父と私と癌、時々母

5年前に亡くなった父との思い出を、忘れないうちにツラツラと書いていこうと思います

闘病生活が始まった

2021-07-25 01:57:45 | 日記
父はずいぶん前から尊厳死協会に登録していたので、抗癌剤を拒否するのではないかとの懸念はあった。
が、脱毛に備えて帽子を買っておいて欲しいと頼まれ、ホッとした。
私は父に似合いそうでチクチクしなさそうな帽子を2、3枚用意した。

父は『死ぬのは怖くない、でも痛いのはかなわんなぁ』と言っていた。モルヒネを使う緩和治療に興味を持ち、主治医には緩和ケアをお願いしたいと伝えていたようだ。
積極的な治療をしない緩和ケアを希望している、と受け取られていたのではないか、、、随分と後になってこのすれ違いに気が付いた。

初めてのことばかりで手探りの闘病生活が始まった。癌治療は決して後戻りは出来ない、一方通行の道を行くようなもの。もし戻れるのなら、より良い道を選べたのにと思う。

分子標的薬のイレッサを服用しつつ、ほぼこれまで通りの生活を送れた。脱毛もなく、帽子は不要だった。父は野菜や花を育て、自分で運転して史跡を訪ねたり『こんなに自由に好きなことだけしていていいのだろうか』と、充実した生活をおくっていたようだ。


実は肺癌だった

2021-07-22 13:57:39 | 日記
現役時代は1日40本喫煙のヘビースモーカー。隠居して禁煙したものの、COPDにはなるべくしてなったという感じか。
悪化するもことなく、近所のクリニックに通院し、「まぁ大丈夫でっしゃろ」と検査も受けず、薬をもらっていた。(父は関西弁ネイティブ、関東に移り住み40年たってもぶれることなく亡くなるまでコテコテの関西弁を喋っていた。)
数年たった頃、どうも息が苦しくなり、さすがにレントゲンをとってみたらあら大変、手に負えません、と鴨川にあるK病院を紹介された。

胸に水がたまっており、血中酸素濃度は89%、呼吸困難のレベルだ。
急いで酸素吸入を!となったそうだが本人曰く「そこまで苦しくなかった」そうだ。空腹以外、身体の不調を感じることがないと言っていたが、本物だと思った。
緊急入院となり、仕事休みの火曜日、往復5時間弱かけて見舞いに通う日々が始まった。父は病状の説明や、パソコンで調べた医師の経歴などボチボチと話してくれた。たまっていた水は3リットル、本来なら相当苦かったはずなのだが流石というか何というか。。
数週間たった頃、病院から家族に話があるので集まってほしいとの連絡があった。あぁ、やっぱりか、と嫌な予感が確信へと変わっていった。

予感通りだった。肺癌stage4。手術は出来ないとのことだった。
もっと早く検査を勧めていれば、との後悔が頭の中をぐるぐる回っていた。

東京オリンピックに思う

2021-07-21 12:47:09 | 日記
5年前、父の病室のテレビからは安室奈美恵のHEROが流れ、私は今にも消えそうな命の炎を見つめているしかなかった。
東京オリンピックでは実家の近くがサーフィンの会場になること、嬉しそうに話していたが、見ることはないのだ、と覚悟した。

いよいよ東京オリンピックが始まるとなり、ふと父との思い出を記しておきたくなった。

子供が中学生になると、実家から足は遠のき、父とお別れするまであと何回顔を会わせるのだろうとぼんやり考えることはあった。
が、父が肺癌になり、今までまともに会話などしたことがなかった父との関係が濃厚なものに変わっていった。