NHK地上波に「サイエンスZERO」という番組があり、私は日曜の夜中の時間が合った時に見ている。
この番組で先週、コンピューターソフトとプロ棋士が戦う電脳戦に使われた将棋ソフトの紹介があった。
面白かったのは、どうやってソフトを開発しているのか、と言う肝の部分を、わかりやすく解説してくれたことだ。
1手打てば、その先に分岐があり、更にその次に何乗という分岐が増えていく。
何手先まで読むか、だが、誰もが予想がつくように、ソフトに過去の膨大な対局データを入れていく、というところまでは間違ってはいない。
具体的には、打った手に評価ポイントをつけて、高い評価ポイントの手を選択していく、と言う形を多くのソフトは取っているようだ。
ただ、最強のソフトとなったプログラムは、それとは違っていた。
対局中、盤上のある3つの駒を結んだ図形に着目し、それを選択するようにプログラムしている、らしい。
このプログラムが、実際の対局で実力を発揮した場面も再現されたのだが、プロ棋士の人は、この時、コンピュータが間違った手を打った、と思ったらしい。
要は、セオリーどおりの打ち方をしなかった、ということだ。
人は、しめた、と思ったようだが、その後の展開はそうではなかった。
膨大な分岐があるにせよ、セオリーどおりの打ち方では、パターンの中で勝負しているのだから、結局過去の再現でしかないのだろう。
ところが、全く異質な視点から組み立てた予想(もちらんデータの裏付けはある)は、過去の手より優れた結果をもたらした。
これを見たとき、競馬の予想に活かせないか、と一瞬思った。
これまでのデータとは全く違う視点のファクターで予想できないか、ふとそう思った。
まぁ、すぐにそんなに簡単じゃないことは、気づくのだけど。(笑)
可能性がゼロではないし、そのファクターに気づくかどうか、なのだが。
ただ、こうも言える。
予想には、ゴールはない。
ゴールする、必ず当たる、としたら、それはもはや予想ではない。
この先起こる事実を語る、であって、予想ではない。
それに、事実が事前に語れるのなら、予想(賭け)をする意味は失われることにもなる。
競馬の予想法は、何故かすぐに陳腐化してしまうものが多い。
予想とは、やはりある意味、当たらないから、予想なのかも知れない。
この番組で先週、コンピューターソフトとプロ棋士が戦う電脳戦に使われた将棋ソフトの紹介があった。
面白かったのは、どうやってソフトを開発しているのか、と言う肝の部分を、わかりやすく解説してくれたことだ。
1手打てば、その先に分岐があり、更にその次に何乗という分岐が増えていく。
何手先まで読むか、だが、誰もが予想がつくように、ソフトに過去の膨大な対局データを入れていく、というところまでは間違ってはいない。
具体的には、打った手に評価ポイントをつけて、高い評価ポイントの手を選択していく、と言う形を多くのソフトは取っているようだ。
ただ、最強のソフトとなったプログラムは、それとは違っていた。
対局中、盤上のある3つの駒を結んだ図形に着目し、それを選択するようにプログラムしている、らしい。
このプログラムが、実際の対局で実力を発揮した場面も再現されたのだが、プロ棋士の人は、この時、コンピュータが間違った手を打った、と思ったらしい。
要は、セオリーどおりの打ち方をしなかった、ということだ。
人は、しめた、と思ったようだが、その後の展開はそうではなかった。
膨大な分岐があるにせよ、セオリーどおりの打ち方では、パターンの中で勝負しているのだから、結局過去の再現でしかないのだろう。
ところが、全く異質な視点から組み立てた予想(もちらんデータの裏付けはある)は、過去の手より優れた結果をもたらした。
これを見たとき、競馬の予想に活かせないか、と一瞬思った。
これまでのデータとは全く違う視点のファクターで予想できないか、ふとそう思った。
まぁ、すぐにそんなに簡単じゃないことは、気づくのだけど。(笑)
可能性がゼロではないし、そのファクターに気づくかどうか、なのだが。
ただ、こうも言える。
予想には、ゴールはない。
ゴールする、必ず当たる、としたら、それはもはや予想ではない。
この先起こる事実を語る、であって、予想ではない。
それに、事実が事前に語れるのなら、予想(賭け)をする意味は失われることにもなる。
競馬の予想法は、何故かすぐに陳腐化してしまうものが多い。
予想とは、やはりある意味、当たらないから、予想なのかも知れない。