つらつら日暮らし

雑 第二十五 其8(富永仲基『出定後語』を学ぶ35)

ここ数回の記事は、最後の一章「雑」を採り上げています。本章は「雑」の字の通りで、他に一章を立てるほどが無い程度の内容でもって、様々な事柄を富永仲基が論じたものです。本当に種々雑多な内容ですが、見ていると20前後の節に分けられそうなので、一つ一つ見ていきたいと思います。

 漢明長楽の較試、火、独り道経を焼く者は、幻の勝れるなり、是れ何ぞ道有らんや。又た列子に云う化人の如し、是れ幻士なるのみ。仏を指すには非ざるなり。僧迦、口を極めてこれを言うは、笑うべし。
 神通と幻と少かに別有り、然るに亦た幻なり、付法蔵経に云く、「夜奢、五指を以て光を放ち、馬鳴、是れ幻と疑う。凡そ幻の法は、これを知れば則ち滅し、而も此の光、転転して更に熾盛なり」と。蓋し仏、則ちこれを道に求めて、而も外道、これを利養に求めるなり。而も其の以て人を幻する所のものは、一なり。是れ猶お漢土の文を尚ぶも、亦た道学詞章の別有るが如し。維摩経の云く、「神通に遊戯す」と、竺土、神通を以て遊戯と為し、亦た猶お漢に芸に游ぶと云うが如し。
    岩波書店『日本思想大系43』98~99頁を参照して拙僧が訓読した


まず、「漢明長楽の較試」とは、漢の明帝が、永平14年(71)に、長楽宮で、仏教経典と道教経典を火に付けて、焼け残った方をより深い教えと認めた故事と伝えられています。以下の記述などがこれに該当します。

永平十四年、五嶽道士、費叔・牙猪・善信等、これを忌み、虚偽を言いて斥く。騰・蘭、帝に白して曰く、吾が仏、世間を出づ。法水火、壊すること能わず。請うらくは方士とこれを験すべし。帝、叔牙等に勅して、所有の奇経・秘訣を尽出し、沙門の持ち来る所の経・像と就いてこれを焚くべし。正月十五日、火を作すも、沙門の諸経、完然にして燼けず。方士、稽首して欽しんで服す。帝、益ますこれを異とす。
    『釈氏稽古略』巻1「顕宗明皇帝」


そこで、富永はこの点を、「幻(不思議な奇術)」が優れているのであり、僧伽(僧侶達)がこれを、仏教の優越性を示す故事として引用するのは、おかしな事だとしているのです。

そして、神通と幻とは少し異なっているとし、例えば、不思議な光が放たれるようなことがあっても、それは幻であると知るべきだとしています。ただし、仏教はそれを、仏道を学ぶ機会としており、転じて道教では自らの力の誇示に用いるとしています。ただ、人を欺すかのように用いられることは同じだとしているのです。

中国では、文章(修辞)を尊んでも、思想と文芸とで異なっているように、神通についてもインドでは「遊戯」としているとします。ただし、それは中国で修辞に遊ぶようなものであり、風土が異なっているのみだとしているのです。

でも確かに、火で経典の優劣を試す故事については、拙僧も不思議なことだと思っておりました。そして、疑いなく仏教の優位性を説くものだと判断していましたが、富永のように冷静に指摘されると、これはむしろ、道教的だと思えてもきます。説話の意義について、常に複眼的に見ていく必要がありますね。

【参考資料】

・石田瑞麿訳『出定後語』、中公バックス日本の名著18『富永仲基・石田梅岩』1984年
・水田紀久編『出定後語』、岩波日本思想大系43『富永仲基・山片蟠桃』1973年

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