自分は生まれながらのアスペルガー症候群だ。
もしかすると愛情遮断症候群もあったかも知れない。
何しろ両親からは名前さえ付けて貰えず、1歳8ヶ月だった姉にまるでペットに名前を付けさせるようにして名付けられたらしい。
流石に漢字はまだ知らなかったので母方の祖母の名前の漢字と姉の名前のお尻に使っている美しいという漢字をくっ付けて適当にそれらしい漢字を宛がわれた。
しかし、本当は祖母の戸籍上の名前は曾曾祖父が付けた「哲」と言う名前でおよそ女の子らしからぬ名前であり、その為に普段使いに㊙子という名前を使っていたと言う話だ。
江戸時代中期からずっと苗字帯刀が許されていた大庄屋の家だった母方の祖母の家は名前をそんな風に占い師によって後から付けて貰った呼び名と二つ持っていたりする女子がいるようで祖母の他には母達きょうだいでは末っ子の母が本当の名前と呼び名とを持っていた。
理由としては、母の本名だと男勝りに過ぎて男性を縮み上がらせてしまうからだとか何だかそんな理由で呼び名が、当時よく当たると評判だった熊本の方に住んでいた占い師に付けて貰ったらしい。
もっとも戸籍名で手紙を出したり書類に記名したりするのは当たり前だし、今のように外国人達が日本人を偽るために使う通名とは全く違う種類のもので、名のある家柄に生まれたもの達が幼名を付けられていたのに似て弱く幼い時期を厄から逃れさせる為に付けられる特別な名前だ。男性と違い女性は一生を通じて男性社会となってしまったこの日本においては弱い立場にある為、明治以降になっても男運が悪くならないようにともう一つの名前で呼ばれていたらしい。まあ、水商売でも源氏名?なんていうものもあるし、芸能人も芸名を使ったりするようだけれども。
でも日本では男児の方が夭逝する事が多かったせいで幼名を付けるのが殊大名家で通常化していたんだろうし出世する事によっても名前が変わったりもしていたらしい。
豊臣秀吉なんかがその最たる人物だと言って良いだろう。
彼には最初苗字さえなく、「木下」姓は妻である「ねね」の生まれた家のものであった。漢字にも示されているのが興味深いが「かばね」と言う文字は女から生じると書く。
古くはこの地で生きてきた縄文人の血が弥生人達の侵略によって滅ぼされても尚、縄文女達の血筋によって脈々と受け継がれて来たことにも通じるように勝手に想像していたりする。
縄文時代のこの島国は女性によって統治されており、侵略と略奪に向かいがちな力を行使したがる男性社会と違い和合に向かう柔軟な女性社会だったとか。それで一万年もの間平和が保たれてきたんだろう。
しかしながらこの地にも弥生女が入り込み他の命を喰らう邪悪な者達で溢れ返ってしまった。
中国商人とトリニティカルトに狙われてきた金銀財宝と命の水に恵まれた神の治める島国。
織田信長と弥助なる人物も名前こそ日本人のようだがその正体は縄文の血筋とは異なる白人と黒人であった可能性が高く、それ故に成敗されたのかも知れない。
彼等は外の国々から乗っ取り易くするために天下統一を図ると同時に縄文の血を引く第二のマリアとなり得る日本女性達を世界中に性奴隷として分散させ、貶め穢し尽くし二度とイエスが生まれてこないように先手を打とうとしたのかも知れない。
でなければ、その時代にそれまでは男性同様店を開いたり家長としても仕切っていたりした女性の人権がいきなり著しく貶められた理由が思い当たらない。バテレン大名達によって火薬1樽に対して娘達が50人、一万樽の火薬と50万人もの縄文の花嫁達が交換されて行ったと言う悍ましい時代。
妄想するに「ねね」さんは縄文時代の支配層にあった血を継ぐ者であったのでは?彼女が表に出ることなく夫を操り、日本娘達の流出を止めさせたのではないだろうか?と。
偶然にも木下姓を名乗る祖母の実家の辺りは知る人ぞ知る卑弥呼の里が存在し、帯刀していた刀が事もあろうか妖刀「村雨」、おまけに豊臣秀吉由来の菩提樹から作られたと言う数珠が曾曾祖父が刺客に襲われた折に懐に抱かれていてとばっちり受けた母に譲られていた。(婿養子には譲られず、菩提寺に預けられた妖刀「村雨」。母によるとそこの住職からしつこくその数珠を譲って欲しいと懇願されたそうだが、坊主と言えば呪いの主も同然だったから譲らなかったそうだ。)
ノミのような刃物で襲われ、まだ赤ん坊だった母の足の親指が皮一枚で辛うじて繋がる状態。襲った男の始末は母の口からは語られることは無かったが昭和初期に至ってもそのような物騒な目に遭わされてきた家柄であることは確か。
曾祖父母は長男として祖母達に弟が生まれ、そして布団によって窒息死した後に日を置かずに不審死を遂げている。家には曾曾祖父のところに後妻で入った女がおり、彼女はどうやら旅の托鉢僧と繋ぎを取っていた節がある。
その托鉢僧が「この家は三代で滅ぶ(滅ぼす)」と言葉を残して去ったそうだが三代目にあたる跡継ぎの男の赤ちゃんが窒息死して初めて授かった男児を失った悲しみから二代目にあたる夫婦が相次いで絶命し、遺された三人の孫娘を育てた江戸時代生まれの当主が長女に婿取りをし、次女に4人目のひ孫(母)が生まれて懐に入れて散歩をするまで気丈に生きていたけれど、跡取り娘が懐妊したのは母が生まれたときの胎盤の上に験を担いで座った後だったそうで曾曾祖父が他界した直後に豹変した婿養子は乗っ取り一味だったかも知れなかった。
婿養子との間に男、男、女と長らく子が出来なかった祖母のお姉さんに子供が授かりだしたのに男の子だから夭折する事なく婿によって始まった今で言うところのDVによって子供達が幼い頃に母親はいびり殺されてしまい左褄を取っていた仲間の女が後妻で入り込み木下の家の家系図古文書の類いやら戦国時代の名残のものなどをどさ回りの役者等に受け渡し本当に3代で滅ぼされてしまった。
乗っ取りやの息子達は二人とも母を死に追いやった父親を憎み木下の家を捨てそれぞれ長崎で公民館長、自衛隊で学費を稼いで大学へ進学、卒業後は霞が関で会計監査員の職に就いていたそう。
だが彼等も生きていたとしても90歳代の御年配、特に霞が関で働いていた方の子供は重度の障碍を背負って生まれてきたと聞いたが、障碍と共に生きることは決して容易いことではない。
私だって子供達がいなければとっくの昔に消滅していただろう。
母には愛されなくても母を守って欲しいと言う木下家の最後の生き残りと言われていた祖母からの願いが最後の言葉として直接私に与えられていた。
へび年生まれの母は寅年生まれの祖母や私からの愛情は伝わらなかったようだけど利用は当然のようにしていた。私の父も寅年生まれ、散々貶めることを言いながらお金はしっかり受け取って感謝はしないでお気に入りの龍や鼠、最愛の猿息子と山分け。
私のお金まで取り上げたのには驚いたけど今となってはどうでも良い、どうせお金は穢れ、祓って清めるために存在する道具。私にとっては富では無いから。
また何を愚痴っていたか解らなくなってきた。