拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【上】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年12月24日 | ラーメン
-----改めて、近代食文化研究会様 の調査力と深い洞察力に敬意を表します。また、同会と連絡を取り合うきっかけとなったブログを書いた、株式会社ラーメンデータバンク取締役会長で、ラーメン評論家の大崎裕史氏に深く御礼申し上げます-----

☆と☆に囲まれた箇所は、事実を基にしたボクの創作である。

 『・・・ススキノの夜はふけるほどに、賑やかである。南五条西三丁目、ラーメン横丁の狭い通りには、ラーメン通たちでひしめいている。(中略)
 「どこで食べても同じようなものだから、オレはススキノじゃラーメンをたべないよ」。地元の食通はそんな風にもいう。地元の人にはちょっと飽きられたのだろうか。「ラーメンを食べたくなったら、旭川まで行っちゃうよ」と教えてくれる人がいた。「結構おいしいし、高速にのったらすぐだしさ」』
(安藤百福・編「日本めん百景」[1]より)

 札幌の人にとっては、地元のラーメンより旭川のラーメンのほうが魅力的なのだろうか。今からちょうど30年前、カップラーメンなどの生みの親・日清食品会長などを務めた安藤百福が書いた一文である。

 その旭川ラーメンの発祥は昭和22年。路面店の蜂屋と、屋台の引き売りから始まった青葉というのが定説なのだが、それはあくまで戦後のこと。

 『旭川で初めてメニューとしてラーメンが登場したのは、昭和初期だといわれており、そば店が、そばに加えてラーメンを提供していたという説と、中華料理店が提供していたという説があります』(旭川市広報誌「あさひばし」、2017=平成29=年11月号)


(旭川「らぅめん青葉」と醤油らぁめん。2021年8月撮影)

 もう少し、具体的に。

 『旭川で始めてラーメンが登場したのは昭和初期だといわれています。資料が不十分なため定説はありませんが、2つの有力な説が存在しています。
 1つは昭和11年(1936)、いまでも旭川の市街地に店をかまえるそば屋[2]、「8条はま長」の創業者である千葉力衛がお品書きにラーメンを載せて提供したのが最初という説です。(中略)開店と同時にメニューに取り入れました。麺は、縮れのないストレート麺。スープは鶏がらと昆布で取った簡単なもの』(原文ママ。旭川大雪観光文化検定公式テキストブック「旭川魅力発見伝」2011年版より)

 『説は2つある。1936(昭和11)年、いまも中心市街地に店を構える蕎麦屋「八條はま長」がお品書きにラーメンの名を載せた説。もう1つは、それより少し前に、札幌の中華料理店「竹家食堂」の旭川別店「芳蘭」が提供したという説である。だが双方とも、現在でいう旭川ラーメンの特徴を持つものではなかった』(「今日も旭(きょく)ラー あなたの食べたいラーメンがここにある」[3]。以下「旭ラー」という)

 以上のように、戦前の旭川のラーメンの発祥は中華料理店、日本蕎麦店の二つの説がある、とされている。

 中華料理店に関しては、「旭ラー」にあるように、札幌の竹家支店である旭川芳蘭、もしくは「支那料理広東軒」という店である。旭川芳蘭が昭和3年若しくは4年からラーメンを出したというのは、かなり信憑性の高い記録である。また、「中華料理広東軒」なる店がは昭和2年からラーメンを出したというWeb上の記述があるが、ボクは広東軒に関して情報を持ち合わせていないし、いろいろ調べたが広東軒に関するきちんとした記録は見つけられないため、本稿ではこの店については無視する。

 次に、日本蕎麦店というのはどこか。上記にあるように「八條は満長(はまちょう)」という店である。「はま長」という書き方も見受けられるが、正確には「は満長」が正しい。

 その前に、そもそも日本蕎麦屋でラーメン(支那そば、中華そば)を提供し始めたのはいつ頃のことなのか、そしてその理由は何なのか。色々調べたのだが、答えは出ない。ただ、以前淺草來々軒のことを調べていくうちに、加太こうじ[4]著「江戸のあじ東京の味」[5] に記述があるのを見つけた。


 
 1911(明治44)年、米ぬか中に脚気を予防する新規成分が存在することを示したという世界最初の論文が、鈴木梅太郎により東京化学会誌に掲載された。当時は成分の本体は解明できていなかったが、のち、これがビタミンB1の発見とされた。そしてそのビタミンB1は、豚肉に多く含まれていることが分かったのである。加太こうじはこの著作で、一片の豚肉とはいえ、ラーメンにチャーシューが載ったことで脚気に効くという評判になり、『客を取られた日本蕎麦屋が昭和十年ごろから中華そばを売るようになった』と書いている。

 脚気に関して言えば、江戸のころから「江戸煩い」と呼ばれた、ごく一般的な病気ではあった。農林水産省の公式サイト「明治150年 脚気の発生」[6]によれば、『明治時代に大流行した脚気は、長い間原因が解明されず、大正時代には結核と並んで2大国民病と言われるほどになり』、『脚気死亡患者は、明治末期から大正時代にかけてもっとも多く』なったという。

 脚気に効果があるという話はともかく、昭和10年ごろからという記述はいかがだろうか。大正半ばには淺草の來々軒、五十番といった店がたいそう評判になっていた。ボクは前々回のブログ[7]でも書いているが、浅草では西洋料理店やカフェなどが中華料理を提供し始め、関東大震災直後は『猫も杓子も西洋、支那料理を看板としてゐたものだった』(「淺草經濟学」[8])という状況になったのである。そしてラーメンの当時の呼び名は「支那蕎麦」である。小さなカフェですら支那蕎麦を出していたのだ。テイストは異なるとはいえ同じ「蕎麦」を商品として売る日本蕎麦屋が黙っているわけがない。かくして、大正末期には日本蕎麦屋も支那蕎麦を出す店が何軒も現れた、とボクは考えている。

※2021年9月2日追記 本稿をWEB上にUPしたのち、本稿内容の確認をお願いした近代食文化研究会様より、同会の著書「お好み焼きの物語」に記述があるとの指摘がございました。同書はボクも所持して拝読させていただいたおりましたが、当該部分の記憶が欠落していたようです。引用させていただきますが


 淺草經濟学(国立国会図書館デジタルコレクション より)
 
 これはもちろん浅草の話、ではある。しかし、当時の浅草は日本有数の繁華街であった。全国から多くの観光客が浅草にやって来ては、日本蕎麦屋で支那蕎麦を食べたことだろう。客はまた故郷に帰ってその話をする、あるいは観光客の中には日本蕎麦屋の経営者もいたはずだ。こうして、日本蕎麦屋で支那蕎麦を出す、ということが昭和の初めには全国に伝わったのではないかとボクは考えている。そう考えないと、これから書く話が成立しないのである。

 さて、ボクが旭川ラーメンの物語を書こうと思い立ったのは、その淺草にあった來々軒の物語を書く中で、伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)氏の著作「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」[9] を読んだからである。著作の中で著者は、旭川の「青葉」で食べた際『こりゃそばだしだと即座に思いました』と書いている。続けて飛騨高山の 豆天狗 本店 と まさごそば のスープにも触れ『そばだしそのものでした。このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』とした。

 ただしその理由については『日本人にとって醤油は郷愁の味と香りだからです』としか書いていない。ここでいう“東京の支那そば”とは、文脈からして淺草來々軒のことと思われるが、この理屈だと醤油スープのラーメンはすべて淺草來々軒の影響を受けていることになる。それはかなり乱暴ではあろう。ともあれ、ボクは高山に出かけて確認をしたのだが、ある事情(これはあとがきで書く)によって、旭川まで出かけ、確認しようと考えたである。そして、旭川ラーメン発祥二店説を知り、ついでに旭川の蕎麦屋の歴史を調べたのである。

 それはそれは、とても長い物語になった。本筋とは関連性はあまりないのだが、後半の部分で北海道の蕎麦屋がある役割を果たすことになるので、北海道蕎麦屋物語の簡略版を記す。簡略版ではないものはいずれ時間があれば書く機会があるかも知れない(おそらく、無くなった)。また、興味のない方は次章を飛ばして読んでいただいても構わないような構成にしてあるのでご自由に。

北海道蕎麦屋物語(戦前編簡略版)

 東京あたりに暮らしていると、北海道の蕎麦屋の歴史など知る由もないが、道内には「東家」という蕎麦屋の一大勢力があり、それはそもそも明治時代の、ごく初期に東京の「やぶ」蕎麦から始まったかも・・・ということを知った。「東家」という屋号の蕎麦屋、食べログで検索すると、北海道の現役店でゆうに40を超える。その系譜をたどるのには、エライ時間がかかりそうだが、とりあえず、太平洋戦争前までの歴史を中心に記す。

 まず、蕎麦の歴史の基本について。江戸のころから今のような“そば切り”という形で食されるようになったという日本蕎麦。やがて、江戸生まれの「藪」、信州の「更科」、大阪発祥の「砂場」の三系統が、いわゆる“蕎麦御三家” と呼ばれるようになる。

 そのうち「藪」そばは、最初、現在の淡路町あたりにあった蕎麦屋「蔦屋」の支店であり、団子坂(千駄木)の竹藪に囲まれていたことから通称「藪蕎麦」という店が始まりという。その「藪蕎麦」で働いていた伊藤文平という男が1874(明治7)年、小樽で夜啼き蕎麦「やまなか」あるいは「ヤマ中」を始めた、などとWikipediaに記載がある[10]。しかし。

 「伊藤文平が藪蕎麦で修行」という記述、実はWiki以外では見つからないのだ。Wikiにはその出典すら記載がない。Web上でそうした記載があるサイトやブログもあるがどれも出典や引用は示されておらず、おそらくはWikiが元ネタではないかと思われるのだ。中にはこんな記述さえある。


小樽の街並みと小樽駅。2021年8月撮影

 『時代は明治2年。幕末の混乱を逃れ、越前福井藩下級武士の伊藤文平一家は、北前舟の船底で耐えに耐え、食うや食わずで小樽港にたどり着く。何とかして家族を養わねば、ジキに酷しい冬がやってくる。文平は武士のプライドをかなぐり捨て、屋台の蕎麦屋で寝ずの商売に励み一家を養った・・・』(石神淳[11])。

 越前藩士であった伊藤文平が越前(福井)から直接小樽に渡ったという記述はほかにもある。信憑性はそちらのほうが高そうではあるが、それでも疑問はある。蕎麦を打ったことがある人はお分かりだろうが、ちょっと教わったくらいでは客に出せるようには到底不可能だ。
 ボクも何度か食べに行ったことのある葛飾区立石の蕎麦店「玄庵」[12]では、『江戸東京そばの会』として、そば打ち教室を開催している。そのうち、プロコースは1日6時間で20日間のコースである。これは“教室”であるから効率的に教えているのだろうから、実際に店を出すのであれば、もっと時間は必要であろう。伊藤文平が福井でどんな暮らしをしていたのか不明だが、全く経験がなく小樽に渡って屋台を引いたとは考えられない。また小樽にも当時は蕎麦屋はなかったであろう。ならば、東京の藪にいた、という可能性もないではない。時間が許せばもっと調べるのだが、今回は時間切れということでご容赦いただき、伊藤文平=藪蕎麦在籍説にはその信憑性に相当な疑問符を付けながら、Wikiの記述を肯定して話を進める。

 伊藤文平はやがて、屋号を「東家」と改称し店も構えることになる。この時期は1877(明治10)年とされるようだが、実際には特定できていないようである。また、伊藤文平が創業したのか、あるいはその子(伊藤竹次郎)なのかも判然としない。1897(明治30)年には「東家」と屋号を変えたものの、1902(明治35)年、伊藤家は小樽を去り、函館に移り住むことになった。小樽から函館、結構な距離があるのだが、この理由については「やまなか」あるいは「ヤマ中」が繁盛したことを聞きつけた郷里・福井の親戚らが聞きつけ、金をせびられたり、店に居座られたりで、小樽にいられなくなったという記録もある。

 話は変わる。松平家の家臣であった大山家にて1868(明治元)年、マキ、という女性が東京・麹町にて誕生した。マキ15歳の時には父母と死別したため叔父に引き取られる。この叔父、東京でただ一つの雇い人などを周旋する業者、当時でいう「人入業者」であり、その印半纏(しるしばんてん)は「丸南(〇の中に南が入る。まるみなみ)」であった。

 マキ19歳のとき、その叔父が死んだ。マキは叔母の世話でそば職人だった柘植春吉と見合い結婚をすることになる。春吉とマキは神田錦町に居を移し、蕎麦屋を営むのだが、間もなく失敗、春吉の知人を頼って函館に渡る。この頼った知人というのが柳川熊吉である。
 熊吉は浅草の料亭で生まれた。やがて箱館(函館)に行き、五稜郭築造工事に貢献、柳川鍋の商売を始めた。本名は野村姓であったのだが、箱館奉行から「柳川」と呼ばれていたため、改姓したという。

 1868(慶応4)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦い、世にいう箱館戦争、または五稜郭の戦いが勃発。このとき、幕府の海軍副総裁であった榎本武揚(たけあき)は、土方歳三らと五稜郭に立て籠もる。榎本は、箱館に将軍を迎えて北海道を開拓して新しい国を作ろうと考えたのだが、、新政府軍の攻撃を受け、降伏することとなる。

 敗れた旧幕府軍人の遺体は「賊軍の慰霊は不可」との命令で、市中に放置されたままになっていた。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は「死ねば皆、仏」と実行寺の日隆住職らと協力しと、数日間を掛けて遺体を集めては同寺に葬った。これが基で榎本は軍事裁判で死刑判決を受けることになったのだが、熊吉の侠気に感動した新政府軍の田島圭蔵の計らいで断罪を免れ、放免されたそうである。

 さて、東京で蕎麦屋経営に失敗した柘植春吉とマキ夫婦、柳川熊吉に頼み込み25円を借りた。当時の25円は、今の価値に直すと200万円ほどだ。その金でまた蕎麦屋を始める。これが丸南蕎麦屋の始まりである。時に1890(明治23)年、マキ23歳のころだ。丸南は今も営業中で、函館市内に支店が複数あり、Facebookには『江戸文化の流れを汲む老舗蕎麦屋』とも謡っている。

 今度は「藪蕎麦」で働いていた伊藤文平の話に戻る。小樽から函館に移った伊藤家は1902(明治35)年、その丸南蕎麦屋に奉公することになった。そして2年ののち、文平の子・竹次郎が函館松風町に東家を創業するも、1904(明治37)年、文平死去。さらに、1907(明治40)年8月に発生した函館大火にて店は全焼することになる。なお、このときの大火は33か町で焼失家屋約9,000戸、死者8人負傷者1,000人に上るという惨事であった。以後、竹次郎は表具師として生計を立てることになった。

 1912(明治45)年、伊藤竹次郎、今度は釧路の真砂町(現在の釧路市大町)にて東家を開業する。1923(大正12)年には釧路の店の新店舗が落成、延べ210坪の大店舗となる。竹次郎は釧路の春採湖畔に屋敷を建てて隠居するも、蕎麦作りが忘れられず、東家総本店として営業を開始。1932(昭和7)年に庭内を改装、竹老園と改称することとなった。

 竹次郎の妻は(佐藤)リツ、といった。東京に住んでいた佐藤家はリツを頼って釧路に移住、佐藤孫次郎が竹次郎のもとでそば作りの腕を磨き、1919(大正8)年に釧路市東部の春採に東家分店を開業。これが東家寿楽の始まりで、戦争でいったん途絶えたが、戦後札幌にて復活を果たしている。




 以上のように、明治初期に小樽から始まった北海道の蕎麦屋の歴史は、函館から釧路に向かい、戦争を挟んで札幌、帯広、苫小牧などに伝わっていく。無論北海道第二の都市となっている旭川にも出店を果たしている。様々な記録を辿っていくと、旭川への出店は次のとおりである。
 上記で触れた佐藤孫次郎の四男である重明が「旭川東家寿楽」を開業した。また1975(昭和50)年には「東家寿楽西武店」を開業した。「旭川東家寿楽」の開業年は分からない。しかし孫次郎の子は何人かいて、最も早く店を持ったのが三男・博行で、1952(昭和27)年札幌市中央区に「東家南19条店」を開店、とあるからそれよりは後と推測できる。なお「東家南19条店」は、2021年3月末、70年近くの歴史に終止符を打った。

 現在、旭川では重明の親戚筋らしい種市加代子が開いた「東家寿楽神居店」がある。もう一軒、旭川四条に「東家」という蕎麦店があるが、東家のれん会との関連は分からない。


現在の旭川駅前。2021年8月撮影。

 また、都内では、釧路「竹老園」で研鑽を積んだ主人が開業した「そばきり 東庵」(亀戸水神)があったのだが、2013年に閉店してしまっている。

札幌・竹家の大久夫妻も小樽から来た

 次に札幌・竹家について触れておこう。この店は1921(大正10)年、大久昌治・タツ夫妻によって、北海道大学正門前に「竹家食堂」として開業した店である。

 大久昌治・タツ夫妻は、現在の小樽駅と南小樽駅の中間にある花園町というところで、小判焼きの店を二年半ほど経営していた。その前は知床近くの斜里で木工場を営んでいた。

 幸い、小判焼きの店の経営は順調で、蓄財もできていた。しかし1920(大正9)年ごろから小樽の町には同業が増え、客が減り始めたのを機に、札幌に出ることにしたのだ。

 最初は竹家食堂という店だったが、1922(大正11)年に、シベリアのニコラエフスクから尼港事件の影響を受け来日した王文彩の手により “拉麺(ラーメン)”を出した。これが受けたのである。

 竹家は、支那そばという名が一般的だった品を初めてラーメンと呼んだ、という話も有名だが、これには相当の異論があって、きちんとまとめたサイト、“近代食文化研究会(以下「研究会」という)”のnoteであるが、これを紹介したい。末尾にURLを記載しておく。

 ところで、この店の成り立ちなどを調べていくと実に面白いことに気付くのである。旭川ラーメンの“源流”になるかも知れないので簡単に記す、と考えてある程度まとめたのだが、せっかく研究会がまとめたもの(note)があるので抜粋しておく。上記同様、URLは末尾を参照されたい。

 『長男のぼるの「札幌ラーメン竹家食堂発明説」を詳細に検討すると、やはり竹家食堂の札幌ラーメンのルーツは横浜/東京のラーメン(支那そば)にあるという結論にいきつくのです。大久昌治は、省力化を名目に王文彩の手延べ麺を廃止し、当時東京で流行していた広東式の切麺に切り替えたのです。王文彩が竹家食堂をやめると、肉絲麺は抜本的に変わります。変わったというか、肉絲麺が廃止され、当時東京ではやっていた支那そばに取って代わられます。スープも、鶏ガラの塩味から、東京や横浜の支那そば=豚骨を使った醤油味に変更となります。昌治は明確な意思を持って、肉絲麺の代わりに東京/横浜の支那そばを導入したのです』(注・長男「のぼる」の字は「陞」)。

 このように、竹家では王文彩の味から横浜や東京のラーメンの味に近づいて行ったのである。


札幌~旭川を結ぶ特急ライラック。2021年8月札幌駅にて撮影。


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[1] 「日本めん百景」 安藤百福・編、フーディアム・コミュニケーション発行。1991年9月刊。

[2] 今でも店を構える 「八條(8条)は満長」は2015年5月6日に閉店した。

[3] 「今日も旭ラー あなたの食べたいラーメンがここにある」 旭川大学経済学部江口ゼミナール・著、旭川印刷製本工業協同組合・発行。2015年3月刊。

[4] 加太 こうじ 1918年1月、浅草生まれ。1998年没。紙芝居「黄金バット」の作者。下町文化を伝える作家。晩年は日本福祉大学教授として大衆芸術をテーマに教鞭を取った(NHKアーカイブスなどより)。

[5] 「江戸のあじ東京の味(加太こうじ江戸東京誌)」 立風書房、1988年10月刊。

[6] 農林水産省公式サイト 脚気の発生 https://www.maff.go.jp/j/meiji150/eiyo/01.html

[7] 前々回のブログ 「淺草來々軒 偉大なる『町中華』」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3

[8] 「淺草經濟学」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[9] 「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」 安藤百福・監修、奥村彪生・著、角川ソフィア文庫。2017(平成29)年11月刊。当初は1998(平成10)年6月刊の「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」(フーディアムコミュニケーション発行)として発刊されたものを改題、文庫化したもの

[10]藪(そば) Wikipediaの藪 (蕎麦屋)の項。 https://ja.wikipedia.org/wiki/藪_(蕎麦屋)

[11] 石神淳 『知の木々舎』(立川市・代表 横幕玲子)が創る文化教養マガジン「ニッポン蕎麦紀行№2 [アーカイブ]~釧路の蕎麦は緑色・釧路市柏木町~」映像作家 石神淳、より

[12] 玄庵 東京都葛飾区東立石3-24-8。(公式サイトedotokyosoba.co.jp)