南京事件に関する「ニューヨークタイムズの報道
1937年12月19日
南京における外国人の役割称賛される
一九三七年十二月十九日
◇外国人グループ、包囲攻撃中も留まり、負傷者や多数の難民の世話にあたる ◇生命、しばしば危機にさらされる ◇市政府官吏避難のため、安全区委員会が任務を遂行
F・ティルマン・ダーディン 上海 十二月十八日発 ニューヨークータイムズ宛無線
砲撃や爆撃、また無軌道な兵士により、しばしば生命を脅かされながらも、外国人の小グループは日本軍に包囲された城壁内に留まり、非常に人道的かつ政治的に重要な貴重な役割を担った。
アメリカ人が大勢を占めるこれら外国人の多くは、安全区委員会のメンバーであり、委員会の主な目的は、非戦闘員が市街戦に巻き込まれることのないように、非武装地区を維持・運営することであった。その他の外国人の関心はさらに直截的なもので、負傷者および数千人にのぼる戦争避難民の救済であった。
戦闘が終息し、日本軍が委員会の統制を強化するまでは、委員会は限定された地域における市政府の機能を実際に代行したばかりでなく、一時的にせよ、南京市の法と秩序を守る唯一の民政機関でもあった。というのは、馬超俊市長や正規の首都圏役人は日本軍が城壁に到達する数日前に逃亡していた。
委員会は、また、国際関係の分野にも立ち入り、中国軍の南京撤退が平和裡に行えるようにと、三日間の停戦を設けることを、安全区に関わる中国軍および日本軍と交渉を重ねた。唐生智将軍から託された四万中国ドルは、大部分が難民の食料に費やされ、それ以外には、委員会は、篤志家による時間、労働、物品、設備の提供に依存した。
ドイツ人、グループの長を務める
安全区委員会の委員長はドイツ人貿易商ジョン・H・D・ラーベ、書記はアメリカ人の金陵大学社会学教授ルイス・S・C・スマイス博士。同歴史学教授アメリカ人のM・S・ベイツ博士、アメリカ北部長老教会派宣教師W・P・ミルズ師および同大学工学教授、アメリカ人のチャールズ・リッグズ氏は安全区の仕事において活躍が著しかった。中国生まれのアメリカ人ジョージ・フイッチが安全区の局長である。
戦傷者委員会(The War-wounded committee)は、アメリカ聖公会伝道団のジョン・マギー師が責任者であった。安全区委員会の外国人たちは、その人道的仕事において、かなりの成功を収めることができた。
日本軍は南京において、中国軍部隊および軍事施設のない地域は攻撃しないことを約束していたし、中国軍も、安全区からすべての兵隊および軍事設備を撤去することを誓約していた。しかしながら、唐将軍は武装解除の完了時期決定を保留にしていた。実際に、中国軍の武装解除の具合は、委員会が安全区の設立を公式に発表できるほど十分でなかったことは否めない。
それにもかかわらず、この地域は暫くのあいだ、かなりの規模にわたって非武装地域となり、そのため日本軍もあえてこの地域を砲爆撃する必要性を認めなかった。その結果、一〇万人を越す非戦闘員たちは、安全区の上を通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にもかかわらず、日本軍の市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。
それ弾、損害を与える
日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、一〇〇人以上の死傷者を出した。それ弾による死者はほかにも一〇〇人はいるものと思われる。一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。安全区の非戦闘員の食料は、中国軍の瓦解により供給が完全に絶たれた。
退却中の中国軍が大慌ての態で安全区を通過逃走する時、多くの者が武装を解いて民間人の服を求めに委員会本部に集まってきた。また、日本軍は市内に入城する際、安全区を無視したが、この地域での市街戦は無用であった。というのも、指揮官のいない、おじけづいた中国軍部隊は、この地域では日本軍になんの抵抗もしなかったからである。
委員会のメンバーたちは、安全区の非武装化につとめる以外に、多岐にわたる仕事に携わった。まず難民に与える大量の米やその他の食料の運搬である。多くの難民は無一文であった。また、家のない者を収容する建物を徴発したり、地区の警備をとりしきった。そして、南京にある唯一の民間機関として、委員会は裁判所の役割も担い、小犯罪人には数日間地区の輸送部門での労働を課したりなどした。
唐将軍、停戦を探る
南京市の平和的占領を交渉することにより、市内全域を安全区にしようとした委員会の試みは失敗に帰した。日本軍はこの提案に一切返答せず、また、蒋介石総統の回答は、たんなる礼状にすぎなかった。
安全区にとり、一切が特殊な経験であったが、多くの成功を収めた。南京包囲の際、他の重要な問題を扱っていた外国人たちは、戦傷者の処置という越そうにも越せない障害に遭遇した。それにもかかわらず、負傷者の苦痛を大いに取り除くことができた。包囲攻撃の時、南京には中国の陸軍病院はわずかしかなく、それも医師は全員が逃避し、病院はまったく不適格な職員に任されていた。さらに病院によっては特定の部隊にのみ開放されて、それ以外の部隊の負傷者は診療を妨げられた。
一般に野戦病院や応急手当の施設はないにも等しかったので、数千人の負傷者は、自力で脱出できる者以外は、戦闘地域に置き去りにされた。外国人救護者たちは全力をあげて、数少ないトラックで負傷者を拾い、病院に運び、ボランティアの医療班を組織することに努めた。
日本軍は南京占領にあたり、いっそうの組織化を容認したため、外国人グループは赤十字委員会を組織し、外交部ビルで病院業務を引き継ぎ、市内にトラックや車を差し向けて負傷者を収容した。
包囲攻撃の間、大学病院(鼓楼病院)は努めて民間人負傷者用とすることにしていた。しかしながら、大勢の負傷兵が運び込まれてきた。一度は無傷の一団が負傷兵のグループを運び込み、ライフルを向けて負傷者の治療を強要した。ほんのわずかな中国兵、ニュース映画カメラマン一名、ドイツ人六名、ロシア人二名、イギリス人特派員一名の助けをかりて、昼も夜も治療にあたり、これら外国人は一五〇名の患者を取り扱ったのである。
危機と不安は大きく、とりわけ、外国船籍の砲艦が土曜日に川上に発ってからは深刻であった。同時に、漢口への無線と電話が切れ、世界からの報道が途絶えた。
パナイ号爆撃については、南京の外国人たちは、事件から二日たった火曜日に、下関で日本の軍艦から知らされてはじめて知ったのである。外国人たちがかすり傷程度のけがで包囲を生き延びたことは、ほとんど奇跡的といってよい。(南京事件調査研究会『南京事件資料集 ① アメリカ関係資料編』(1992年10月15日))422-425頁