偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書290 生祠(茨城県行方市雁通川)

2024年05月17日 | 里山石神端書

行方市荒宿・嬪野神社の生祠

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出す雁通川周辺を訪ねました。

 嬪(よめ)野神社は山の上。神社を囲むようにいくつかの石祠がありました。
 そのなかで石祠の扉や柱に「殿様武運長久」銘が入るものが三基。もう一基は柱が欠けているが同じ銘があったとすると、「殿様武運長久」銘の石祠四基が神社を囲んでいることになります。石祠の形はいろいろで、「正徳元年(1711)」「享保十一年(1726)」銘もありますから、四基は個々に造立されたようです。ところで殿様とは誰のことでしょうか。


 江戸時代に行方を治めたのは麻生藩。藩主新庄氏は外様大名ながら、幕末まで代々麻生藩主を務めた一万石の家柄でした。推測ですが、嬪野神社の石祠にある殿様はこの新庄氏を指しているのではないでしょうか。
 推測ついでに、この四基を生祠(せいし)としました。生祠は生存中の人の徳を称えて造立した石祠。この国には生祠が多く、これをまとめたのが加藤玄智氏で『本邦生祠の研究』(注1)とう本があるほどです。関東で知られた生祠は埼玉県羽生市にある佐倉藩主の堀田氏を称えたもので、宝暦から安政(1751~1860)にかけて造立された10基が、『近世羽生郷土史 別巻』(注2)に報告されています。江戸時代の羽生は佐倉藩領でした。

 生祠は人物銘をいれた石祠ですから、殿様とした嬪野神社の石祠はその範疇に入ると判断して生祠として案内しました。
(注1)加藤玄智氏で『本邦生祠の研究』1931年、明治聖徳記念学会
(注2)『近世羽生郷土史 別巻』1986年、羽生市古文書に親しむ会
(地図は国土地理院ホームページより)

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