STAY GREEN~GREENのブログ~

京都学連事件について-その2

 治安維持法は、当時の司法省と内務省が原案を出し合い、両者をつきあわせながら制定されていった。

 
 しかし、司法省と内務省とでは治安維持法に求めているものが少し違っていた。
 
 治安維持法制定の理由を平沼騏一郎は次のように述べている。
 
「日本で赤い思想を防ぐに就いて効果があつたのは、治安維持法があつたからである。序にこの治安維持法の
 
成立ちに就いて話をする。私は司法省にゐる時考へてゐた。欧洲では共産党の結社を認めてゐたので、日本に
 
も出来ると思ひ、法律で厳禁することが大切だと大臣に言つたことがある。然しこれはなかなか行はれなかつ
 
た。行はれる機会を得たのは普選実施の時である。それは山本内閣の時で犬養が普選の主張者であつた。犬
 
養は議論が巧みで、山本も之を排斥することが出来なかつた。犬養は私が反対すると思つて、私の処へ来た。
 
その時はどうしても普選になる事情であつた。そこで私は、それは同意してやるが、共産党の結社を禁ずる法律
 
を出すが賛成するかと言ふと、賛成すると答へた。かくして次の若槻内閣《ママ》の時普選となつた。この時枢密
 
院で、共産党の結社禁止をやらねば普選に同意せぬと言つたので、遂に若槻が同意した。(管理人注-普通選
 
挙法と治安維持法が成立したのは若槻礼次郎内閣の時ではなく加藤高明内閣の時である)」(平沼騏一郎回顧
 
録編纂委員会『平沼騏一郎回顧録』 学陽書房 1955年8月22日 79頁)。
 
 平沼が言うには、共産主義者による結社を防止するためにも治安維持法は必要であり、そのために普通選挙
 
法との取り引きを犬養毅としたというのである。平沼は司法省の人間であるので、司法省としてはこの点を重視し
 
て制定しようとしたのであろう。治安維持法制定理由として挙げられる普通選挙法との取り引きとはここから来て
 
いる。
 
 一方、当時内務大臣であった若槻礼次郎は、治安維持法制定理由を次のように述べている。
 
「治安維持法も、私が内務大臣のときに出来た。世間では、一方に普通選挙で国民に自由を与え、他方、治安
 
維持法で国民から自由を奪うという避難があつたようだが、この二つは、全然関係がないのである。もともと治安
 
維持法は私が考え出したものでも、政党が問題にしていたものでもなく、以前から内務省の宿題であつた。初め
 
これが議会に出たのは、床次の内務大臣のときで、名前は何とか取締法案というものであつたが、それには朝
 
憲紊乱とか、国体変更とか政体変更とかを企てたものは懲役に処するというようなことがあつた。これに対して、
 
新聞社が非常に反対した朝憲紊乱というようなことで、新聞の論説に、枢密院の廃止とか、貴族院の廃止とかい
 
うことを書いても、すぐ罰せられることになる。たまるものではない。言論の自由がどこにある。というようなこと
 
で、不成立に終つた。しかし、この法案の目的は、当時社会主義、殊にマルクス主義の思想がだんだん行わ
 
れ、一方にロシアが共産主義革命をやつて、それが世界に広がる恐れがあるというので、内務省で、これを取締
 
る法律が必要だということになつていた。私もそれはやむを得ないと思つたから、名前を治安維持法とし、その内
 
容も新聞社が不安に思うような朝憲紊乱などという、解釈のどうでも出来るような字句を除いて議会へ出した」
 
(若槻礼次郎『古風庵回顧録』 読売新聞社 1950年3月25日 297-298頁)。
 
 これが治安維持法を内務省が必要とした理由である。そこには明らかに日ソ基本条約締結についての懸念が
 
みえる。
 
 1925(大正14)年には日ソ基本条約が締結されている。これにより日ソ間での国交が回復。日ソ間でのヒト・モ
 
ノ・カネが相互に行き交うことに対し警戒したのである。
 
 そのことは、このころの内務省の文書を見ればよく分かる。
 
 内務省警保局の年報である『社会運動の状況 大正十五年』には次のようにある。
 
「露国モスコーに於ケル東方共産党大学ニハ選抜派遣ヲ命セラレタル本邦同志ノ者十数名滞在セルノ事実アリ
 
シカ、是等ハ大部分大正十五年中ニ於テ秘カニ内地ニ帰還シ各地ニ潜伏セル哉ノ聞エアリ。厳重内偵中ナリ。
 
而シテ其ノ補充トシテ本邦労働団体中ニ在ル少壮共産主義者ヲ派遣留学セシムルモノヽ如シ」(復刻『社会運動
 
の状況 大正十五年版』 不二出版 1994年12月10日 31頁)。
 
「全日本無産青年同盟ハ之等ト(管理人注-国際青年共産党)連絡ヲ通シ其ノ方針ニ従テ運動シ居レルノ形跡ア
 
ルモノトス。大正十一年十二月「モスコー」ニ於ケル第四回大会以降邦人同志ノ者屡々党ノ大会ニ出席シテ運
 
動上ノ連絡ヲ講シ居レルノ形跡ナキニ非ス。大正十五年五月本邦同志カ党本部ニ於テ印行セル多数ノ不穏文
 
書ヲ横浜ニ於テ密ニ陸上ケセルヲ取抑ヘタル事実アリ、又大正十五年及十六年初メニ亘リ、本邦青年同盟員多
 
数ヲ選抜シ露国ニ留学セシムル計画アリテ既ニ其ノ一部ノ者ハ入露セリト認メラルヽ事実アリ」(前掲 31-32
 
頁)。
 
 明らかに国交回復によりヒトが往来することに対しの警戒が見える。特に若者・学生が往来することにより、共
 
産主義活動家の指導的立場となる人物が生まれること、「内なる革命勢力」と「外の革命勢力」とが結びつくこと
 
を警戒しているのだ。
 
 この点については枢密院も同じ意見を持っており、1925(大正14)年2月17日に行われた治安維持法についての
 
「枢密院審査委員会での質疑応答」のなかで、「学生々徒に対する危険思想宣伝は危険思想の卵を作るものな
 
るに付最注意すへき所なるか」(荻野富士夫編『治安維持法関係資料集 第1巻』新日本出版社 1996年3月25
 
日 185頁)と言っている。
 
 以上のように治安維持法は、現状の共産主義活動に対してだけ出されたというだけのものではなく、今後の共
 
産主義活動の芽を摘み取るという意味をも持って制定されていったのであった。
 
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「京都の近代史」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事