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京都学連事件について-その7

 1926(昭和2)年1月15日、容疑を治安維持法違反に切りかえての、京都社研メンバーに対しての検挙と河上肇・山本宣治などの居宅捜査が行われる。

 
 このことを聞いた、花田大五郎京大学生監は荒木寅三郎京大総長へ次のような報告をしている。
 
「本日午前七時半本学寄宿舎々生熊谷孝雄(経済学部二年)拘引せられ候、拘引前午前七時頃、川端署高等警察係原田実治小職の官舎に来り右拘引状を示し小職の諒解を求め候右と前後して左記を十一名(熊谷とも十二名)勾引され京都地方裁判所未決檻に収容されし模様に候」(注1)
 
 また坂口昂は、この出来事を日記に次のように記した。
 
「十六(土)部長会議にて報せらる、十五日早朝予審判事令状にて学生十二名拘引、河上教授宅其他の居宅捜索あり云々、この会議にて偶此日午後二時開会の筈なるカール・リーブクネヒト及びローザ・ルクセンブルグ紀年会につき問題起り、主催者(社会科学研究会員)を招き学生監は彼等に自発的に(一)学術講演会なることを会に於て断ること(二)河上教授の講演を遠慮することを勧告し、長時間交渉を重ねてその通りとなれり」(注2)
 
 その後検挙者は膨れあがり、1月26日において所轄検事が起訴したのが38名で、罪状は治安維持法違反、出版法違反、不敬罪(これは1名のみ)であった。
 
 国内初の治安維持法違反事件を受けて、京大では善後策がとられるようになる。
 
 第一に、「(学連には)改造の条件中に之を公の学会とするために教官中より出で、この会指導の任に当るべしといふ一項あり、因て予めこの指導教官を用意しおく必要ありと申合せり」(注3)として、社研に指導教官を付けることを決定する
 
 第二に、荒木京大総長より学生に対し、今後行動を慎むようにとの以下の訓示が出された。
 
「而して茲に注意して置きたいのはかゝる行動は初より直接に之を意識して行ふに限らず日常各種の行動に依て知らず識らずの間に此に到る場合が多いことである。故に本学は独り諸子が実際国禁に触れ社会若くは本学の秩序を紊すの行動を許さゞるのみならず此の如き結果に導くの虞ある行動をも取締らねばならないのである」(注4)
 
 大学側の処置と治安維持法違反事件を受けて、京大社研は2月24日に学連から脱退することとし、翌25日に総長室で社研代表者が花田学生監に対し以下の申し出を行った。
 
「京大社会科学研究会は去る廿日代表者四名学生監室に罷てヽの報告に二月十七日臨時大会の決議により(一)会則に示す所の「普及」の2字を削除しました(二)学術研究以外の外部との連絡を同日以後将来に亘り絶つことに到しました(三)会の組織を大学当局に報告致します会の行動其他に関しては大学当局の要求に応し直ちに報告致します(四)尚ほ教官の指導を受けらるべしとの大学当局の希望を受けます」とありて会よりの希望として「学連    (ママ)」の申出ありたる故更らに総長より右希望の到底容認し難き旨を答へ廿五日正午迄の猶予を与へて再考を促したるに廿五日午前十一時遂に同代表者の三人総長室に来り「私達の希望の容られさりしは残念なれとも大学当局の意のある所を諒解し昨二月廿四日正午日本学生社会科学研究会連合会本部宛脱退届を提出致しました」と申出でられたり」(注5)。
 
 一方、この京都学連事件を受けて京大内に設立されたのが、京大学生による右翼団体「猶興学会」であった。猶興学会は、江藤新兵の孫、江藤夏雄を中心として会員約200名で設立され、その目的は「「堯舜孔子の道を明にし西洋機械の術を尽す何ぞ富国に止らん何ぞ強兵に止らん大儀を四海に布かんのみ」と唱和し亜細亜的精神の権威を以て欧羅巴の制度文物を駆使し国を挙げて道義に殉ぜんとした明治維新の先覚者の抱負こと吾々の慕ふ所である。然るに我国の現状は此高き理想を持たねばならぬ時に堕落せる享楽主義や極端なる物質主義の跳梁、議会に於ける政党政治の腐敗、権門財閥の驕慢奢侈等一として道義的精神国民的理想の欠如を示さないものはない。斯かる時勢を匡救するの任に当るのは吾々青年学徒の責務でなければならない。即ち斯かる時勢が吾々の自覚と奮起とを促し此の学会を起さしめたのである。けれども吾々は一個の学徒である。だから此の立場を省みて学術的研究の態度を失ふ事なく我国固有の国民精神発展の跡を闡明し、社会の趨勢に鑑み諸学の分科的研究により総合的至公至平なる見地よりして国家社会の実生活の内容を自由に批判解剖して公正なる判断と妥当なる決論とを誤らず以て青年日本の先嚮に資せん事を朝するものである。云々」というものであった(注6)。
 
 翌6月2日には京大内学生集会所で猶興学会の発会式が挙行され「会員、一般来会者、並に山本(注-山本美越乃経済学部教授)、青柳(注-青柳栄司工学部教授)、神戸(注-神戸正雄経済学部教授)、市村(注-市村光 法学部教授)各教授出席」し開催された(注7)。
 
 
(注1)1926年1月15日「学生拘引の件につき報告」(京都大学百年史編集委員会 『京都大学百年史資料編二』2000年10月30日)362頁
(注2)1926年1月29日付『坂口日記』(京都大学百年史編集委員会 前掲)363頁
(注3)1926年2月3日付『坂口日記』(京都大学百年史編集委員会 前掲)364頁
(注4)1926年2月3日「荒木総長から一般学生への訓示」(京都大学百年史編集委員会 前掲)365頁
(注5)1926年2月25日「評議会閉会後花田学生監による報告」(京都大学百年史編集委員会 前掲)367頁
(注6)1926年6月1日「明日発会の猶興学会 新日本精神を高唱する」(京都大学百年史編集委員会 前掲)367-368頁
(注7)1926年6月11日「京都帝国大学新聞」第26号(『京都大学新聞縮刷版』 京都大学新聞社、1969年2月10日) 132頁
 
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