父と私と癌、時々母

5年前に亡くなった父との思い出を、忘れないうちにツラツラと書いていこうと思います

時間は静かに過ぎ

2021-08-12 06:39:25 | 日記
子供達が留守番ができるようになると、親孝行のつもりで私一人で実家に帰るようになった。といっても年3.4回であったが。

たいていは2泊だった。父に駅に迎えに来てもらう。私を見つけるとよっと片手を挙げすたすたと車の方へ歩き出す。
実家に着いたらお土産タイム。
きんつばや木村屋のあんぱん、赤穂のしお饅頭、崎陽軒のシュウマイや豆狸のおいなりさん、あとあなご丼を買っていったこともあったなぁ。父は待ちきれない子供みたいに次々と開封しては味見をしていた。

次の日は父と出掛ける。父のお気に入りのお店でランチ。お蕎麦やパスタ、ホテルのバイキングにも行った。80過ぎの癌患者にしては食欲旺盛であった。
軽くドライブ。港とか灯台とか神社とか、父のうんちくを聞きながらのんびりと走った。
産まれてこのかた、こんなに父と喋ったことがあっただろうか。今行っている治療のこと、医者への不満、今後のこと、お墓のこと(両親は既に信州に合祀墓を購入していた)、若い頃の話も聞いた。私は息子達のこと、仕事のことなど話した。
父のサービス精神で私を連れ回してくれているのかと思っていた。が、自分の好きな場所を私に見せたかったんじゃないか、思い出を作ろうとしてたんじゃないか、と思うようになった。
たまに旅館に一泊することもあった。一ノ宮、鴨川、勝浦、近場だけど久しぶりの大人だけの宿泊は快適だった。

宿泊以外のお出掛けに母が同行することはなかった。誘っても、留守番するので行っておいでと言う。
後で解ることだが、母は24時間父といるストレスで徐々に鬱症状が出てきていた。
父の癌発症前はコーラスや、絵手紙、オカリナなど、父の送迎付きで趣味を楽しんでいたが、父の負担を考え、全て辞めてしまった。
父は私といるときこそ上機嫌だったが、家ではイライラして母に当たることもあったらしい。脳への転移からせん妄も出ていたようだ。
父にばかり目がいってしまっていたが、母の負担も相当なものだったのだろうと今なら想像がつく。今や小さくなってしまった母の背中を支えるとき、ごめんね、と思ってしまう。



闘病生活が始まった

2021-07-25 01:57:45 | 日記
父はずいぶん前から尊厳死協会に登録していたので、抗癌剤を拒否するのではないかとの懸念はあった。
が、脱毛に備えて帽子を買っておいて欲しいと頼まれ、ホッとした。
私は父に似合いそうでチクチクしなさそうな帽子を2、3枚用意した。

父は『死ぬのは怖くない、でも痛いのはかなわんなぁ』と言っていた。モルヒネを使う緩和治療に興味を持ち、主治医には緩和ケアをお願いしたいと伝えていたようだ。
積極的な治療をしない緩和ケアを希望している、と受け取られていたのではないか、、、随分と後になってこのすれ違いに気が付いた。

初めてのことばかりで手探りの闘病生活が始まった。癌治療は決して後戻りは出来ない、一方通行の道を行くようなもの。もし戻れるのなら、より良い道を選べたのにと思う。

分子標的薬のイレッサを服用しつつ、ほぼこれまで通りの生活を送れた。脱毛もなく、帽子は不要だった。父は野菜や花を育て、自分で運転して史跡を訪ねたり『こんなに自由に好きなことだけしていていいのだろうか』と、充実した生活をおくっていたようだ。


実は肺癌だった

2021-07-22 13:57:39 | 日記
現役時代は1日40本喫煙のヘビースモーカー。隠居して禁煙したものの、COPDにはなるべくしてなったという感じか。
悪化するもことなく、近所のクリニックに通院し、「まぁ大丈夫でっしゃろ」と検査も受けず、薬をもらっていた。(父は関西弁ネイティブ、関東に移り住み40年たってもぶれることなく亡くなるまでコテコテの関西弁を喋っていた。)
数年たった頃、どうも息が苦しくなり、さすがにレントゲンをとってみたらあら大変、手に負えません、と鴨川にあるK病院を紹介された。

胸に水がたまっており、血中酸素濃度は89%、呼吸困難のレベルだ。
急いで酸素吸入を!となったそうだが本人曰く「そこまで苦しくなかった」そうだ。空腹以外、身体の不調を感じることがないと言っていたが、本物だと思った。
緊急入院となり、仕事休みの火曜日、往復5時間弱かけて見舞いに通う日々が始まった。父は病状の説明や、パソコンで調べた医師の経歴などボチボチと話してくれた。たまっていた水は3リットル、本来なら相当苦かったはずなのだが流石というか何というか。。
数週間たった頃、病院から家族に話があるので集まってほしいとの連絡があった。あぁ、やっぱりか、と嫌な予感が確信へと変わっていった。

予感通りだった。肺癌stage4。手術は出来ないとのことだった。
もっと早く検査を勧めていれば、との後悔が頭の中をぐるぐる回っていた。

東京オリンピックに思う

2021-07-21 12:47:09 | 日記
5年前、父の病室のテレビからは安室奈美恵のHEROが流れ、私は今にも消えそうな命の炎を見つめているしかなかった。
東京オリンピックでは実家の近くがサーフィンの会場になること、嬉しそうに話していたが、見ることはないのだ、と覚悟した。

いよいよ東京オリンピックが始まるとなり、ふと父との思い出を記しておきたくなった。

子供が中学生になると、実家から足は遠のき、父とお別れするまであと何回顔を会わせるのだろうとぼんやり考えることはあった。
が、父が肺癌になり、今までまともに会話などしたことがなかった父との関係が濃厚なものに変わっていった。

はじめまして!31005aです

2021-07-21 00:45:45 | 日記
はじめまして!
31005aと申します。

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