もう私の手を握りしめる力は無かった。
私が駆けつけた時、母に残っていたのは残されたほんの数時間を生きるだけの力だけだった。
手の温もりが消えてしまわないように母の手を握り締め続けた。
それでも少しづつ母の手の温もりは奪われていった・・・。
母の声がもう一度聞きたかった。
母に名前を呼んでほしかった・・・。
いつものように「SORAが来たら楽しいなぁ」って嬉しそうに笑ってほしかった。
握りしめる力など無いはずの母が最期の力を込めて私の手を思い切りギュッと握りかえした数分後
一筋の涙を流して一瞬笑顔になって母は旅立ちました。
遠くない未来にお別れの日がくることはわかっていたから
その時、その後は多分 自分の一部が欠落したようになるんだろうと心の隅っこで思っていました。
自分の母親を亡くした後に
”何か決定的なものが 損なわれてしまった気がする”
”わたしという容器の中はからっぽ”
と、昔から愛読している大好きなブロガーさんが言いました。その言葉がずっと頭に残っていました。
決定的なものが損なわれた・・・
からっぽ・・・
母親を亡くすとは、そういうものなのかと思っていました。
もっと親孝行をしたかった。
もっと一緒に綺麗な景色が見たかった。
もっと話しておきたかった。話したいことがあった。
ひ孫を抱かせてあげたかった。
思えばきりがありません。
だけどいくら後悔したってもうどうにもなりません。
失ったものは、もう二度と失うことはできないのだから
ある意味安心していられる。一度失ってしまったものが
それ以上の喪失をもたらすことはない。
でも、母を亡くして今私の中では喪失感ではなく
生きている時よりも母の存在感が大きく大きくなって
”からっぽ”になるどころか
母が今までくれた「愛」が私の中で溢れています。
母から沢山の愛をもらったことに今更ながら気づかされています。
こんな時に母ならこうしてくれた。こう言ってくれた・・。
何かをする時、ふとした瞬間、母がくれた無償の愛を感じています。
その愛をもうもらえないことは寂しくて悲しいことだけど
こんなに沢山の愛をくれた母に感謝の気持ちでいっぱいになるのです。
母を亡くして寂しくないと言うと薄情な娘と思われるかもしれませんが、
日々確実に寂しさや悲しみは薄れています。
もしかしたらそれは日常の忙しさに紛れているのかもしれません。
悲しみに心が占領されてしまったら人間は生きて行けないから
悲しみや寂しさという感情は薄れていくように出来ているのかもしれません。
私の中には寂しさや悲しみ以上に
今、母からもらった愛が溢れています。
いつの日か 私が旅立つ時が来たとして
家族や大切な人の心の中に寂しさや悲しさよりも「愛」が溢れる・・・
私も母のようでありたいと思うのです。
惜しみなく愛を注げる人になりたいと思います。
そして、大切な人、大切な友人を亡くされ悲しみの中にいる人も
いつかは、悲しみや寂しさより その人がくれた愛が溢れる時がきっと来る。
それぞれの関係、立ち場、状況で
悲しみや寂しさが薄れていく時間は違うと思いますが、
いつかは悲しみや寂しさよりも愛が溢れる・・・
そうであってほしいと願っています。
先日、母の四十九日法要を滞りなく済ませることができました。
奈良に帰省する車の中、法事の帰りの車の中
膝に置いた手のひらが終始ポッポと温かく(むしろ驚くほど熱くなり)母に手を握られてるようでした。
亡くなってなお、私の中で溢れるほどの愛をくれる母に
「ありがとう。大好きやよ。お母ちゃん。」
最後まで読んでくださって有難うございます。
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コメント欄、閉じられてないからコメントしちゃいます。
SORAさんのお母様の溢れる愛。
私も、そうでありたい。
朝から、とても幸せな気分になりました。
ありがとーございます。
SORAさん、お返事はいりませ~ん。
夏バテしないようにしてくださいね。
私ったら間抜けですねぇ~(笑)
コメント受け付ける設定のままでしたね
sachiさんは、愛溢れる素敵なママですよ!
私はまだまだ愛を出し惜しみしているので、これからセッセと愛を大放出していきます(笑)
子供さん達も夏休み
子供さん達と楽しく過ごしてくださいね。そして夏バテしないようね。