に気がついて、笑いながら手を振った。

 

 

 

 

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<壺になった鶏>

昭和天皇裕仁の墓は円墳である。正確には「上円下方墳」と呼ぶのだそうだが、これは相撲の土俵のように、四角く土を盛った上に半球型の墳土を載せたものである。

ところが、本来はただの円墳のはずなのに、これを無理矢理「前方後円墳」に仕立てあげようとして、半球型に盛った墳墓の両側に小さな羽のような突起を付けた。それを、私が宮内庁で、「あの羽は要らないわね」とつい言い洩らしたら・・・ さっそく職員が鶏舎から白い鶏を一羽持って来て、その両翼を斬り落とした。

鶏は両肩の位置に翼の骨をわずかに残して、まるで首が長い白い壺のようになった。鳴いて暴れないのは麻酔が効いているからだろうが、黒い目玉だけがギロッとこちらを睨む様子は、生まれながらの奇形児を見る心持ちにさせられる。
こういった残虐な行為を、宮内庁は特に女に見せて悦ぶ傾向がある。動物の異様な形状と血の匂いが奴らを性的に興奮させるのだろう。

それでも鶏はまだ生きていたので、「ここで飼ってやればいいじゃないの」と私は言ってやった。
伊勢神宮のように、明仁もここで鶏を飼えば良い。逆らえば必ず報復して来る下衆どもだが、私は口を噤んでいられなかった。
すると、今度は、暗闇にトサカの大きな闘鶏用の雄鶏が一羽、放された。
(本当にまったく馬鹿げた話なのだが、この雄鶏が天皇明仁で、言うまでもないが、先に翼を斬られて奇形になった雌鶏が私である)

成長ホルモン剤を投与されて、驚くほど馬鹿でかく育ったその雄鶏は、この時、さらに興奮剤を打たれたのか、私を見ると羽を大きく拡げて襲いかかって来た。要するに、奇形の雌鶏がその何倍も大きい雄鶏によって強姦される、という構図だ。
そして、この騒動の後でめでたく雌鶏が産んだ臭くて生暖かい卵を、職員がわざわざ籠に入れて持って来て、その一個を、私の頬っぺたにくっ付けた。

 

 

 

 

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<厄災>

西暦2000年以前の話である。もしも、私が住んでいる地方に大地震が来たら、救助隊は直ぐに来てくれるかしら? と宮内庁職員に訊いたら、「一週間くらいは頑張っていただかなくては」と冷淡に言われた。その後、この話を聞いた明仁が「お見舞いに行くよ」と私に言った。被災して、生きているかどうかも判らない私のところへ、当然、生き残るつもりの明仁が見舞いに来ると言うのだ。

東日本大震災の直後に、地下の核シェルターで撮った明仁のビデオ・メッセージをテレビで放映していたが、イスラム過激派の首領のようで苦笑した。その地下室には、防災用品が完備されていると言うので、職員に案内されたことがある。壁いっぱいに、ワインの瓶が積まれてあった。案内した男は「そういう際にも、普段と変わらずお過ごし頂けるように、万全を期しています」と胸を張って言った。

明仁から見舞いの話が出たところで、傍にいた武官がすかさず「お礼を」と私に催促したので、「それじゃあ、見舞品はあの卵でいい」と答えた。ホルモン剤を投与して馬鹿でかく育った雄鶏と、虐待された雌鶏を交配させて産ませた卵である。
武官が変に間延びした声を張り上げた。「鶏卵を、お見舞いィ」

 

 

 

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<雨上がりの堤防>

あれは隅田川だったろうか・・・雨があがった後、皇宮護衛官に連れて行かれたことがあった。
車一台がやっと通れる幅の堤防の上へ、車ごと登って、水かさが増えた川を眺めた。
それから、いつもなら私だけが車から降ろされて、サリン弾を投げつけられるはずだったが、その日は護衛官が「これしかないな。逃げろ・・・」と言い、何のことだか判らなかったが、普段とは状況が違うのだと感じた私が走り出した直後に、金属の塊が背中に当たった。塊はそのまま地面を転がって、堤防の下方へ落ちて行った。私が近くの橋までの半分も行かないうちに、爆発音が鳴った。手榴弾だったのだ。堤防の下に建っている家の窓から中年の男が顔を出して、「何をやったんだ!」と私のほうへ怒鳴った。


半年くらい後、再び同じ場所へ、別の護衛官に連れて行かれた。堤防の下方には大きな窪みと亀裂ができていて、そこから染み出た水が細く流れていた。護衛官は視線を遠くへやって、「大雨が続いたから、上流のダムが放流するぞ」と言った。我々が急いで車に乗り込み、発車させる時、タイヤが滑って、堤防上部の盛土が崩れた。

 

 

 

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<神馬>

先祖が日本列島へ渡来した時、途中の朝鮮半島で馬が暴れて、船から落ちて溺死した。それで馬車を曳く馬がいないので、後代になって伊勢神宮に神馬が献上されるようになった。しかし、この神馬は、初めて知る人は驚愕するだろうが、実は宮内庁が飼っている乗馬用のもので、皇族どもがいい加減、尻に敷いて乗り回した末に、神宮へ払い下げになるのだ。

私が五歳くらいの時、神宮へ参拝に連れて行かれた際、神馬のうちの一頭はもうかなり老いぼれていた。すると、それを見た護衛官らが「片付けよう」と言い出したのだ。薬殺である。神宮の境内で、ヤクザのような風体の男数人が寄ってたかって、その老馬に毒入りの注射器を突き刺した。何とも表現しがたい断末魔が森の中に響いた。

しばらく経って、車馬課の職員が新しい献上馬を曳いて来た時、その後から、天皇裕仁が武官を従えてやって来た。
裕仁は厩舎に入れたばかりの神馬を再び引き出させて、自らそれに跨ると、参道の砂利を蹴散らして走り廻った。
おまけに、武官が馬の尻に下剤らしいものを打ったので、馬は暴れて、糞を撒き散らかした。

 

 

 


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<銀色の小魚>

中学生の時、すでに父が死んで母子家庭になっていた私の家に、バケツ一杯の、水銀に浸けられた大量の鯵か何かの小魚が届けられたことがある。

私が学校から帰ると、先に帰宅していた弟が「魚を貰った」と告げた。幼い妹が両手を広げて、「いっぱい」と嬉しそうに笑った。母は勤めに出ていて、子供だけの留守中だった。

バケツは暗い台所の土間に置かれて、窓から差し込む陽光が、銀色の水面をぬめりと照らしていた。
少量の水銀が土間にこぼれて、ガラスの宝石のように散らばっていた。
「きれい・・・」と私の背後で、妹がうっとりした声で言った。

 

 

 

補足) 水俣病: 水銀を海へ垂れ流すことに因って起きた公害病。

    江頭豊: ヤクザを雇って、水俣病被害者家族を恫喝し、殴る蹴るという暴力で追い払ったチッソの社長。

         ヤクザは最初、角材を使って殴っていたが、後に鉄パイプを使いだした。皇太子妃雅子の祖父である。

    ユージン・スミス: 

         米国人の報道カメラマン。水俣病を取材し、写真集を出版した。

         ヤクザに頭を殴られ、片目を失明した。

         小和田雅子が皇太子妃候補に挙がると、水俣病の写真集は、一時、日本中の書店から消えた。

 

 

 

 

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<雅子のどこが悪いんだね?>

・・・と小和田恒に訊かれた。機関銃のように、皇太子妃雅子が銃を撃ちまくって、それを林田東宮大夫が「ご病気でございます」と言った後のことだ。その数日後に、オランダで暮らしているはずの小和田が私を宮内庁へ呼び付けたのは、この狂乱を知らされて帰国したからではないのか? 自ら東宮御所へ行って、壁に開いた穴を数えたら良かろう。

 

 

 


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<Princess Masako>

麻薬ですか? ええ、雅子はマリファナをやっていましたよ。
それから、何か錠剤らしい物も飲んでいました。

いえ、その前にあった記者会見でも、彼女はこれ見よがしに何か飲んでいまして、報道関係者の一人がそれを「鬱病の薬」だと言ってましたが、しかし、私が見たのはどうも違うようでした。本人が「これも(飲んで)いいのよ」と意味不明な言動を発しておりましたことから、あれも麻薬の一種だったのではないかと思います。

ただ、何にしても、その後なんですが・・・水パイプと言うんでしょうか、阿片を吸う時に使うガラス器具があるでしょう、あれを私が監禁されている部屋へ持って来て・・・そのくせ、使い方が分からないと言って、私に訊くんです。
私も知りません。麻薬なんて、やりませんから。自分の身体が大事ですからね。

そうしたら、燃やしたのです。
私のほうはすでに薬剤銃で撃たれていたので、目がよく見えませんでしたが、部屋中に阿片の、あの独特な臭いが漂ったわけです。
それから、また私は毒ガスを嗅がされて、完全に盲目にされました。そして、唇に、ガラスのストローのような物が触れました。片手でそれを払い退けると、今度は、背けた頬を麻酔薬の注射針で刺されて、口が弛緩して開いたところに、そのガラス管を突っ込まれました。

 

雅子が、自分の胸の上部にできた「湿疹」を私に見せたのは、そのまた一週間くらい後のことです。
できていました。しかし、あれだけの麻薬をやれば、誰だって薬剤アレルギーになるんじゃないですか。
私にも出ているかと訊かれましたが、私は積極的に吸引したわけではないので、出ていませんでした。
そう答えたのですが、勘繰り深い雅子は私の衿元をめくって服でも脱がしたい様子でした。
まったく何もかも馬鹿馬鹿しい話です。


 

 


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<車椅子の男>

三笠宮寛仁に抱きつかれて、エイズを感染させられそうになった後、続いて、桂宮宜仁のところへ廻された。
宜仁は若い頃に怪我をして、車椅子を使っているが、部屋へ押し入れられた私を見ると、開口一番、「膝の上に乗れ」と言った。
(私は何も、遭遇した男がみな性的欲求を抑えきれなくなるほど魅力的というわけではないので、宜仁は女と見れば誰にでも「膝の上に乗れ」と言うのかも知れない)

私はここでもまた、私の常套句である「お前もエイズだろう。感染させたら殺してやる」と叫んだ。しかし、すぐに武官に神経薬を注射されて、下半身が麻痺してしまい、床に崩れたところを武官に抱えられて、車椅子に座っている宜仁の上に、横座りの状態で載せられた。そして、私が宜仁の上でもがいていると、ドアが開いて、奴に囲われている情婦がこの不倫現場(?)を目撃する、という低俗ドラマのような展開になった。


 

 


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<情婦>

夫も子供もいながら(後に離婚したが)、セックスを強要された男の世話をして暮らす女の気持は、私にはどうにも理解しがたい。

宜仁の上に載せられ、また、ずり降ろされた私は、その情婦によって再び神経薬を注射されて、下半身が完全に麻痺したために、脚をもがれた爬虫類のように床を這った。どうにか反転して頭だけを起こすことができたが、立ち上がれず、そのまま尻を中心にして、両手両足をくねくねと掻いた。

情婦はそれを眺めながら、笑って、宜仁と抱き合った。
欲情したらしい宜仁が女の体を引き寄せると、「後で」と女が答えたようだったから、後で性行為をしたのだろう。
宮内庁職員の男が「一緒にどうですか?」と私に三人セックスをさせようとしたが、かろうじて逃げ遂せた。

 

 

 

 

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<不法侵入・その1>

まだ高校生だった頃、朝の遅い時刻のこと、自分の部屋で寝ていたら、突然、男の声に起こされた。制服を着た若い皇宮警察護衛官だった。「お前、よくこんな所で寝ていられるな」と、その男は、布団から顔だけ出している私に言った。こんな所というのは、私の家が田舎の一軒家で、玄関に鍵はあるものの簡単に開いてしまう、それなのに年頃の娘がよくも一人で安穏に寝ていられるものだ、という意味らしい。

これは、私が二度目に天皇裕仁に拉致され、皇居の奥殿で、売春婦のような下着を着せられて写真を撮られたあげく、裕仁に強姦されそうになったが、運良く奴はすでに性的不能になっていたので、代りに一週間ほど麻薬漬けにされて弄ばれた後、ようやく自宅へ帰された翌朝のことだ。
しかし、私はもう小学生の時のように泣かなかった。とうに十三歳で裕仁に強姦され、その後、東久邇信彦にも強姦されていた。自分の体が精液にまみれた膣から裏返しにされたような感覚は、私の心を完全に破壊していた。

ただ、この日の朝、この見覚えの無い男が土足で家にあがり込んで来たことに、私は冷たい憎悪を抱いた。
私が暮らしていた家は、殺された父親が住宅公庫から金を借りて建てたものだったが、父が死んだ時、その三十四歳の命と引き換えに、妻と三人の子供に遺された唯一の物だった。私の唇は薄ら笑いで歪んだ。(実際、私は今にも奇声をあげて笑い出しそうな衝動を抑えられず、ちょっと咳込んだ)
すると、男のほうが、「よく平気だな」と怒った声で、また言った。

 

 

 

 

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<不法侵入・その2>

それから二十年以上が経った四十歳くらいの時、皇居で私に抱きついてきた三笠宮寛仁が、その後で私の家へ押し掛けて来た。

玄関の鍵はかけてあったが、皇居へ拉致された時、武官に鍵を取り上げられて、返されないままになっていたのだ。それを使って難なく開けられてしまった。

「入るぞ」と、寛仁はまるで妾の家へ来たかのようだった。たしか、引出しにあったカッタ―ナイフか何かで格闘して、追い出した。

 

 

 

 

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<新しいお墓>

燃やすことになったので、嬉しい。

 

 

 

 

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<エイズ同盟>

世の中に、「エイズ同盟」とでも言うような犯罪組織があるらしい。
HIVはもともと輸血で感染した人が多く、厚生省を相手に訴訟になっている病気だ。
しかし、これが感染を隠した上で性行為をし、故意による二次感染、三次感染となると、うつされた側は怒りの持って行き場が無い。
そこで、恨みは偶然出会った者に無差別に向けられる。こうして不幸な感染の連鎖が拡がって行くわけだ。

「僕もそうなんです」と、或る日、何の勘違いなのか、馴れ馴れしくエイズだと言う芸能人が私を訪ねて来た。