時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

赤ヘル慕情

2020年02月01日 | 時のつれづれ・如月 

多摩爺の「時のつれづれ(如月の1)」
赤ヘル慕情(カープに惚れて幾星霜)

今年もまた、2月1日がやってきた。
例年なら、前日の夕方から朝までのトップニュースは、プロ野球のキャンプインだが、
今年は残念ながら、中国発の新型コロナウィルスに席巻され、お情け程度の扱いになってしまった。

福岡ソフトバンクホークスの日本シリーズ優勝から4か月、新しい年が明けて1ヶ月
ニュースで取り上げられる枠が大きかろうと、小さかろうと
そんなことには関係なく2月1日になると、
プロ野球の12球団はキャンプインし、2ヶ月後には公式戦(ペナントレース)が始まる。

私の愛するカープは、昨年よもやのBクラスに甘んじ、悔しいというか消化不良に終わっている。
原因を探せばいろいろあるが、
やっぱり3番バッターの丸選手がフリーエージェントで抜けたショックに加え、
切り込み隊長の田中選手や、抑えの中﨑投手の大不振などだが、いつまでグズグズ云っても仕方ない。
気分を一新して、宮崎県日南市の天福球場でのスタートに期待しよう。

Bクラスの責任を取り、辞任した緒方前監督から、佐々岡新監督に代わって、
なんとなくだが・・・ 空気が変わったような気がしないでもない。

初仕事となったドラフト会議では、明治大学の黄金ルーキー・森下投手を一本釣りして、
強運ぶりを見せつけると、
懸案だったFA権を保有した3選手(菊地選手、會沢捕手、野村投手)が相次ぎ残留宣言するなど、
運のみならず、丁寧な交渉力でも・・・ 強さを見せてくれた。

そういったことから、期待が大きく膨らむ、2020年シーズンのカープだが、
ここで一つ、私が・・・ なぜ、ここまでカープが好きになったのか?
時計の針を約半世紀ほど巻き戻して、カープ愛、広島愛について、その解を深掘りしてみたい。

その謎(カープ愛)を紐解くキーは、昭和48年から59年までの10年間に凝縮されていた。
政令指定都市になって、既に30年超が経っていた中国地方最大の都市・広島

その広島に、私は約2週間の短期滞在と、
1年だけど家族と過ごした生活を併せて3度ほどお世話になった。

最初は短期で昭和48年・19歳になったばかりの夏、
約2週間の滞在だったが、社会人になって最初の研修だった。

朝から夕方まで真面目に机に向かい、会社の事業全般のあらましと、
これから携わる仕事のイロハを学んだ。

初めてネクタイを締めて、いささか緊張する研修ではあったが、

今となっては研修の中身よりも、同期のメンバーと夜な夜な繰り出した、
流川のネオンサインが思い出深い。
未成年の飲酒だが、既に時効が成立しているので・・・ ご容赦願いたい。

2度めの広島も短期で昭和50年の晩秋、社会人になって3年目が半分ぐらい過ぎたころ、

本人の希望や、会社の思惑などがあって、
そろそろ他の部署への異動の話が出てくるころを見計らって、

同期のメンバーが集まって、これまでの2年半を振り返る約2週間の研修に臨んでいた。

3度めの広島は昭和59年の春だった。

生まれ育ち、社会人の第一歩を踏み出した山口から異動を命ぜられ、
不安と希望が複雑に交差するなか、
生意気にも志だけは高く・・・ 新しい職場に着任した。

住まいは南区、職場は中区、行政区は違うが直線にすれば2キロ程度の距離だった。

その後、たった1年で関東への異動を命ぜられたこともあって、
広島の町を深く理解することは出来なかったが、
3度ともに共通する衝撃的な出会いがあり・・・ 
その出会いは、後の人生に大きな影響を与えた。

衝撃的な出会いとは・・・ カープ
プロ野球・セントラルリーグの名門球団「広島東洋カープ」である。

そのカープを中心に、くど過ぎるぐらいにくどく、広島での思い出を語ってみたい。

正直に言えば、初めて広島に行くまでは、熱狂的な虎キチの親父の影響もあって、

山口県人ではあるが、阪神タイガースのファンだった。
もう少し正確に言えば、セリーグは阪神で、
パリーグはお隣の福岡に本拠地を置く、西鉄ライオンズを贔屓にしていた。

ところが・・・ 昭和48年の夏(1度めの広島)

同期のメンバーと出かけた広島市民球場、広島対阪神戦で衝撃的な出会いに遭遇する。
同期のメンバーの配慮だと思って、ビジターの3塁側内野席に座った私は、
それが配慮でもなんでもなく、とんでもない勘違いだったことに直ぐに気がつく。

なんと市民球場の3塁側は、驚くほど大勢の広島ファンが占領し、阪神ファンはほんの一握り

阪神の攻撃の時には僅かながら声援はあるものの至って物静かだが、
広島の攻撃になった途端に球場内は一変する。

鉦や太鼓に加えて、大きな旗までがうち振られ、それはもう・・・ 大騒ぎである。

阪神はビジターなので、そこそこアウェイだと思っていたが、そこそこどころか・・・ かなり、
かなりどころか・・・ ほとんど、
3塁側であるにも拘わらず、カープファンが埋め尽くしているのだ。

広島出身の同期は言った。
カープファンのツウは・・・ 3塁側に座る。

3塁側からだと、1塁側のカープのベンチがよく見えるからと言い、
さらに付け加えて、
1塁側に陣取ったオッサン達が発する巧みなヤジが、
まともに聞こえるから面白いと言った。

即座に切り返した。

3塁側だとタイガースファンのヤジで、カープの声援はかき消されるのでは・・・ ?
すると、同期もすかさず切り返す。

「ここは広島じゃけぇのぉ・・・」

「そんな勇気のある奴はおらんし、そんな無謀なことはせんじゃろぉぉ・・・ 」

明確である。

あまりにも的を射た力強い回答であった。
その言葉の心は、みなまで言わずとも、意図することは直ぐに分かった。

時はヤクザ映画の全盛期、広島を舞台にした「仁義なき戦い」が空前絶後の大ヒットをしていた。

ふと我に戻って耳を澄ませば、周りの人はみな映画と同じ言葉を喋っている。
これはホントに・・・ 衝撃だった。

もとい、誤解を招くのでキチンと訂正しておこう。

球場で観戦している方々は、けっしてその筋の方ではない。
ネクタイを締めてビール片手に唾を飛ばしながら広島弁を捲し立てる、
どこにでもいる普通のサラリーマンである。


しかし、周囲にいる男性も女性も、お年寄りも子供達もみな、同じ口調なのには驚く。
(当たり前のことだけど)

これは凄い。

言葉そのものにフォーカスすれば、それはもう脅しと言っても過言ではない。
明らかに殺気が漲るような口調ではあるが、
メチャメチャ気合が入り、恐ろしいくらいに試合にのめり込んで応援しているのだ。
本当に凄い。

さらに、ただの酔っ払いと思えば、それだけのことだが、

本能のままに軽快なテンポで口走るオッサンの、野球とは無関係なヤジがあまりに見事で、
つい笑ってしまう。

「おぉぉ・・・ い、コージ(山本浩二選手)、昨日流川で呑んどったろぉがぁ。」

「はよぉ帰らんけぇみぃ、バットにボールが当たらんじゃろぉがぁぁ。」
「のぉぉ・・・ コージ、今晩もまた呑みに行くんかぁ。」
「悪いことぁ言わんけぇ、今晩はやめとけ、明日も試合があるんじゃけぇ。」

なんだ、なんだ、この応援は・・・ 野球とは全く関係ない。

何の意味があるかは不明だが、つい笑ってしまうどころか、笑い転げてしまう。

お前は、親戚のオッサンか? みたいな口調がスタンドの爆笑を誘う。

そんな天才的な話術の持ち主が、広島市民球場にはホントにホントにたくさんいたのだ。

ここは野球場なのに、どこかの演芸場にいるかのような錯覚すら覚えてしまう。

さらには、球場内にサバの缶詰とワンカップを持ち込み、
濃すぎる臭いを漂わせながら、ワンカップをぐびぐび飲んでるオヤジが普通にいた。

この光景には、もはや凄いという言葉だけでは片づけられない。
感動、そう・・・ 感動なのである。

この年はON引き入る巨人が9連覇を果たしたが、
カープは最下位だったものの、前半を2位で折り返す大健闘

しかも・・・ 首位巨人と最下位広島との差は僅かに6ゲーム(記憶が正しければ)

近い将来、何かが起るかもしれない。

そんな気配を感じるシーズンだと思ったのは、カープファンでも一握りだったのではなかろうか。

昭和50年の晩秋、2度目に訪れた広島でもカープは衝撃を与えてくれた。

まてまて、カープの前に触れておかなければならないことが一つある。

それは・・・ 新幹線

東京オリンピックのあった昭和39年に、東京と大阪の間で開通した新幹線は、
その後、岡山で足踏みしていたが、昭和50年の晩秋には、九州の博多まで開通していた。

「ひかり」なら1時間で広島に行けるが、
残念ながら山口に「ひかり」は止まらず、止まるのは各駅停車の「こだま」だけ

にも拘わらず新幹線の駅が5つもあるから・・・ まさに「我田引鉄」、政治力は恐ろしい。
2年前は山陽本線を走る特急に乗って3時間もかかったのに、
時代は超ハイスピードで進化を遂げていた。

カープは弱かった。

正直言って、本当に弱かった。
球団が創設されて既に25年が経つが、3位以上のAクラスになったのは3位が1度きり、
所謂Bクラスの常連であった。

そんなカープが紺地に広島の頭文字「H」の地味な帽子を、
赤地にカープの頭文字「C」のド派手な帽子に変え、

赤ヘル軍団という異名をいただいたこの年、
なんと、なんと、なんと・・・ 悲願の初優勝を果たしていたのだ。

誰が軍団と名付けたかは知らない。

弱ければ、恥ずかしくて軍団などとは名乗ることは出来ないのだが、
優勝してしまうと、ピッタリ、しっくりと来るんだから不思議なものである。

何気に感じた2年前の予感が、当たったことにもビックリだが、正直なことを言えば半信半疑で、
まさか、ホントに優勝するとは思ってもなかった。

所謂、なんちゃってカープファンだった私の心の中で・・・ 何かが変わリ始めていた。

それは、正真正銘のカープファンの仲間入りをさせていただいたことだろう。

以来40数年、勝っても負けても、負けても負けても、負けても負けても・・・ 
赤ヘルに惚れ続けている。

もちろん、日本シリーズも勝ってほしかったが・・・

パリーグの覇者・阪急ブレーブスには、山口高志という新幹線より速いボールを投げる投手がいて、
粘りはしたものの2分けがやっと、あえなく2分け4敗という惨敗を喫してしまう。
悔しくもあり、残念でもあったが・・・ また新しい高い目標が出来たと思えば、
初優勝したのに贅沢は言えない。

この年、広島に来たのは晩秋だったので、野球シーズンは既に終わっていたが、
町の活気に驚かされた記憶がある。

2年前に来た時は、市民球場の横を流れる元安川沿いにバラック建ての家屋が相当数で林立していた。

不適切な言葉で申し訳ないが、周囲の人々から「原爆スラム」と呼ばれていた質素な家屋は、
未だに残っていたものの、
たった2年の間に、その数は驚くほど少なくなり、
市民球場の北に高層アパート群の建設が進んでいた。

町には、赤い帽子を被った子供たちが元気よく遊んでいた。

昭和50年は、いみじくも原爆を投下されて30年目の節目だった。
何かが、どう変わったと・・・ 適切に言うことは出来ないが、帽子の色が変わっただけで目立つし、
何より元気で、強そうに見えるから不思議なものである。

それはカープ効果だろう。

間違いなくカープ効果だと思う。
子供たちに言わせれば、単にカープが好きなだけ、大げさに言えばカープ愛になるが、
この町の生活の一部に、カープという存在が大きなウェイトを占めてることを、
改めて認識させられたのであった。

この年の晩秋に行われたプロ野球ドラフト会議では、

初優勝を牽引した外木場投手(鹿児島・出水高~電電九州)の後を継ぎ、
後に200勝を挙げて名球会入りした北別府投手(宮崎・都城農高)が入団していた。

さらに・・・ 今でこそ、カープの「山本」といえば、
「コージ」の愛称で人気を博した
山本浩二選手(広島・廿日市高~法政大)だが、

本家本元の「山本」は、「カズヨシ」こと、山本一義選手(広島商~法政大)だった。
カープ一筋の大打者・山本一義選手は、
この年惜しまれながらも15年の現役生活にピリオドを打っている。

唯一残念なことがあったとすれば、弱かった時のカープを支えてきた安仁屋投手が、

前年に、阪神の若生投手とトレードされ、この年の歓喜のマウンドに居なかったことだろう。
後にカープに復帰して、巨人キラーとして大活躍したのだが、
初優勝した年に居なかったことは残念で堪らない。

3度目の広島は昭和59年だが、
その前に昭和54年11月4日(日)の出来事にも触れておかねばならない。

この日は義妹の結婚式に出席するため、前日から名古屋に居た。
まさに結婚披露宴の真っ最中、
トイレに行くため席を立った私の目の前にロビーのテレビ映像が飛び込んできた。

カープとバファローズが対戦するプロ野球日本シリーズの第7戦

どちらが勝っても悲願の日本一を達成する大事な試合、
場面は9回の裏、得点は4対3でカープが1点をリードし、
マウンドには絶対的な守護神の江夏豊投手が居る。

よっしゃぁ・・・ もろおた。

そう思ってトイレから戻ってくると・・・ ノーアウト満塁
用を足し、鏡を見てネクタイを直し、髪の乱れをちょいと水で直してくる間に、
いったい何があったのだ。

いやいや、そんなことはどうでも良い。

どうやって凌ぐか。
問題は・・・ それだけだ。

ここでバファローズは、左殺しの異名持つ佐々木選手を代打で送ってきた。

3塁線へ強く際どい当たりを打たれ、万事休すと思われたが・・・ 判定はファール
まだ運がある、天はまだカープを見離してない。

江夏投手は、ツーボールツーストライクから変化球で佐々木選手を三振に取り、ワンアウト満塁

バッターは石渡選手、ここでバッファローズはスクイズを仕掛けてくるが、
江夏と水沼のバッテリーが冷静に外して、3本間に走者を挟みタッチアウト
しかしまだツーアウト23塁、
一打サヨナラのピンチに変わりはないが、
石渡選手を空振りの三振に打ち取り試合終了

ついにカープは・・・ 悲願の日本一を達成する。

後に江夏の21球と言われる場面を、途中からではあったが見逃すことなく
ドラゴンズの本拠地・名古屋で観戦することが出来たのもまた、強烈過ぎる思い出だろう。

ホッとする間もなく急いで宴会場に戻ると、
会場の入り口にはキャンドルサービスに向かおうする新郎新婦が居た。


危なくメインイベントに穴を空けるところだったが・・・ 辛うじてセーフ

そんなグッドタイミングの出来事も、カープとの出会いの一つとして、
記憶の引き出しに整理されている。

昭和59年3月、人事異動で大好きなカープの本拠地・広島にやって来た。
カープを意識し始めたころから、既に約10年の歳月が経っている。

弱かったカープは打って変わって、今や毎年のように優勝戦線を賑わすチームに変貌していた。

投手陣は、北別府、山根、大野、川口が先発ローテーション、抑えは小林

守る野手陣はセカンドを木下と、名前を忘れちゃったが外国人が二人で守っていたが、
キャッチャー達川を筆頭に、内野はファースト小早川、ショート高橋、サード衣笠、
外野はレフト山本、センター長島、ライト山崎の純国産

広島の凄いのは、このメンバーのうち達川(広島商)、山本(廿日市)、山崎(崇徳)の3人が
広島の高校出身、
さらに高校は大阪のPL学園だったが小早川も出身は広島であり、
投手を除くレギュラーの半分が地元の出身だった。

つまり・・・ なんだ。

スタンドでも、ベンチでも、グラウンドでも、恐ろしいことに広島弁が公用語なのである。

ついでにもっと掘り下げれば、投手陣の山根は岡山県、
大野は島根県、川口は鳥取県、小林は広島県(広島工)の出身

つまり投手陣を加えれば・・・ 中国地方の出身者が9人中5人を占めている。

もう一つ忘れてはならないのは、このシーズンの活躍はなかったが、

後に炎のストッパーのニックネームとともに、血行障害から復活したものの脳腫瘍を患い、
32歳で急逝した山口県出身の津田投手も、このシーズンのベンチに座っていた。

この年のカープは、外国人レギュラーが1人居たので、純国産チームとはいえないが、

ほぼ国産であったことは間違いなく、半分が地元出身者のチームであったことを忘れてはならない。

カープは、地元の野球小僧たちの憧れだが、

その憧れが現実となりそうなイメージが、このチームには出来上がっていたのであった。
いわゆる東京や大阪、名古屋のような大都市圏のスマートなチームとは一味違った、
地域が育て、地域を発展させる地域密着型のチームが・・・ 円熟期を迎えようとしていた。

この年のカープは、序盤から着実に勝ち星を積み重ね続け、

終わってみれば75勝で、これまでのシーズン最多勝を更新していた。
日本シリーズは、昭和50年に1勝も出来なかった宿敵の阪急を破り3度目の日本一となっている。

セリーグを制覇したのは・・・ 記憶が確かなら、横浜スタジアムだったと思う。

職場で仲間とともにテレビ観戦していたが、ゲームセットとともにバンザイ、バンザイの大合唱
缶ビールで軽く乾杯した後は、本通りから中の棚のアーケード街に繰り出し、
店々が振る舞う一斗樽を、しこたまゴチになったが、祝賀の勢いは全く持って止まることを知らない。

カープ、カープと歌いながら、職場の仲間とともに流川を梯子して飲み歩き

馴染みのスナックでは、マイクを回しながらご当地ソング「広島天国」の大合唱
〆はお好み村で、広島風のそば入りお好み焼きを食べながら・・・ またビールを飲む。

今でこそ、お好み村は鉄筋のビルだが、当時のお好み村はプレハブのようなビルだった。

困ったことにトイレがなく、用を足したくなったら、目の前の公園の公衆トイレに駆け込むのが常で、
それが当たり前だったら、たいして気にもならなかった。

いやぁぁ・・・ 楽しかった。

もう40年以上も昔のことになのに、鮮明に覚えているのだから、本当に衝撃的で本当に楽しかった。

翌年には関東へ異動となり、巨人やヤクルトの優勝を何度も目にしているが、

町をあげて喜び、町をあげて騒ぎ、大の大人が思いっきりバカになっている光景は見たことがない。
大阪や名古屋も似たような町かもしれないが、とにかく広島の盛り上がりは凄かった。

少なからず、飲みすぎた酔っ払いは居たし、目を瞑らなきゃならない面々も居るには居たが、

地元チームの優勝に、みなが歓喜し、みなが歓声をあげる光景は、
サッカー好きの若者が、渋谷の駅前でバカ騒ぎするのとは質も熱も違っている。

所謂・・・ 大人の羽目の外し方の模範のような節度と良識が、広島には潜在的にあり、

こういったタイミングで、町の彼方此方で顕在化するのである。

あれから既に・・・ 30年以上の歳月が流れた。

つらつら振り返るに、カープ以外の球団に、兄貴(金本知憲選手)と呼ばれ、
慕われる選手はいただろうか?


くれぐれも申し上げておくが、彼はタイガースに行ってから兄貴になったのではない。

カープの兄貴が、大阪の球団に行って、ちょっと助太刀しただけなのである。

また、カープ以外の球団に、鉄人(衣笠祥雄選手)と呼ばれ、
国民栄誉賞をいただいた選手はいただろうか?

確かにONは凄い選手だったと思うし、国民栄誉賞も当たり前だと思う。
だが・・・ 真面目にコツコツ試合に出続けたことで、国民栄誉賞を貰った選手は見当たらない。

さらに、カープ以外の球団に、あれほど話術に長け、腹の底から笑わせてくれた捕手(達川光男選手)はいただろうか?


中日の宇野選手の、おでこキャッチには、一本取られた感はあるが、

「プロ野球好プレー珍プレー大賞」で、毎年のように不動のレギュラーを張り続け、
プレーでも、口でも、仕草でも、
プロ野球ファンを魅了し続けたのは達川捕手だけではなかろうか。

フリーエージェントという金持ち優遇の制度がなければ、
カープを出ていく選手は居なかったと思うが、

これも、みなで決めたルールだから仕方ないし、いささか辛いが従わねばならない。

出る者は追わない主義を、これまでも、これからも潔く貫き通す。

選手の評価は年俸だから・・・ 出来ることなら、お金を出してあげたい。
でも・・・ 無い袖は振れない。
これがカープなんだから、ファンも潔く納得するしかない。(正直、ホントに辛い。)

フリーエージェントでの流出は確かに痛手ではあるが、一方で若い選手にはチャンスでもある。

ここ数年のカープは新陳代謝を繰り返し、
力不足に陥った時期もあるにはあったが・・・ 愚痴は言わない。

カープに惚れて40年の歳月が流れ、時代は昭和から平成へと変わり、そして令和の世となった。

21世紀に入って早や20年が経つ。

昭和のカープ、それは皆が憧れた地域のヒーローだった。

平成のカープ、黄金期が過ぎ、フリーエージェントなどで主力が抜け、停滞期が続いたものの、
新球場(マツダスタジアム)の完成を境に、若手の台頭などもあって再び強いカープが戻ってきた。
令和のカープ、願いは一つ・・・ 常勝軍団(ただ、それあるのみ。)

瀬戸内の貧乏球団だったカープから、侍ジャパンのユニフォームを着て4番を務める選手が出てきた。
また、侍ジャパンに欠かすことが出来ない守備の達人(いまや職人とは言わせない)もいる。

心配なのは・・・ ここに来て黄金期を支えた往年の名選手の体に異変が生じていることだろう。
昨年は、春先に山本浩二さんが体調不良で解説を休んだり、
今年に入ってからは、北別府学さんが「成人T細胞白血病」を発表されており心配が尽きない。

一日も早く回復されることを願うとともに、一日も早く解説に復帰してほしい。
カープのレジェンドたちが、カープ愛を名調子で吠えまくる実況を、もう少し長く聞かせてほしい。
「病魔に負けずガンバレ!」とエールを送らせてもらいたい。

遡ること75年(昭和20年8月)、ペンペン草の一つまで焼き尽くされ、焦土と化してしまった広島
その町で誕生した、愛してやまない市民球団・・・ 広島東洋カープ

これから先、私の人生が何年あるか分からないが、心に強く刻まれたカープという郷愁は、
認知症にでもならない限り、消えることはないだろう。

さぁ、2020年シーズンが始まった。
ガンバレ! カープ


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