2024/02/27

2024-02-27 08:18:44 | 日記
私は生まれながらのアスペルガー症候群だ。
 そして望まぬ相手との婚姻期間中の14年間と離婚が成立し、生活保護が実際受給開始になるまでの間、障害を持つ息子が私立の高校へと進学入学した時にも保護下に置かれていても生活に困窮し借金をしなくては生きられない状況に追い込まれ、お金が原因の鬱病に取り憑かれてしまっている。
 私は物心ついて歩き出した途端に寝込みがちな母を助けて買い物や炊事等に自発的に動き、その度に負い目を感じたくない母親から小遣い銭を渡され労働の対価としてのお金が結構貯まっていたためお金がない状況には全く慣れていなかった。
 ところが押し込み強盗のような形で無理矢理結婚を迫ってきた相手は「ヒモになるのが夢やったき」と入籍後にヘラヘラ笑いながらほろ酔い加減で既に妊娠させられてしまっていた私に直接言って来るようなサイコパス野郎だった。
 職場を変わる度に何故か男性から好意を持たれストーカーされたりもしていた自分はこの男もその類いの物好きかと勘違いしていたのでその言葉に頭の中が真っ白になってしまった。
 そもそも死に損ないな自閉症の自分が社会に踏み出した理由は20歳迄に死ななかった身体の弱い自分が肝硬変で死にかけた父親を前にして此の儘だと自分は母やきょうだい達の寄生虫のようにして生き長らえる事になってしまうかも知れないという恐怖があったからだ。
 それをこの男はまさか自分より弱い立場にある女性に寄生虫のようにして養って貰うのが夢だったと抜かしたのである。
 結婚してから信頼関係を構築していき相思相愛を目指そうと儚い希望を描いていた自分の考えはいとも容易く打ち砕かれてしまった。しかも私のお腹の中にはその寄生虫が産み付けた幼虫が育ち始めていた?!いや、我が子をそんな風に考える冷血さは私には具わってはいなかった。
 35歳で初めての妊娠、自閉症で自分からは他人との接点を持てない自分には奇跡としか思えない新しい血縁者の誕生である。
 お騒がせな姉は妊娠中から母のところに入り浸り自分には子育ては無理と思ってか姪っ子が6ヶ月の時に一度夫のところに戻りはしたものの、仙崎の漁師町の長男の嫁であることにも改めて気付かされ、我が家の一大事から長女としての面倒から逃れんが為に寿司屋チェーン店でアルバイトしていた自分の目先に突如として湧き上がった店長との縁談話に飛び付いたまでで相手に対して恋愛感情が存在していたわけでも何でも無かったのだろう。
 実際のところ美形だった姉は火遊びのお相手に事欠くことはなく、2、3人と同時に関係を持っていた時期もある。既婚者やら妹達より年下の高校生と手つなぎで川沿いの土手を散歩していたりとかザラだった。資生堂の美容部員をしていた時分はどうしようもなくモテていたらしく、写真館、喫茶店、カメラ、シルクスクリーンにアートフラワーと男性からの影響でスクーターを乗り回し活動的に動き回っていた。
 そんな恋多き派手好みの姉が地味な主婦で満足できるはずもない、子育てに専念する訳もない。
 母のところに入り浸り、出産も母親が付きっきり、子育て相談員としてアピロス・ダイエーに定期的に母が出掛けたり、付添婦として稼ぎに出たりしたのも姉の居候を養うためだったが、私の仕送りやふるさと宅急便も母を助けたり姪っ子を喜ばせたかったからだったが、私の妊娠中にも出産の時も母が心配して足を運んでくれたことさえなく、病院主催の慶び膳で初めて両家の母親同士が顔合わせを果たした程だった。
 姉は出産前に安産祈願の八所宮のお守りを送り付けてきたが、そもそもが彼女が再婚の折に相手を紹介するより先に私とは縁を切ると言ったことによって新しい家族を欲した故の災難だった訳で何を今更と言う気持ちからそのお守りは二度目の結婚相手の勤務先に送り返してやった。
こちらからも絶縁状をお返し致しますと言う覚悟だった。
 何があってもあなた方のような碌でもない人でなしとは関わりたくないと言う意思表示のつもりだった。

 もう26年も前の話になってしまった。
姉とは27年も顔を合わせてはいないし、母と最後に逢ったのも平成10年の11月以降一度もなく後は電話だけ。
 大阪の伯母が亡くなった事を知らせも受けていないのかと嘲笑う妹と電話で話して以降は電話も掛けてもいない。
 勿論あちらから掛かってきた事すら一度もない。
 宗像市内に治療院を開業していた弟に人工股関節前置換術の入院の保証人欄に記名して貰おうと訪ねたのが身内との最後の接触になった。
2010年の5月のこと。弟はお金を返せとでも言うと思ったのか「警察を呼ぶぞ!」と威嚇してきたし、奥にいたお嫁さんに警察に電話してって叫んでた。挙げ句杖をついた私を外に無理矢理押し出し扉を閉めた。
 手ぶらではなく、不二家で買い求めたアソートケーキと一緒に。私を保証人にしたときは挨拶一つ無く留守宅に置いていた印鑑を勝手に押して顔すら逢わせずに帰っていた癖に。おまけに入院治療費も私に払わせた。弟が浜の町病院で扁桃腺の手術を受けたときの話。
こんな身内しかいない私、息子や娘の家族としてのハードルは
極めて低い。生きていてくれればあとは私が何とか守る努力をするからね。役場通いは怖いけど子供達のためだと言い聞かす。
思えば優秀な反面教師の親族ばかり、せめて二人の前途には誠実な人との出会いがありますようにと願わずにはいられない。

2024/02/17

2024-02-27 04:15:38 | 日記
自分は生まれながらのアスペルガー症候群だ。
もしかすると愛情遮断症候群もあったかも知れない。
何しろ両親からは名前さえ付けて貰えず、1歳8ヶ月だった姉にまるでペットに名前を付けさせるようにして名付けられたらしい。
流石に漢字はまだ知らなかったので母方の祖母の名前の漢字と姉の名前のお尻に使っている美しいという漢字をくっ付けて適当にそれらしい漢字を宛がわれた。
しかし、本当は祖母の戸籍上の名前は曾曾祖父が付けた「哲」と言う名前でおよそ女の子らしからぬ名前であり、その為に普段使いに㊙子という名前を使っていたと言う話だ。
江戸時代中期からずっと苗字帯刀が許されていた大庄屋の家だった母方の祖母の家は名前をそんな風に占い師によって後から付けて貰った呼び名と二つ持っていたりする女子がいるようで祖母の他には母達きょうだいでは末っ子の母が本当の名前と呼び名とを持っていた。
理由としては、母の本名だと男勝りに過ぎて男性を縮み上がらせてしまうからだとか何だかそんな理由で呼び名が、当時よく当たると評判だった熊本の方に住んでいた占い師に付けて貰ったらしい。
 もっとも戸籍名で手紙を出したり書類に記名したりするのは当たり前だし、今のように外国人達が日本人を偽るために使う通名とは全く違う種類のもので、名のある家柄に生まれたもの達が幼名を付けられていたのに似て弱く幼い時期を厄から逃れさせる為に付けられる特別な名前だ。男性と違い女性は一生を通じて男性社会となってしまったこの日本においては弱い立場にある為、明治以降になっても男運が悪くならないようにともう一つの名前で呼ばれていたらしい。まあ、水商売でも源氏名?なんていうものもあるし、芸能人も芸名を使ったりするようだけれども。

 でも日本では男児の方が夭逝する事が多かったせいで幼名を付けるのが殊大名家で通常化していたんだろうし出世する事によっても名前が変わったりもしていたらしい。
豊臣秀吉なんかがその最たる人物だと言って良いだろう。
彼には最初苗字さえなく、「木下」姓は妻である「ねね」の生まれた家のものであった。漢字にも示されているのが興味深いが「かばね」と言う文字は女から生じると書く。
古くはこの地で生きてきた縄文人の血が弥生人達の侵略によって滅ぼされても尚、縄文女達の血筋によって脈々と受け継がれて来たことにも通じるように勝手に想像していたりする。
縄文時代のこの島国は女性によって統治されており、侵略と略奪に向かいがちな力を行使したがる男性社会と違い和合に向かう柔軟な女性社会だったとか。それで一万年もの間平和が保たれてきたんだろう。
 しかしながらこの地にも弥生女が入り込み他の命を喰らう邪悪な者達で溢れ返ってしまった。

中国商人とトリニティカルトに狙われてきた金銀財宝と命の水に恵まれた神の治める島国。

 織田信長と弥助なる人物も名前こそ日本人のようだがその正体は縄文の血筋とは異なる白人と黒人であった可能性が高く、それ故に成敗されたのかも知れない。
 彼等は外の国々から乗っ取り易くするために天下統一を図ると同時に縄文の血を引く第二のマリアとなり得る日本女性達を世界中に性奴隷として分散させ、貶め穢し尽くし二度とイエスが生まれてこないように先手を打とうとしたのかも知れない。
でなければ、その時代にそれまでは男性同様店を開いたり家長としても仕切っていたりした女性の人権がいきなり著しく貶められた理由が思い当たらない。バテレン大名達によって火薬1樽に対して娘達が50人、一万樽の火薬と50万人もの縄文の花嫁達が交換されて行ったと言う悍ましい時代。
 妄想するに「ねね」さんは縄文時代の支配層にあった血を継ぐ者であったのでは?彼女が表に出ることなく夫を操り、日本娘達の流出を止めさせたのではないだろうか?と。
 偶然にも木下姓を名乗る祖母の実家の辺りは知る人ぞ知る卑弥呼の里が存在し、帯刀していた刀が事もあろうか妖刀「村雨」、おまけに豊臣秀吉由来の菩提樹から作られたと言う数珠が曾曾祖父が刺客に襲われた折に懐に抱かれていてとばっちり受けた母に譲られていた。(婿養子には譲られず、菩提寺に預けられた妖刀「村雨」。母によるとそこの住職からしつこくその数珠を譲って欲しいと懇願されたそうだが、坊主と言えば呪いの主も同然だったから譲らなかったそうだ。)
ノミのような刃物で襲われ、まだ赤ん坊だった母の足の親指が皮一枚で辛うじて繋がる状態。襲った男の始末は母の口からは語られることは無かったが昭和初期に至ってもそのような物騒な目に遭わされてきた家柄であることは確か。
 曾祖父母は長男として祖母達に弟が生まれ、そして布団によって窒息死した後に日を置かずに不審死を遂げている。家には曾曾祖父のところに後妻で入った女がおり、彼女はどうやら旅の托鉢僧と繋ぎを取っていた節がある。
その托鉢僧が「この家は三代で滅ぶ(滅ぼす)」と言葉を残して去ったそうだが三代目にあたる跡継ぎの男の赤ちゃんが窒息死して初めて授かった男児を失った悲しみから二代目にあたる夫婦が相次いで絶命し、遺された三人の孫娘を育てた江戸時代生まれの当主が長女に婿取りをし、次女に4人目のひ孫(母)が生まれて懐に入れて散歩をするまで気丈に生きていたけれど、跡取り娘が懐妊したのは母が生まれたときの胎盤の上に験を担いで座った後だったそうで曾曾祖父が他界した直後に豹変した婿養子は乗っ取り一味だったかも知れなかった。
 婿養子との間に男、男、女と長らく子が出来なかった祖母のお姉さんに子供が授かりだしたのに男の子だから夭折する事なく婿によって始まった今で言うところのDVによって子供達が幼い頃に母親はいびり殺されてしまい左褄を取っていた仲間の女が後妻で入り込み木下の家の家系図古文書の類いやら戦国時代の名残のものなどをどさ回りの役者等に受け渡し本当に3代で滅ぼされてしまった。
乗っ取りやの息子達は二人とも母を死に追いやった父親を憎み木下の家を捨てそれぞれ長崎で公民館長、自衛隊で学費を稼いで大学へ進学、卒業後は霞が関で会計監査員の職に就いていたそう。
だが彼等も生きていたとしても90歳代の御年配、特に霞が関で働いていた方の子供は重度の障碍を背負って生まれてきたと聞いたが、障碍と共に生きることは決して容易いことではない。
私だって子供達がいなければとっくの昔に消滅していただろう。
母には愛されなくても母を守って欲しいと言う木下家の最後の生き残りと言われていた祖母からの願いが最後の言葉として直接私に与えられていた。
 へび年生まれの母は寅年生まれの祖母や私からの愛情は伝わらなかったようだけど利用は当然のようにしていた。私の父も寅年生まれ、散々貶めることを言いながらお金はしっかり受け取って感謝はしないでお気に入りの龍や鼠、最愛の猿息子と山分け。
私のお金まで取り上げたのには驚いたけど今となってはどうでも良い、どうせお金は穢れ、祓って清めるために存在する道具。私にとっては富では無いから。

また何を愚痴っていたか解らなくなってきた。