つらつら日暮らし

憲法という語

今日5月3日は「憲法記念日」であります。現在の『日本国憲法』が施行された日だということで、この日が充てられております。多分にほとんどの人は、ゴールデン・ウィークの連休くらいにしか思っていない可能性もありますけれども。。。拙僧も、こんなブログをやってなければ、あっさりとスルーしていたことでしょうが、とりあえずブログしている以上は記事にしていきましょう。

まぁ、最近ではいわゆる「改憲問題」などがあって世俗的には喧しい議論が続いているようですが、拙僧的にはそれに踏み込んでも、あまり意味は無いので、少し変わった視点から今日の憲法記念日を祝してみたいと思います。なお「祝す」ということに違和感を感じた方はいますでしょうか?一応、今日は「祝日」ですので、どうぞお間違いの無いように・・・

【憲法という語 中国篇】

このブログでも【お墓こぼれ話】などで採り上げた法学者の穂積陳重博士には『続・法窓夜話』(岩波文庫)という、法律全般に関する「トリビア」が満載の著作があります。拙僧の手元には、その前編に当たる『法窓夜話』(岩波文庫)もありますが、その『続』の方に本ログの題名に使った「憲法という語」という一文が収録されております(『法窓夜話』にも、ほぼ同趣旨の「憲法」という文章がある)。内容は、「憲法」という語を巡っての文章で、それこそ出典などを丹念に調べているものであります。

穂積博士は「憲法」という言葉について、最初の出典を中国春秋時代に編集された斉の管仲(?~前六四五。桓公を覇者にした)の語録である『管子』(富民・治国・敬神など、春秋時代に必要とされている方法を挙げて解説している)に見ていきます。

有金城之守、故能定宗廟、育男女矣、有一体之治、故能出号令、明憲法矣。
   穂積博士前掲同著、24頁


そこで、この一文を見るに付け、治者の号令をもって、憲法としていることが明らかになります。なお、穂積博士によれば、ここでの「憲」も「法」も、少なくとも中国の古典からすれば同義であるとされる一方で、音通(音が同じなら別の漢字の意味も付加すること)によって「懸法」とも通じていくとされます。この場合は、「法を懸ける」という意味で、法律の条文を書いた板というか木簡を中国の都市の壁に懸けておくことです。このようにして、法を広く万民に知らしめようとしたことが、多くの史伝で確認できるとされます。

さらには、音通で「顕法」にも通じていくとされています。この場合には、「著しく明らかな法」という意味になりますが、憲法のように理念を具体化した文章を「憲章」などと言いますが、これも「顕彰」に通じるとされます。要するに「法」とは、我々の生活にあって、明確にこれを規定するものとして考えられているわけです。

【憲法という語 日本篇】

日本に於ける、憲法の嚆矢は『日本書紀』「推古天皇十二年」の条に出る、聖徳太子の「憲法十七条」であることは、よく知られたことだと思われます。そこで、穂積博士は古い訓が付された『日本書紀』を確認して、「憲法」が「イツクシキノリ(厳しき法)」と訓じられていたことを指摘しています。要するに、「厳明なる法」という意味で「憲法」が使用されたということです。

その後の日本では、律令制度が導入されたり、鎌倉時代に入ると『御成敗式目』などの「式目」、そして江戸時代に入ると「法度」というような国の為政者が定めた法令が出されていくことになりますが、そこでも繰り返して「憲法」という語が、各条文に散見されていきます。

ただし、「式目」以降は「憲法の裁断」「憲法の沙汰」という表現が見られるようで、そこでは「法にかなった裁断」「道理にかなった沙汰」という意味で用いられたとされています。要するに、現在の「憲法」のような名詞的な使用ではなかったということです。

また、江戸時代に於いては「憲法」は「法規」「法令」を意味したようで、『武家諸法度』を初めとする諸方面への法度を集成した著作には『憲法部類』『憲法類集』という題名が付されていることからも明らかだとしています。そして、この江戸時代の用例は、明治時代に入ってからも『憲法類編』という「法令全書」が出版されていることから確認できるとされています。

しかし一方で、いわゆる『大日本帝国憲法』などは、この名詞的な「憲法」という語ではありますが、意味は「法令一般」を指すというよりも、「国家の基本法」ということになっていきます。明治中期に至るまで、西洋の法律学が輸入された頃には、「国家の基本法」を意味する漢語・訳語が無く、当時の法学者はその都度に新訳語を作って文章を書いていたとされています。元々の言葉は[Constitution]或いは[Verfassung]のようですが、訳語としては『聯邦志略』に於いては「世守成規」、福沢諭吉の『西洋事情』では「律例」、津田真道の『泰西国法論』では「根本律令」、井上毅が行った『プロイセン憲法』の訳では「建国法」、加藤弘之の『立憲政体略』では「国憲」、『国法汎論』も「国憲」が充てられて、むしろ「憲法」は「成文法」を意味する[Gesetz]に充てられていたことを指摘しています。

そこで、では最初に「国家の基本法」の意味で「憲法」を用いたのは誰か?ということなのですが、穂積博士は明治6(1873)年に上梓された箕作麟祥博士の「フランス六法の訳本」で、その用例が見られたとしています。もっとも、この箕作博士の訳語については、同時代の学者からは不評だったようで、誤訳とされたようです。そして、先に挙げた加藤弘之博士の用いた「国憲」が一般的だったようです。

結局は、「国憲」を巡って民間などから原案が提示されるなど、国家主導の状況を維持できなくなったと判断されて、色々と紆余曲折があった後、時の明治天皇から参議の伊藤博文に、明治23年に国会を開くにあたって憲法を整備せよとの詔を発せられました。その文章の第一項に「一、欧州各立憲君治国の憲法に就き、其淵源を尋ね、其沿革を考え、其現行の実況を視、利害得失の在る所を研究すべき事」(註:読みやすいように表現を変える。傍線拙僧)とあって、この一文以降、先に挙げた[Constitution]或いは[Verfassung]の訳語を「憲法」とすることが決まりました。明治17年以降は(『法窓夜話』だと明治19年)、各帝国大学でも「国家の基本法」を「憲法」とすることになったそうです。

・・・というと、そもそも「憲法」という言葉そのものが欽定だったのか

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コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます
> pumpkin 君



まぁ、どこまで授業で使えるかは分かりませんが、色々と調べる元ネタくらいには使えると思いますので、参考にしてみて下さい。
pumpkin
おはようございます。
ご無沙汰しております!



教区内に晋山式挙行寺院が

二カ寺もあり、共に『書記』の

大役を仰せつけられ準備に

追われておりました。







中学校の試験では

どちらかというと

『大日本帝国憲法』に関する

問題の出題頻度が高く、

自身も頑張って勉強しました。



>『日本書紀』を確認して、「憲法」が「イ  ツクシキノリ(厳しき法)」



成る程と思いました。

『憲法』のルーツがよく分かりました。

参考にさせて頂きます。

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